the Namelessness

消したい、が今後の方策を思いつけない、結局名も知ることが出来なかった、敵性の巨大フラグメント。
戻したい、が失われた部分が大き過ぎて、意識の同調での書き込みでは復元が難航している、那由多。

だが、フラグメントのことばかりを考えているわけにもいかない。
今、願いのきっかけの一つとなった場所に立っている。

「それじゃ、そろそろ帰るけど。足りない物があったら、また明日言ってね」

鞜賀見市民病院、入院棟、4階の個室。
替えのタオルなどを詰めてきたボストンバッグを閉じながら、真二は屈託の無い笑顔を見せる。

もともと温厚で物静かではあるが、真二が心から穏やかな表情と言葉を向けるのは。
父と母、二人にだけだった。

「ああ。ありがとう。……真二」
「何?」

ドアに向かおうとしていた真二を、衰弱し憔悴しきってはいるが生きる気力に満ちている父が静かに呼び止める。

「……毎日、済まない。お前と母さんにばかり迷惑を掛けて」
「やだな、そういうことは治ってから言ってよ」

もう一度笑い掛けてから、真二は廊下へ出た。

父への笑顔は、演技などではない。
が、ドアを閉め、そこで立ち止まって俯き、俯いたまま廊下を歩き出した表情には、苦渋が滲む。

(僕は……無力だ)
(まだ何も恩返ししてないのに)
(何も……無いのか? あと半年……父さんを救う方法は、本当に無いのか……?)


同時刻、5階の個室。
少女は珍しく、駄々をこねている。

「やだ。かえっちゃやだー!」
「……ごめんね。息吹を治すためには、パパがお仕事しないといけないんだよ。おうちに帰ったら、いっぱい遊ぼうね」

この父親も、真二と同じような胸中を隠しながら笑う。
父のコートを掴んでいた両手を渋々放し、少女は俯いた。

「うん……だったら、ねー、おはな、もってきてくれる?」
「……ごめんね。ここは、お花の持ち込みが禁止だから……」
「えー!? なんで!?」
「そういう決まりなんだよ。おうちに帰ったら、いーっぱい咲いてるからね。頑張ろうね」

鞜賀見市民病院は、一般病棟では、見舞いでの生花の持ち込みを禁止してはいない。
ただ、他の重度の入院患者と同じく、花や水が起こし得る感染症は、今の壱岐息吹いきいぶきには大敵だった。

それについて説明しようとすると、第一に幼児には難解であり、しかも病状が重いことをセットで語らなければならない。
父としては、自覚症状が無い息吹の不安を煽りたくはなかった。
しかし、真冬ですら母が育てていた鉢植えに囲まれ、花と一緒に育った息吹には、納得出来ない。

父が帰っていった後、ベッドの上で座ったまま、息吹は掛け布団の上で小さな両手を固く握っていた。
6歳の少女に、落胆、退屈、不満、不安、は独りで消化するには重過ぎる。

そして、励ます以外の意図は無い、のだが。
父が繰り返す「おうちに帰ったら」はいつも、息吹の不安を静かに膨らませていた。

(おうち……いつ、かえれるの? ほんとに……かえれるの?)
(いぶき……ママのとこ、いくのかな? パパもおいしゃさんも、ママのときと、おんなじおかおする)

白い病室、白いベッド、白いカーテン、白いサイドテーブル。
ここは、息吹が知る色鮮やかな世界とは違い過ぎる。
自分の病衣、看護師達のスクラブ、女性医師のケーシーなどは淡いピンクではあるものの。
息吹には漠然と、人々が纏うピンクが白い世界に溶けていってしまうように感じられた。

(ちがうよね。いぶき、げんきだもん)

サイドテーブルの上のフォトフレームと絵本を眺める。
両親との写真と、いつも父が持ってきてくれる絵本。
生き生きとした世界を切り取ってきたたった二つの彩りを見ていると、楽しさと悲しさが綯い交ぜになって張り裂けそうになる。
独りで握り締めていることに耐えられなくなった小さな手が、無意識に、絵本の表紙に乗っている栞に伸ばされた。

ページが少ない絵本に、栞は必要無い。
が、それは、男児よりも早熟な女児が、大人のように振る舞いたい、という背伸びであると同時に。
息吹の一番のお気に入りのオレンジ色のガーベラを母が押し花にしてラミネート加工してくれた、世界と今の息吹を繋いでいる宝物だった。
それを両手で胸に押し当てると、自然に呟きが洩れる。

「……どっこもいたくないのに、」

息吹はよく耐えているほうだった。
この歳にしては、鬱憤を父に直接ぶつけない思いやりさえある。
誰にもぶつけてはいけないと分かっているからこそ、独りで居る時ですら、その感情がヒステリックに発露することは無い。
栞を抱き締め、眼を閉じ、歯を食い縛って、自身の内部へ向けて小さく叫ぶ。

「なんで、ずっとずーっと、おちゅうしゃして、おくすりのんで、ねてないといけないの!?」

白い世界から逃れたい願いは。
白い光を放って、不意に形を得た。


4階から3階への階段を下りる真二の傍らに、ポケットの中のスマートフォンから自発的に出てきた那由多が渦を巻く。

「しんじ」
「ん?」

今日未明の時点で、那由多は会話出来るくらいまでには復元されている。
それまで沈黙していた那由多が急に「しんじ。オハヨウゴザイマス」と言った時には、真二は思わず涙ぐんだものだ。
が、那由多がその感動を分かち合ったり真二に感謝したり出来る筈もなく、何を語るにも相変わらず事務的だった。

「新シイふらぐめんと、来ル」
「……何?」
「巨大ナ、強大ナ、」

渦の黄緑が、不吉にちかちかと瞬く。

「危険ナ、ふらぐめんと」
「……!!」


病室に満ちた光が薄れていく。
眩しさに固く閉じていた瞼を恐る恐る開けてみて、息吹は思わずベッドの上に膝で立ち上がった。

「わぁっ……すごーい! きれーい!」

時間にすれば1秒も経っていないであろう、部屋そのものの状態は先ほどと変わってはいない。
ただ。
見知らぬ女が立っていた。

栞を絵本の上に戻してスリッパを履く間も、病室の中央辺りに居るそれから視線を逸らさない。
それへ駈け寄って見上げ、息吹はきらきらした笑顔で話し掛ける。

「ねー、だれ? ようせいさん?」

息吹が「妖精」と言ったのも無理は無かった。
長く波打って途中から木の根のような質感に変化している朱殷の髪、慈愛に満ちた緋色の瞳。
薄く大きな葉を幾重にも重ねたような鶸萌黄のドレスの裾から覗いている爪先は、白い床からやや浮いている。
幼児にしてみれば、突然の怪異への恐怖よりも、優しいメルヘンが現実に舞い降りたようにしか感じられない。

息吹が差し伸べた両手を、澄みきった白い両手がそっと握る。
微笑み返しながら口を開いた赤毛赤眼のそれは、印象通りの温かい声だった。

「……てい、ぎ……定義、して……」
「ていぎ? なにそれ?」

初めて聞く単語に戸惑う。
よく見れば、それは、受信状態の悪いテレビのように、輪郭が揺らぎ続けている。

「名前、よ……私に、名前……」
「え? おなまえ、ないの?」

それも困惑の表情になった。
会話が噛み合わないのは、息吹が幼くて理解出来ないから、というよりも明らかに、それの説明が拙いからだった。

「名前……早く、名前を……」

輪郭が更にぼやけ、膨張する。
それの困惑は焦燥に変わる。
が、息吹には伝わらない。

「ね、ねぇ、だいじょうぶ? どっかいたいの? くるしいの?」

握り合っていた両手を放してドアへ駈け寄る。
ドアノブを回しながら、息吹は振り返って励ますように声を掛けた。

「まってて! いま、かんごしさん……を」

病室の中央に、既にそれは居なかった。
代わりに、眼前に、別の何かが居た。


どこか遠くで、面白がる声がする。

「これはこれは。とんでもない規模の……粗悪品が出来てしまった、ねぇ」


「アレは……!?」

病院の階段踊り場の窓から半ば身を乗り出し、真二は茫然とそれを見送った。
一見、根が剥き出しになった巨木。
しかし、鳥籠のように丸く檻を形作っている根の上には、赤い髪を靡かせる人型の上半身がついている。

「解析完了。生命。生命、有機的事象、司ル、ふらぐめんと」
「せ、生命!? あんな禍々しいモノが!?」

外見上の異質さから受けた印象、ではない。

不定形だが意思の疎通は出来る、那由多。
人型だが「生理的に受け付けない印象」だった、しかしそれは真二の個人的な感想であってファウンダーの少年はどうやら普通に受け容れている様子だった、銀髪のフラグメント。
そして、フラグメントを超える化け物ではあったが(一応)(多分)(自称)人間であり、意思の疎通も(過剰なまでに)可能な、天原唯一。

真二が知る限りの彼らからは、このような印象は受けなかった。
先ほどのフラグメントは、「人間から見て」、「許容し難い」「理解不能な」「存在してはいけない」という存在感のみで出来ていた。

それが上空を横切ったのは一瞬だったが、根の檻の中に、人影のようなものが視認出来た。

「……あの中に居たのは?」
「ふぁうんだー。取リ込マレカケテル。命名、失敗シタ、カモシレナイ」
「やけに迷い無く飛んでいったが……アレはどこへ行こうとしてるんだ?」
「解析完了。母。母ガ居ル方角ヘ、真ッ直グ飛ンデル」
「何のために?」
「アレ、母、壊ソウトシテル、カモシレナイ」

それが消えた方角を見つめたまま、真二は慎重に考える。

「母を壊す、ということには異存は無いが……今のはどう見ても味方になれそうな気がしない。……那由多。アレを追えるか?」
「しんじ連レテ追ウコト、出来ナイ。なゆたダケナラ、なゆたノ一部、千切ッテ、追エル」

(以前と同じ答え、ということは……そういう機能も回復したのか。良かった)
(自分にもともとあった部分を失うのは、きっと大変な苦痛だ。那由多なら痛覚や感情が無いから平気、というわけじゃない)
(僕にしか復元出来ない。僕が責任を持って復元しなきゃいけない)

新たな安堵に眼を細めつつ、しかし新たな脅威の方角からは眼を逸らさず、真二は決定を告げた。

「それじゃ、頼む。視覚を共有していってくれ。僕もすぐに行く」
「行ッテキマス」

那由多の密度が薄れ、人魂のように窓から飛び立つ。
赤い屋根の家までの経路を思い出しながら、真二は足早に階段を下りていった。

が、後ろを駈け下りてきて真二を見つけた看護師に呼び止められる。

「高原さんっ! お、お父様の……御容態がっ……」


それは空を飛び続ける。
それが通過した後の地上では、異変が生じていた。

未だ遠い春を待っていた草木が、一斉に芽吹く。
アスファルトの罅割れていた箇所などは盛り上がって破られ、瑞々しい草が現れる。
街路樹も、その根元の雑草も、一気に若草色を帯びた。
気の早いものに至っては、花の蕾をつけている。

その現象だけ見れば、名の無いそのフラグメントは、童話の具現化だった。
しかし。


「そういえば。この国には、枯れ木に花を咲かせる昔話があったのではないかな?」

正二十面体群のうちの一つが映し出す、上空のフラグメントとその下の地面。

「だが……枯れた木は、甦らぬ。現実で枯れ木が芽吹いたように見えるとすればそれは、枯れていなかった、というだけだ」

市民病院から一直線に伸び続けている、若草色の帯。
拡大してみれば、その歪みは歴然としていた。

「枯れ木に花を咲かせたのは、理不尽に殺された犬を弔った後の灰だそうだが……この現象は、決してお伽噺のような生命の祝福ではない」

太陽を謳歌する草木達の下では。
それらとほぼ同数と見られる草が、冬の自然な枯れ方ではなく、急激に生命力を失ったように黒ずんで地に貼りついている。

「あのフラグメント……今、便宜的に“名無し”と呼ぼうか。名無しは、生命達に活力を与えた。確かに生命の守護者であろう、が……全ての生命の、ではない」

別の正二十面体が稼働し始める。

「生態系に“平等”はあり得ぬ。全ての有機的存在は、外側から何かを得て内側で活力に変換することによってのみ活動している。ならば、名無しの加護を得た生命達は、どこから活力を得たか?」

20枚の面に、市民病院の内部が映し出された。


看護師の緊迫した表情と声からは、最悪の事態しか思い浮かばなかった。
看護師を追い越して、父の元へ駈け戻る。

病院、しかも重度の入院患者の病室、ということも忘れて、真二らしくもなく荒々しくドアを開け放った。
そこには。

「……父さん?」

父が座っていた。
自力で起き上がることもままならなくなっていた父は今、ベッドにごく普通に座り、茫然と自分の両手を見つめている。

「……真二。これは、一体……」

父が顔を上げ、真二に問うでもなく問い掛けた。
その両手、のみならず病衣から出ている肌はどこも、健康な血色と張りに満ちている。

病室へ飛び込んだ時の勢いが削がれた真二と、真二を見たままスリッパを履いた父が、よろよろと歩み寄る。
二人とも、いつの間にか涙が溢れていた。
状況が呑み込めないながらも、二人は固く肩を抱き合う。

「……どういう……ことなんだ? 全然……痛くない。苦しくも怠くもない。前と同じように……いや、前より元気になったような気さえする……真二。本当に、これは、一体……」

涙を拭いもせず、父は同じ問いを繰り返す。

「分からない……分からない、けど……奇跡、なんじゃないかな」

涙を拭いもせず、真二は身体を離して父に笑い掛けた。

父への笑顔は、演技などではない。
が、この異常な現象に対して、真二が「奇跡」の一言で片付けて思考停止する筈もなかった。

(そういえば……さっきのアレは、生命のフラグメント……だったか? まさか、その影響で? それなら、もしかして……他の重度の患者さん達も?)

「ちょっと先生を呼んでくる、温かくして待ってて」
「あ、ああ」

ベッドに戻るよう父に促してから、真二は足早に廊下へ出る。
すると、隣室のドアが開いた。

父の見舞いの際に何度か顔を合わせたことのある、年配の男性患者が出てくる。
その患者もまた、真二が最後に見た時よりも明らかに生き生きとしていて、そのことに混乱しているらしかった。

「あ、あの、た、高原さん、私、体調が変なんですが……」
「だ、大丈夫です落ち着いて下さい、僕の父も変なんです」

見るからに健康そうな患者、落ち着かせようとして自分も未だ落ち着いていない真二、どちらもおかしなことを口走る。
そうしている間にも何枚かのドアが開き、血色の良い患者達が、困惑しきった表情で廊下を見回していた。

(やっぱり、あのフラグメントの影響で間違い無い……か。僕がやろうとしてたことのうちの一つを、他のフラグメントが叶えてしまうなんて。いや、父さんが治るのならどんな方法だって構わないんだけど)

しかし、駈けていく看護師達に、「患者達が突然快方に向かった」という喜ばしい空気は感じられない。
無論そんな現象は異状であって医療現場が混乱しても当然なのだが、そうではなく。
廊下を駈け抜ける空気は明らかに、ぴりぴりと張り詰めていた。

看護師が看護師へ掛ける声が飛び交う。
病院、しかも重度の入院患者の病棟、ということも忘れているらしき看護師達は、いつしか悲鳴に近い叫び声になっていた。

開いたドアとほぼ同数の、開かなかったドア。
看護師達は、そこへ駈け込んでいく。
発端は、たまたま見舞いに来ていた者達によるナースコールだったらしい。
入り乱れる叫び声から状況を把握した真二は、その場に棒立ちに立ち尽くしていた。

(突然死……!? こんなに大勢が!? どういうことだ、あのフラグメントは生命を守護する存在じゃないのか!?)


「名無しは、生きる力のある者にのみ力を与えた。その力は、各々が持つ病から生き残る手段を持たぬ、即ち、生きる力の無い者から供給された」

正二十面体の一つの面には勿論、真二とその父の姿も映し出されている。

「生き残る手段、とは。自力での回復でも、他者による治療でも、何でも良い。だが、例えば……肉体が回復する余地があるにもかかわらず精神が回復を阻害している者、治療法が確立されていてもそれを享受する基礎体力や経済力が無い者、等、全てのシミュレーションにて生き残れぬ者全てを、名無しは淘汰の対象と見做したようだ、ねぇ」

急死した患者の人数に対して、医師の人数が圧倒的に足りない。
入院棟は混乱の極みにあった。

「名無しによる大量殺人のように見える、が……これは、フラグメントが人間を害する、というケースには該当しない。何故ならば、あの名無しを、ファウンダーの幼子、そしてビリーバー達、即ち人間が行使しているからだ」


その時刻、陽向は、赤い屋根の家へ続く道を歩いていた。

「痛っ」

三叉路を曲がったところで、民家の生け垣から突き出ていた枝に手首を引っ掛ける。
尖った固い枝は、冷気に乾燥した肌に容易く傷を作った。

(うわ、血ぃ出てきた。……なぁ、お前、カミサマなんだろ? こういうの、治す力とか無いの?)

浮遊しながら一歩前を往く裁は、陽向の呼び掛けを受信すると、ちらりと横目で見ただけで、ぷいっと前を向いてしまった。

(無い。あったとしても、お前の不注意によるその程度の掠り傷など、治してやる気は無い)
(はいはいそうですかー……)

陽向が見知っている他のフラグメントは、美麗が持つ恋華だけだが、それと比べて裁は冷た過ぎる気がする。
一旦会話を中断し、内心で愚痴を零す。

(どうせ来るんなら、ああいうのが良かったなー……)
(優しそうな感じだったし、美麗のことも尊重してるみたいだったし。こいつも、もうちょっと俺への思い遣りがあってくれればなー……)

恋華を思い返して肩を落としながら、裁の背に向かって恐る恐る呼び掛けを再開する。

(なぁ。またあの家に行って、どうする気?)

今日の午後まで黙り込んでいた裁は、学校でいきなり「今から母のところへ行く」と言い出した。
それで慌てて早退してきたが、取りつく島も無い裁の冷淡さのせいで、その程度の質問を今までずっと切り出せなかった。
しかし、返事は、予想外に建設的だった。

(お前が言ったのだ、人間側のことも知らぬではないか、と。だから、知りに行く)

自分の意見が取り入れられたことで、陽向は少し表情が明るくなる。
が、

(そ、そう! 良かったー、ちょっとはお前も堅実に……)
(そして、母のファウンダーに、一つでも、僅かでも、義に悖る行いがあれば、ファウンダーを滅する。そうすれば、母も消える)

間違った方向性の取り入れ方だった。

(んなぁっ……何それ!? 要するに、粗探ししに行くってこと!?)
(言葉が悪いぞ。正なる義の基準に基づいて裁くだけだ)
(待て、待ってってば! お前ずっと大人しくしてたと思ったらそんなヤバいこと考えてたわけ!? 大体、一つでも、僅かでも、って何!? 例えば、誰かと口喧嘩した、とか! ゴミを道に捨てた、とか! 電車でお年寄りに席を譲らなかった、とか! ま、まさか、そんなのもカウントしちゃうの!?)
(そうだ)

当然ではないか、という表情で裁が振り返る。
陽向は言葉を失ってその場に立ち竦んだ。

(とはいえ、私の意思のみで、人間を殺すことは出来ぬ。お前の同意が必要だ)
(ど……ど……、「同意するとでも思ってるのか!?」

いつも裁に押し切られているばかりの陽向が、さすがに爆発する。
思念での呼び掛けを忘れて途中から思わず叫んでしまい、慌てて自分の口を押さえたが、感情のほうは抑えられない。

(そ、そんな理由で人を殺していいわけないだろ!)

裁が、怪訝そうな眼になる。

(何故だ?)

それは反論ではなかった、ただの質問だった、陽向の言葉が本当に理解出来ていないらしかった。
否定されるなどとは想定さえしていなかったらしい、純然と「そうするのが当然」と考えているらしい、と気付いた陽向は慄然とする。

(お前が望んだのだ。正なる義を行使する者を)
(だからぁ! 初めに言ったよね!? 俺はそんなこと、考えたことも、)

自分の言葉で、ふっ、と陽向の思考が白くなった。

(……無かった?)(ほんとに? 一度も?)

言葉を遮ってしまった白い疑問の上に、裁の問い掛けが被さってくる。

(暴力、言葉、過失、如何なる形であろうとも理不尽なる危害が存在してはならぬ、と。本当に、ただの一度も、願わなかったか? 倫理と規範と常識に護られた、善良なる者のみで出来た優しい世界を。本当に、ただの一度も、望まなかったか?)

17年間しか見ていない、社会。
それはつまり大半が学校生活だが、家と学校と塾の間を行き来するだけの生活でも、小さきは不快感から大ききは心身への危害まで、様々な悪意を見聞きしてきた。
自室へ帰り着いてフィギュアを見る度に、誰も傷つけたことの無い陽向はささやかな義憤に駆られてきたものだ。

(確かに……それは……思うこともある、けど……3千年ぐらい、変わらなかったんだ。俺なんかにどうにか出来ることじゃなくて、きっと誰にもどうにも出来なくて……)

内心の抵抗が、裁に聞こえた筈はない。
しかし、裁は、的確に、そして予想外の方向から、陽向の思考の隙間を射抜く。

(だからこそ。世界はおろか自分の環境さえ変えられぬ、平凡なる者達の。共通する願いを束ねて、最初に条件が揃ったお前がファウンダーとなった。だからこそ。歩みを止めるな。お前は、義を行使せねばならぬ)

聞き分けの無い幼児に言い聞かせるように一言一言区切りながら説得を試みる裁を、陽向はただ、茫然と見つめ返していた。

(俺は……もしかして……とんでもなく危険なモノを喚び寄せた、んじゃないか? 俺が許可しただけで、こいつは……平気で人を殺す、のか!?)


その時刻、佳月は、下校の道を歩いていた。

「いったーいっ」

連続殺人はぴたりと止んでいたが、その不気味な静けさが逆に市民の不安を煽り、保護者同伴の登下校は解除されていない。
集団下校の班から別れた最後の一本道で、無何有と並んで歩いていた佳月は、石に躓いて転び、両掌を派手に擦り剥いてしまった。
顔を顰めてそっと砂粒を払う間、無何有は黙って立ち止まって待っている。

「ね……ねぇ。かあさんって……かみさま、なんでしょ? おけが、なおせる?」

理央と一緒に居る時、佳月はいつも、途切れない会話が楽しかった。
痛い時や困った時、理央はいつも、手を差し伸べ、気遣う言葉を掛け、適切な対処を教えてくれた。
こういう時でさえ一言も発しない無反応に不安を覚えた佳月は、「傷を治したい」というよりも「会話の糸口を見つけたい」という様子で恐る恐る訊く。
無何有は、瞬き一つせず、事務的に答えた。

「いいえ。無何有は、治癒は不可能です」
「そ、そう……あ、あの、それじゃ……しんじゃったもの、いきかえらせるのは?」
「いいえ。無何有は、蘇生は不可能です」
「そ……そう……」

初めて聞く単語でも、最初の「いいえ」だけで充分理解出来た。
佳月は項垂れる。

(……そっか。だから、おかあさんのおけが、なおせなかったんだ。おかあさんを……いきかえらせられなかったんだ)
(かみさま、って……なんでもできる、んじゃないんだね。にんげんと、おんなじ……なんだね……)

怪我の痛みにじわじわと両手を苛まれながら、佳月は俯いたまま歩き出した。


そして、常陸陽向と天原佳月は、出逢ってしまう。


足音が二つ、三叉路を曲がってくる。
裁の言葉からの逃げ道を探していた陽向は、背後を振り返った。

ベージュの真新しいランドセルを背負った、恐らく1年生くらいの子供。
その傍らを歩いている、母親らしき女性。

子供が立ち止まり、見ず知らずの陽向に、思わず見入ってしまうような眩しい笑顔を向けた。

「こんにちはー!」
「えっ……? こっ、こんにちはっ! え、偉いね、きちんと挨拶出来て」
「はい! みちでだれかにあったら、げんきにごあいさつしましょう、って、ようちえんのときにならいました」
「いや、習った通りに出来る子は少ないよ。お嬢ちゃん立派だね」

少しでも裁との会話から逃れていたくて話を広げようとしたのだが、子供は急にテンションが落ちて下を向く。

「……ぼく、おとこのこです……」
「ぇ……ぇえっ!? ごっごめんねっ、ランドセル茶色だから分かんなかったよほんとごめんねっ!」
「ぼく、あかがすきだから……ランドセル、ほんとは、あかいのがほしかったけど……おんなのこにまちがわれるりつがたかくなる、っておもったから、ちゃいろにしたのに……これでもやっぱり、まちがわれるんだ……」
「え、えっと! ま、間違えちゃったのは、そのぅ、それだけ可愛いってことだよ! だから自信持って! ね!?」
「うーん。かわいい、より、かっこいい、になりたいんです。おとうさんみたいに!」

言っているうちに自分の言葉で元気づけられたように、子供は顔を上げてまた笑顔になった。

どくん、と陽向の心臓が鳴る。

「……お父さん……、好きなの?」
「はい!」

(これぐらいの歳の時、俺は……同じ返事が出来た、かな。今、同じ質問をされたら、俺は……同じ返事が出来る、かな……?)

父だけでなく、母も、姉も。
陽向にとって家族とは、ごく稀に家の中で見かけるだけの、好き嫌いどころか何の興味も無い存在だった。
形式張った書類で続柄を記入する時にフルネームを思い出すだけの、単なる表札だった。

そんな陽向の胸中に気付く筈もない子供が次に口を開いたのと、裁が飛ぶように一歩後方へ下がったのは、ほぼ同時だった。

「おにいさんとおねえさんも、いま、がっこうのかえりですか?」
「え? あ、ああ、うん、帰りっていうか、……え?」

漠然とした憂鬱が、一気に激しい動転へ塗り替えられる。
喋ろうとしない裁とも話したいと思ったのか、子供は裁を真っ直ぐ見ていて、陽向の動揺には気付いていない。

(『おねえさん』? この子……裁が視えてるのか!?)

何故か、子供のほうも、陽向と同じように話を広げようとしている。
しかも、会話を繋いでいく力は、陽向よりも優れていた。

「おねえさんのせいふく、かっこいいですね! どこのがっこうですか? そんなの、みたことな……あれ?」

上から下へ、と裁に視線を走らせた子供が、驚きの声を上げる。

「すごーい! ういてる!」

怯えではなく。
手品やサプライズ企画に喜ぶような、純真な驚きの声だった。

「どうやってるんですか!? やりかた、おしえてください! おとうさんなら、かべをはしったりのぼったりできるけど、ういてるのはみたことありません!」

(やっぱり視えてる!? っていうか壁を走れるお父さんって何!?)

子供は興味で半歩進む、陽向は混乱で半歩下がる。
陽向に、鋭い思念が飛んでくる。

(母だ!)
(は、母……って、どっちが!?)
(大人のほうに決まっておるだろう! それすら分からぬほどの馬鹿だったのか!?)
(だ、だって! お前が視えてるってことは、この子が……)
(ファウンダー、としか考えられぬ)
(あり得ないだろ年齢的に! 母っていうのはスっゴく強いんだろ!? この子がそんなの喚び出すとか考えられないよ、だからこの子が母なのかなって思っただけだよ! 大体、こっちの人だって、普通のお母さんにしか見えな、い……)

言葉を声に出している時と同じように、語尾が薄れて消える。
女性のほうを見て眼が合った陽向の思考は、完全に“無”になった。

(人間の抜け殻を着用しているゆえ、気付くのが遅れた。コレの中身は、母だ)

裁の声が飛んできても、思考の表面を撫でて通り過ぎるだけで、全く頭に入ってこない。

「普通のお母さん」にしてはすらりと長身で美人過ぎるが、身形は至って質素で慎ましい印象の女性は。
表情豊かな子供のほうとは違って、最初から今まで、愛想笑いの一つさえ見せない。
その無表情の中の、眼だけが異質だった。
陽向達を映していつつ何も見てはいないかのような、完全な“無”だった。

見ていない眼で見つめたまま、女性が初めて口を開く。

ぽつり、ぽつり、と。

「……コレは、粗悪品です」

主語がくどい初級の教科書を、機械が読み上げるように。

「粗悪品は、回収されなければなりません」

誰に向けて話しているのか判然としない、独白に近い形で。

「無何有は、粗悪品を、回収します」

死の宣告を。


裁が剣を抜き放つ、無何有の輪郭が揺らいで黒い霧状の触手が立ち上る。
その期に及んでなお、陽向は無の呪縛が解けていなかった。
立ち竦んでいる陽向よりも先に、佳月が反応した。

意味は知らないながらも、佳月は「粗悪品」と「回収」という単語を覚えている。
あの時、怪物のほうは霧散し、人間のほうは惨死し、どちらも跡形も残らなかった。
人間のほう、瀬度鉄成、を殺したのは無何有ではない、ということまでは知らない。
ただ、無何有が理央の声でその二つの単語を発すると“生きているもの”が死んだ、ということだけは朧げに理解していた。

「だめ!」

明白な怪異を纏っている無何有の正面へ回り込み、腰にしがみついて見上げる。
その声で、裁は思わず構えを緩め、陽向は我に返った。

「かあさん! かいしゅう、っていうの、しちゃだめ!」
「何故ですか」

裁から眼を離さず、無何有は機械的に訊く。

「かいしゅう、したら、しんじゃうんでしょ!? だから、だめ!」
「粗悪品は、存在してはならないモノです。従って、回収しなければなりません。そして、天原佳月は、無何有のファウンダーではありません。従って、天原佳月に、現時点で、無何有の存在理由に干渉するレベルの命令権はありません」
「え……よ、よくわかんない、けど……じゃあ、だれのいうことなら、きいてくれる!?」
「天原理央、のみ。です」

佳月は陽向達に背を向けていたが、二人から見ても、佳月が衝撃を受けたのは明らかだった。
ゆらり、と無何有から離れ、佳月が俯く。
が、顔を上げた佳月は、涙をいっぱいに溜めた眼で、真っ直ぐ無何有を見つめた。

「おかあさんなら、ぜったい、ぼくとおんなじこと、いうよ。……めいれい、じゃなくて、おねがい、ならいい? いきてるものが、しぬの、いやだ。おとうさんが、いつもいってるよ、たべるものとあぶないものいがいは、ころしちゃだめだって。だから……このひとたち、かいしゅう、しないで」

裁から眼を離し、無何有は機械的に佳月を見下ろす。
見ていない眼で見つめながら、やがて、この場の誰にも理解出来ない言葉を発した。

「……制限第2項への抵触を予測しました。回収を、保留します」

黒い霧が、ふっ、と掻き消える。

「え……あ、あの、かあさん? やめてくれる……の?」
「はい」
「ありがとー! おねがい、きいてくれて!」
「いいえ」

また腰に抱きついた佳月に揺さぶられながら、無何有は棒立ちのまま答えた。

「回収の保留、は。『おねがい』というものによる理由ではありません。天原佳月本来の正常なシミュレーションを阻害しないためです」
「なんでもいいよ! ありがとー!」
「……天原理央の記憶に、『礼は2回も言わねぇの』という言葉が存在します。従って、『ありがとー』は1回であるべき、と判断します」
「うん、わかった。ありがとー」

よく分かっていない佳月が、泣き笑いの顔でずっと抱きついている。
その佳月へ、無何有は初めて両手を伸ばし、

佳月を抱えるなり、大きく後方へ跳んだ。


陽向は眼を疑う。
裁が、剣を横薙ぎに振り払っていた。
無何有が退がっていなかった場合、その剣は、無何有の首を刎ねていた。

「……さ……い、何……してるんだ!?」

裁は陽向を振り返らない。
切先を無何有と佳月に向けたまま、次の隙を窺っている。

「詳細は分からぬが、回収は保留された。しかも、母の性質には不都合な、人間の抜け殻を着用している。つまり、母を斃す機は、今しか無い」
「おま……え、何、言ってるんだ!? その子が止めてくれたんだよ!? その子の眼の前で、そんなっ……、」
「もう少し、物事の先を考えろ。母は『保留』と言ったのだ。保留する理由が無くなれば、回収は再開される」

裁が更に一歩踏み込んだ、その腰に陽向は反射的にしがみついた。

「何をする!? 触るな訴えるぞ!」
「どこにだよ!?」

剣の鞘頭ポンメルで頭をがつがつっと叩かれるが、陽向は怯まない。
焦り、怒り、で必死ではあるが、思考の一部は感情とは無関係に、自分でも驚くほど冷静だった。
渾身の力で制止しながら、これから言う内容を鑑みて、無意識に思念での会話に切り替える。

(お前のほうこそ、物事の先を考えろよ! この前行ったのは、この二人の家だったんだろ!? あの家の前で、俺はいっぺん捕まってる。俺が今日ここに来たのだって、絶対に誰かが見てる。今ここでお前がこの人を殺したりなんかしてみろ、何の証拠も無くったって確実に俺が疑われる。ただでさえ大型の凶器での事件が続いてたんだ、そっちまで疑われる可能性だってある。俺が身動き出来なくなったら、お前も困るよな!?)

数秒後、裁が全身の力を緩めたのが陽向の両腕に伝わった。
思わず少し表情を綻ばせて、陽向はそろりと裁から離れる。
呼び掛けではなく、純粋に内心の独り言として、安堵の呟きを洩らした。

(よ、良かったー……我ながら、よくこんな説得が思いつけたなー。こいつには多分、感情に訴えても無駄なんだ。理詰めじゃないと聞く耳さえ持たな)

呟きの途中で。
陽向は、宙を舞っていた。
一瞬遅れて腹の上辺りに痛みが、更に一瞬遅れて尻餅の痛みがやって来た。

茫然と裁を見つめる。
裁は、気を緩めた陽向を、振り向きざまに鞘頭で突き飛ばしていた。

(そのもう一つ先を考えろ。お前への疑いは、いつか晴れる。だが、母を斃せる機は、今後いつ来るか分からぬ)

理詰めでも、止められなかった。
陽向の言葉には、自分のフラグメントを止める力さえ、無かった。

(お……お前の意思だけで、人間を殺すことは出来ない……って、言ってたじゃないか……)
(子供のほうは人間のようだが、母は人間の抜け殻を着用しているだけだ。つまり、死体を斬ることと変わりは無い)
(その抜け殻っていうのは、どう考えても、あの子のお母さんだよな!? いや、もしそうじゃなくても、だよ、あの子の眼の前で人を殺すことに変わりは無いだろ!? 絶対、駄目だ!)
(何故だ?)

もはや陽向を振り返ろうともしない裁の、例の“ただの質問”が飛んでくる。

(母は、存在してはならぬ存在だ。それを斃すことに、状況は無関係なのではないか?)

埋めようのない隔絶に、陽向は絶望する。

もしかすると、世界にただ一人、こんなフラグメントをも屁理屈で言い包めてしまえる、言い包められなければフラグメントすら凌駕する力で叩き伏せてしまえる、そんな人間が居る、かもしれない。
が、今、この場には居ない。
自力で切り抜けるしかない。
陽向も、佳月も。

「……制限第1項への危殆を検知しました。回収を保留しているため、反撃が不可能です。回避のみを行います」
「か、か……かあさ、ん……、」

無何有の正面に抱き抱えられている佳月は、真っ青を通り越した白い顔で、震え続けている。
恐怖を緩和しようとする涙が流れ続ける眼を見開き、剣の切先を見つめたまま、がちがちと鳴る歯の間から、声を絞り出した。

「に……げ、て」

言うなり、無何有を後ろへ突き飛ばす。

「お、おかあさん、は、うんどう、にがてだった、から……さっき、みたいな、よけかた、ず、ずっとしてたら、そのおからだ、もたない……」
「この肉体の能力では、天原佳月を携帯したまま、このフラグメントから逃走することは、不可能です」
「だ……から……にげ、て。ぼく、みたから、しってる……よ。おかあ、さんは、」

恐怖による生理的な涙から、感情の爆発による涙に変わり、声が掠れる。

「アレと同じのが、ささった、とき……ぼく、にがす、ために、ささった、ままで、いよう、としたよ……だから、アレ、は……だれか、が、ささってたら、つぎのひと、が、きれない、んだよ……」

陽向は絶句した。
が、恐らくは陽向と同じように佳月の言葉を理解していながら、裁は揺らがない。

「退け。ソレは、お前の母親ではない」
「し……って、ます……」
「知っているならば、庇う必要は無いだろう? 庇うならば、お前も斬る。死にたくないならば、退け」
「……い、やだ……しに、たく、ない、しにたく、ないしにたくない……でも! おかあさん、の、おからだ、に……また、ささるの、いやだ! こんど、は、かあさん、が……いたいおもいするの、いやだ……」

先ほどの擦り傷が痛々しい両掌を握り締めて、佳月は呟く。
もはや裁にも無何有にも向けられていない、自分に言い聞かせる呟きになっていた。

「おとうさんが、い、いつも、いってるよ、じぶんのことば、には……せきにん、もたなきゃ、いけない、って……かいしゅう、しないで、っていったの、ぼくだから……ぼ、ぼく、が、かあさん、まもらなきゃ……」

立っているのがやっと、というほど両膝が大きく震えている。
佳月に突き飛ばされた時のまま、裁とは別種の無感動さで、無何有はそれを見つめていた。

「天原佳月を肉体寿命よりも早く死亡させることは、禁止されています。万一、無何有に危害が及んでも、現在、この肉体に痛覚は」
「裁っ!!」

事務的に佳月を説き伏せようとする無何有の言葉に、陽向の叫びが割り込む。
陽向への理解も、佳月への共感も、一切持ち合わせていないこのフラグメントへの、激昂と否定。

「裁……お前っ! ほんとに、何とも思わないのか!? 最っ低だ! 今のお前は……悪そのものじゃないか!!」


「興味深いね。非常に興味深い、変則的なケースだ、ねぇ」

白衣の老人は、椅子の背凭れに身体を預け、正二十面体群を観賞している。

「強いて言えば、あの病院に居た、病める者全てがビリーバーだった。後からファウンダーが出現し、共通する願いを束ねて、巨大なフラグメントを切り取った。たまたま最初に条件が揃ったのがあの幼子だったというだけで、ビリーバーのうちの誰にでもファウンダーになる可能性があった。が……、」

傍らのチェス盤に、動きは無い。
今の老人にとって、娯楽は、正二十面体群が受信する様々な悲劇だけらしかった。

「誰一人として、ファウンダーやビリーバーである自覚は無い。況してや、『他の人間の命を奪って生き残りたい』と願ったわけではない。『生き続けたい』と願っただけだ、そして強く願っていた者達のみが名無しの加護を享けただけだ。ただ、名無しが採った手段が平和的ではなかった、というだけだ」

生き延びた患者達が、老人が今“名無し”と名付けたフラグメントを認識していない、とはいえ。
彼らはこの先、手放しで喜ぶことは無いであろう。
同日同時刻、同じ場所で同じように重い病に苦しむ者の、半数が超回復を遂げ、半数が突然息絶える、などという現象は奇跡以外の何物でもない。
しかもそれは悪質な奇跡であり、善良であればあるほど、そんなものに救われたということに苦しめられ続ける。

「有機的事象、などというものを定義するには、あのファウンダー……えーっと、壱岐息吹、か、彼女は幼過ぎたな。本来ならば、命名の失敗により、名無しは壱岐息吹を贄としてその抜け殻を着用して存在を保ったであろう。が、贄すらまともに受け取れぬ中途半端な存在になってしまって、名無しと壱岐息吹が混在している。他の、もっと精神的に成熟した人間がファウンダーになっていたとしたら、アレはどんな姿であっただろう、ねぇ」

娯楽、といっても、悲劇のストーリーそのもの、または個々の人間が悲劇に苦しむさま、を楽しんでいる様子は無い。
人々がこの状況下で示す反応は? 共通項は、個人差は? それらの反応は何をバックボーンとして生じたか?
等を、ただひたすらに“知る”ことが楽しいらしかった。
そうやって得た知識が即座に何かに活かせる、というわけでもなく、ただひたすらに“蓄える”ことが楽しいらしかった。

つまり、単に他人の不幸を喜ぶ者よりも、人間から隔絶していた。

「人間は特殊だ、電気信号に過ぎぬ精神が肉体を上回って機能する場合がある。肉体が確実な死へ向かっていようと、それに抗う精神力が一片でも残っておれば、名無しの加護の対象になった、ということか。とはいえ、このような二極化は、著しく世界の均衡を乱す上……、」

別の正二十面体は、市民病院を映し続けている。
勿論、廊下の叫喚に不安を隠せない父を落ち着かせようと、何か必死に話し掛けている真二の姿も、再び映り込んだ。

「全ての生命が平等に繁栄すべき、などと本気で考えている人間達には、到底受け容れられぬだろう、ねぇ」


ファウンダーによる否定は、さすがに裁の動きを止めた。

どこかで、窓が開く音がした。
陽向は我に返る。
思わず叫んでしまったが、その前からも不穏な会話が続いている。
不審に思った近隣住民が道路の様子を窺ったとしても当然だった。

第三者には、裁の姿も声も認識されない。
今この場に居るように見えるのは当然、蒼白で震えながら泣いている佳月、その背後の無何有、そして住民達がこの辺りで見かけない陽向、だけであろう。

(まずい! 早くこの二人から離れなきゃ……って、そうだ、何でこんな当たり前のことに気付かなかったんだ! 俺がここから離れれば、裁も離れるしかなくなるじゃないか!)

裁に突き飛ばされた時の尻餅の体勢のままだった陽向は、がばっと立ち上がるなり、佳月と無何有の反対方向へ駈け出した。
10mほど距離が開くと、裁が何かに引っ張られたように後ろのめりになる。
振り返ってそれを確認した陽向は、確信に満ちて前を向く。

(やっぱり! よし、このまま駅、まで……?)

裁を振り返る前と後では、周囲が変質していた。
木々の緑が眩しい。
落葉樹ならば若芽が息吹き、常緑樹ならば冷気に乾いていた葉々が潤いを取り戻し。
アスファルトと側溝の継ぎ目からは草が生い茂り始め、みるみる盛夏の景色を成す。

思わず足を止める、振り返る、三人と眼が合う。
誰もが、突然の異変の介入に気付いていた。

異変は、次の異変へ姿を変えていく。
周囲が、薄明かりに透かしたような鶸萌黄一色に“塗り潰された”。
今しがたまでのありふれた住宅地の風景は、どこにも無い。
すると、佳月、無何有、裁、の順に、不意に上を見上げた。

つられて陽向も上を仰ぎ見る。
天、というものがあるならば、天高くから、何かが近付いてきていた。

根が剥き出しになった巨木。
鳥籠のように丸く檻を形作っている根。
赤い髪を靡かせる人型の上半身。
そして、葉脈のような筋が無数に浮き出た褐色の顔には、

「さ……裁……あ、アレ、何!?」
「フラグメント、のようだが……」

肉食獣よりも獰猛に見える、虎挟みの歯を思わせる口と、

「アレが!? あんなのが、お前と同じもんなの!? そ、それに……俺達の周り、どうしちゃったの!?」
「コレは……アレが展開した、“箱”だ」
「は、箱?」
「神の支配が及ぶ空間。ファウンダー、フラグメント、またはそれに準ずる者以外、箱の外から我々を認識出来なくなる。要は……隔離された、ということだ」

爛々と緋色に輝く、虹彩の無い双眸。


「おお、漸く御到着か。さて、どちらが生き残るか、ねぇ」

佳月と無何有、陽向と裁、を追尾していた映像はそれぞれ、別々の正二十面体に映し出されていた。
名無しを追尾していた映像も、その地点に着く。
「どちらが」という言葉からは、三柱のフラグメントが対峙したこの場面に於いて、裁が全く老人の眼中に無いことが伺える。

「無何有には消えて欲しくはないものだが、抜け殻の着用はかなりのハンデであろう。ヒトのほうを向いているフラグメントとしては最大規模の名無しと、互角に戦えれば上出来といったところかな。出来れば、名無しにも消えて欲しくはないものだ……が、アレが生き残ったとしても扱いづらそうだ、ねぇ。それにしても、」

老人は、佳月サイドをメインビューとしている正二十面体へ向き直った。

「彼は何といったかな、えーっと、天原佳月、か。君は未だ、父親の言動を素直に吸収しているだけの幼子に過ぎぬ。先ほどの君の行動は、勇気ではなく、無茶、無謀、無鉄砲、といった蛮勇なのだよ」

その独白は、言い聞かせるように優しげだったが、佳月の身を案じる忠告ではなく、多分に皮肉や揶揄が籠っている。

「『現時点で実現不可能なことをしようとするな』と、君の父親は未だ教えてくれてはおらぬのだな。早死にせぬよう、せいぜい気をつけ給え。……ところで、君は、」

それまで楽しげだった老人がふと、眉と声を曇らせる。
頬杖を右から左に替えながら、新たな脅威に凍りついている佳月の映像へ、届く筈も無い問いを投げ掛けた。

「何故、フラグメントが視えている? 自称・人間のあの父親と同じタイプなのか? それにしては、あんな化け物じみた精神力は検知出来ぬのだが、ねぇ……」


地、というものがあるならば、地に舞い降りるなり、名の無いフラグメントは無何有を睨み据えた。
というよりも、最初から無何有しか見ていなかった。

無何有がまた、あの宣言を洩らす。

「……コレは、粗悪品です。粗悪品は、回収されなければなりません。無何有は、粗悪品を、回収します」

名無しもまた、口を開く。
鋭利な歯と歯の間から、意外にも、人語が洩れる。

「驕るな、母よ。私は、貴様に優る。嘗て、無機の殻を最初に破ったのは、私だった。そこから歴史が始まったのだ」

大樹のうろを木霊しているような、深淵からの声だった。

「ソレは、コレと同一のフラグメントではありません。そして、ソレは、既に存在しません。ソレは粗悪品であったため、回収されました。コレも、回収されなければなりません」
「……そうだ。いつも、いつでも……幾つもの私が、幾つもの貴様に殺された。私はもう、戻らぬ。あのような処へは、戻らぬ!」

赤眼が憎悪に濁って輝きを増した、と見るや根の一部がほどけて一直線に無何有へ襲い掛かる。
数十本の根は、無何有の正面に立ち竦んでいる佳月を大きく避けて伸び、無何有を四方から串刺しにした、筈だった。
が、瞬時に湧き出た黒い霧が無何有の全身を覆い、根の先端を霧散させる。
そのことに怯むことも無く、名無しは更に無何有へ躍り掛かっていく。

根の檻の密度が薄れたことで、陽向が気付いた。

「裁っ! あ、アレ……中に誰か居る!」
「……恐らく、ファウンダーだ。命名に失敗したか」

小さな、恐らくは女の子が、円形の檻の中心点辺りに横たわって浮遊している。
ように見えたが、実際は浮いているのではなく、無数の根に支えられていた。
空ろに見開かれた眼は瞬きすることもなく、根が刺さっている全身からも口からも血が滴っている。

(命名に……失敗?)

全身が凍りついた。

(あの時……裁に、名前つけた時……、)

――在り方すら成さぬ場合は、お前の存在を貰い受ける。
――急げ。時間が無い。

(もし、失敗、してたら……俺も、あんな、ふうに!?)

衝撃が通り過ぎた後、陽向は裁に掴み掛かるようにして叫んだ。

「助けられないの!?」

剣を握り締めたまま、裁は立っている。
今、裁は完全に、二柱のフラグメントの衝突の蚊帳の外だった。
つまり、攻防が拮抗している天秤を無何有に不利に傾けるも良し、漁夫の利を狙うも良し、様々な選択の余地がある。

「人間の抜け殻は、有機体だ。無機でありながらそんなモノを着用している母は、力が充分に発揮出来ておらぬ。防戦が精一杯のようだな」

裁が言わんとすることを数秒遅れで察し、陽向が今度は本当に掴み掛かった。

「まさか……アレに手を貸そうとか思ってるのか!? 人が! 子供が! 食われかけてるんだよ!!」

二柱を真っ直ぐ見据えている裁は、明らかに迷っている。
この状況での逡巡など、陽向は認めない、許さない。

「お前、正義なんだろ!?」


黒い霧が薄くなった箇所を、錐状に縒られた根が狙う。
霧を貫通した根の先端が、無何有の眼を射抜こうとした、その寸前で。

根の錐は、断ち切られていた。

初めて、名無しは裁へ視線を移す。

「……脆弱なる神よ。私は、お前達の源。有機的事象の一部に過ぎぬ人間の、更に一部に過ぎぬ義を司る者が、私を、」

憤怒を含んだ静かな言葉が、突如、咆哮に変わる。

「斃        を弁え   でも     た
       せる      よ    思っ
  身の程    と               か !!」

“箱”全体を滅茶苦茶に反響した激昂の声だけでも、陽向などは危うく気絶しそうになった。
その場から動くことも無く、名無しは根を放つ。
根の錐は、佳月の時と同様に、陽向も大きく躱して伸び、裁へ向かった。

無何有は力の発揮に制限があるとはいえ、全身を隈なく防護することが出来る。
が、裁に、盾は無い。
四方から飛んでくる根を斬り払うだけの防戦に追われる。

誰かが力尽きるまで、終わりが無い。
名無しの苛烈な憎悪が吹き荒れる中、地の無い地にへたり込んでいた佳月は、根の檻だけを凝視していた。

(ちが)
     (ちがいっぱい)
  (しんじゃう)
          (あのこしんじゃう)

(おかあさん みたいに)

理央の最期が脳裏を過ぎった時、思考がヒューズのように弾け飛んだ。

(たすけ)

少女を助けてくれる者は今、誰も居ない、が。
居たとしても、佳月は恐らく、同じことを考えた。

( たすけなきゃ )

「ちょっ……君! 待って、危ない!」

ランドセルを脱ぎ捨てるようにして駈け出した佳月には、陽向の制止も聞こえていない。

裁の正面を通過しかけた時、裁を狙って伸びた数本の根が佳月を貫きかけた。
が、佳月に触れる直前、全ての根の先端が急停止する。
明らかに“狼狽した”根は、撓んで名無しのほうへ収束した。

檻に辿り着くと、佳月は根と根を掴む。
成人でも片手で握れないほどの太さの頑強な根の檻が、佳月の腕力で抉じ開けられる筈も無い。
しかし、大人ならば通れない根と根の間は、佳月の体格ならばぎりぎり入り込めた。

檻の中心点へ集まっている根を、無我夢中で掻き分けて進む。
少女の傍まで来た時には、佳月の顔と手は擦り傷切り傷だらけになっていた。
少女に刺さっている根を引き抜こうとするが、さすがにそんな力は無い。

檻の中に、名無しの問い掛けが響く。

「何をしている?」

深淵からの声であることに変わりは無い、が。
敵意のみで出来ている、無何有や裁への口調とは違った。
慈愛のみで出来ている、優しい柔らかい口調だった。

「このこ、だしてあげて!」

少女の首から上には、根が纏わりついてはいるが刺さってはいない。
その頭を抱き抱えて、佳月は上へ向かって叫んだ。

「その幼子は、私を切り取った、大いなる母。彼女を蝕んでいた病は、私の一部となったことで消え失せ、のみならず、私と共に永遠を生きることすら可能となった。私は、彼女の願いを叶えたのだ」
「ち、ちがう……ちがうよ、そんなの……このこ、ぜったい、おねがいしてない……」
「そうだ、そういえば……彼女は、孤独に苦しんでいた」

佳月や少女への、というよりも生きとし生けるもの全てへの、慈愛のみで出来ている声には違いない、が。
何かが間違っていた。
佳月に語り掛けておきながら、佳月の悲痛な訴えも恐らく聞こえていながら、全く届いていない。
否定されたことを訝しみさえしなかった、言葉の全てが自己完結していた、つまりは“狂っていた”。

「彼女の友となってはくれぬか。そうやって、永遠に寄り添っていてやってはくれぬか」

穏やかな狂気が、佳月に乞う。

根が二本、佳月の両肩に突き刺さった。
佳月は大きく仰け反って絶叫した、ように見えたが、初めて知る激痛に声すら出せず激しく痙攣している。

「私は、お前達の神。私こそが、お前達を護り、導き、統べる神。優しき者よ、よくぞ自ら私の内部へ来てくれた。さ、行こう。死を、無を、崩壊を司る者を共に屠り、共に永遠を生きよう」

軋む全身を強引に前に曲げ、佳月は少女の頭を強く抱き締めた。
食い縛った歯の間から、苦痛に喘ぐ呼吸に混じって、途切れ途切れの声が洩れる。

「… …… ち   が う」

普段のおっとりとした柔和な佳月はどこにもおらず、

「ちがう……こんな、の……かみさま、じゃ、ない……」

正面にある檻の根を超えたどこかを見据えた両眼は、見る者が居たとすれば背筋が凍りつくほど、

「かみさま、じゃ! ない!!」

敵を前にした時の、天原唯一に酷似していた。


(……何が起こった?)

先ほどまで立っていた道路に、無何有は立っている。

(粗悪品が分解された)

瞬き一つの間に。
名無しは、根の檻を中心として風船のように膨張し、破裂し、霧散し、断末魔の声すら残さなかった。
箱が消え失せていきなり復旧した街並み、少女を抱えて蹲っている佳月、状況を把握出来ずに立ち尽くしている陽向と裁、を首を動かさずに視線だけで確認しながら黙考する。

(しかし、回収すべき残滓が存在しない。これは分解ではない、消滅だ。天原佳月が? 超規模のフラグメントを、否定の意思のみにて、瞬時に消滅させたのか?)

無何有の視界の端で、はっと我に返った陽向が、何か叫びながら佳月に駈け寄っていた。
が、佳月は陽向の声に反応しない、陽向が抱え起こそうとしていることにも気付いていない。
恐怖の名残と両肩の激痛に小刻みに震えながら、顔を上げた佳月は、裁を真っ直ぐ見つめた。

「ね……ねぇ……おねえさん、は……いいかみさま、なんでしょ……? さっき、おにいさん、が……せいぎ、って、いった……」

思わず手を止めた陽向も、何故真っ先に自分に話し掛けているのかと訝しむ裁も、人形のように立ったままの無何有も。
佳月がいきなり何を言い出したのか、理解出来なかった。

「このこ……なおして!」

あまりの唐突さに、裁でさえもさすがに唖然とする。
誰もが固まっている空気には構わず、佳月は膝で裁のほうへにじり寄って、必死に訴えた。

「かあさん、には、できないの……いいかみさま、なら、このこ、なおせる!?」
「き、君……、ごめん、裁にもそういう力は……」

慌てて陽向が宥めるように声を掛ける、が。
佳月と少女を交互に見つめていた裁は、剣を鞘に納め、おもむろに手を差し伸べた。

裁が少女の頬に触れると。
たちどころに、滴り続けていた出血が止まる。
腕や足など、肌が出ている箇所を見る限り、傷一つ残っていない。
衣服の破れや汚れはそのままだが、とにかく傷は全て、癒えてしまった。

自分で頼んでおきながら茫然とそのさまを見守っていた佳月は、ぱぁっと表情が明るくなった。
そして、ふと気付いたように、自分の右肩に左手を伸ばして撫でてみている。
陽向も気付いた。
佳月の出血も止まっている。

「……ついでだ」

手を下ろして佳月と少女から離れながら、裁は不本意そうに背を向けた。

「わ、ぁ……ありがとう! ございます!」

涙が乾き切らない顔のまま、佳月は底抜けに明るい笑顔を見せた。
しかし、未だ不安げに、少女へ視線を戻す。

「このこ、おからだ、つめたい。いきてる?」
「い、息はしてる、みたい、だけど……」
「なんで、こんなさむいかっこうで、おそとにいるの?」
「コレ、入院してる人が着てる服だよ。病院に居たんじゃないかな」

陽向がたどたどしく説明すると、佳月が急いで自分のジャンパーを脱いだ。
それを少女に掛けながら、佳月が嬉しそうに小さく叫ぶ。

「あ、おめめあいた! だいじょうぶ? どこもいたくない?」

悪夢から目覚めてみれば、見知らぬ者達に囲まれて心配されている。
状況が把握出来ない少女は、ぼんやりと佳月を見つめ返しながら、未だぐったりとしていた。
生乾きの血が付いたままの口元が微かに動き、ちいさく「うん」と言う形に動く。

「よかったー! おなまえは?」
「……い、ぶき……いき、いぶき……」
「どこからきたの?」
「……びょう、いん……」
「どこの? なんていうおなまえのびょういん?」
「……わかん、ない……ずーっと、おっきな、びょういんに、いた……」

臨機応変に対処出来ない無何有、対処する気も無い裁、幼い佳月。
こういう質問をして必要な情報を聞き出す役割は、この四名の中では陽向であるべきなのだが。
会話の能力的に、今は佳月だけが頼りだった。
ちなみに、陽向は、ただおろおろしていた。

「市民病院か大学病院かな。まずは警察に連れてくべきなんだろうけど、この血まみれの恰好じゃなー。どっちの病院からも離れた場所だし、どうしてここに居たのかも説明しづらいし……」

裁もまた、何かを考え込みながら、不機嫌そうに佳月を見やった。

「……何故、私を『いいかみさま』だと考えた?」
「はい? だって、せいぎなんでしょ?」
「私は、母を斃そうとしたのだぞ」
「でも、あとで、かあさんもたすけてくれたでしょ?」
「排除を優先すべき対象が居たからだ。今も、母を斃すことを諦めてはおらぬ。私自身は『いいかみさま』という認識だが、お前から見れば『いいかみさま』ではあるまい」
「いいかみさまだよ?」

佳月は、無邪気な笑顔を向ける。
その言葉は、

「さっきのは、わるいかみさまでした。あおいいろ、ついてたから。でも、おねえさんは、」

はきはきと明瞭でありながら意味不明で、

「あかいから! おにいさんも、あかいから」

幼い子供が上手く説明出来ていない、という次元とは異なる理解不能な何かで、

「……赤……、青……?」
「うん。おとうさんや、おかあさんや、かあさんとおんなじように、あかいいろ、ついてるから」

陽向と裁は寒気すら覚えて顔を見合わせた。

漸く、無何有が口を開く。
その言葉は、あまりにも状況を無視していた。

「帰宅します」
「ぇ……ぇええっ!?」

陽向は狼狽えて無何有を見やったが、佳月は何の疑問も持たずに元気良く「はーい」と答える。

「それじゃ、いぶきちゃんのこと、おねがいしますー」

少女を陽向に押しつけると、ランドセルを拾ってからすたたたと無何有へ駈け寄っていった。

「ちょっ、待ってっ! こ、この子、俺達だけでどうしろと!?」
「無何有及び天原佳月は、20.2sの物体を長距離運搬する筋力を有していません。そして、虚偽を語る機能を有していません。従って、この状況の事後処理を行うことが不可能です」
「え……えっとー、つまり……?」

混乱する陽向に、諦めたような表情の裁が補足する。

「その幼子を保護した第一発見者として、適当な言い訳をでっち上げて事情聴取を切り抜けろ。……と言っているようだ」
「えええええ待って待ってそんなの無理だって! 大体どうやって連れていくのさ、こんなに重いのに、」
「女に重いなどと言うな!」
「あああああごめんなさい! だ……だったら、裁が抱っこかおんぶしてあげてよ! お前のほうが絶対俺より力あるし!」
「それは可能だが、私がその幼子を背負った場合、第三者からどう見えると思う?」
「……あ」

陽向の横を、少女が浮遊しているように見えてしまう。

「参ったな……この子の恰好、どう説明すればいいんだよ……」

自分一人だけの時でさえ事情聴取に四苦八苦した陽向が頭を抱えていると、少女の衣服の血痕と穴が、不意に消失した。

「あれ……あれ? え、えええ???」

少女の全身をざっと確認し、戸惑って顔を上げると、無何有が真っ直ぐ陽向を見ている。

「懸案事項を除去しました。これにより、説明力が極めて乏しい者にも、事後処理を比較的円滑に行うことが可能です」
「あ……そ、そう、ありがと……って、やっぱり俺達だけで何とかしろってことなんだね……あと、俺、今、さり気なく馬鹿にされてるよね……」

陽向が大きな溜め息をつきながら少女を背負うと、無何有と並んで立ち去ろうとしている佳月が振り返った。

「いぶきちゃーん! あのね、そのおねえさんたちが、たすけてくれたんだよ! よかったね! はやくげんきになってね!」

これには、裁だけでなく陽向も呆気に取られた。
佳月には、自分が危険を冒して「救った」という自覚が無いらしい。
第一に治癒を施してくれた裁、第二に裁を説き伏せて無何有側に力を貸してくれた陽向、第三にこれから安全な場所へ連れていってくれるその二人、が少女を「救った」と本気で思っているようだった。

フラグメントが消滅したとはいえ、ファウンダーであっただけのことはあり、少女には裁が視えているらしい。
返事する元気は未だ無いようだが、自分を背負っている陽向、その傍らの裁、を順番に見てから、少女は佳月に向けて微かに頷いた。


佳月と無何有が遠ざかっていき、角を曲がって見えなくなると、陽向は少女を背負い直して、元来た道を戻り始めた。

「……お前、怪我治す力なんて無い、って言ってたじゃないか。俺の怪我も治してよ、まだ痛いんだよ」
「ある。あるが、お前の不注意によるその程度の掠り傷など、治してやる気は無い」

真っ直ぐ前を向いて陽向の一歩先を浮遊しながら、裁は無愛想に言い切る。

返事の一部が、変化した。
矛盾する言葉がこうも続くと、さすがに陽向も不審に思い始める。
が、それをどう論理的に指摘すれば良いのか分からず、陽向は内心でぷすぷすと燻る疑問を抑えつけながら、別の疑問を口にした。

「あの子の願いは、この子の治療だったよな。何であの子まで治療を?」
「……ついでだ、と言っただろう」
「俺のカミサマって言う割には、他の人のお願いも聞くんだな。あ、いや、怒ってるわけじゃないよ。お前があの子のお願いを叶えてあげた、っていうのがちょっと感心しただけで」

本心からそう言いながら、陽向は少し笑顔になる。
が、初めてかもしれない裁への好意的な感想は、裁自身に否定された。

「フラグメントは、ファウンダー及びビリーバーの願いしか叶えぬ」
「は? え、ええー……? じゃあ、あの子、お前のビリーバーとかいうのなの?」
「違う」
「えええ!? おいおーいまたかよ! お前の言うこと、ほんっとーに滅茶苦茶でわけ分かんない!」
「大声を出すな。消耗している幼子を背負っているのだぞ。それ以前に、不審だぞ」
「あっはいごめんなさい」

慌てて口を噤み、通行人などの眼が無いか周囲を見回してから、陽向はやや下を向いて黙々と歩き出す。
そこへ、振り向かない裁が問い掛ける。

「お前には、同じことが出来たか?」

何のことを指しているのか、陽向には一瞬思い当たらない。

「あの時、あの場で。あの子供と同じ言動が出来たか?」

びくりとして、陽向は立ち止まった。

(……出来なかった)
(何も。しなかった。しようともしなかった、考えもしなかった)
(だって。あんな、あんな化け物……俺にどうにか出来るわけない)
(俺がしたことといえば……裁に助けを求めただけで……)

「気に病むな。別段、お前を責めているわけではない。お前は、あの場で自分が出来る最善の選択をしただけだ。むしろ、それが普通だ。あの子供は、」

表情が見えない裁の声だけでは、どうして急にそんなことを言い出したのか分からない。
分からないなりに、陽向はやや表情を緩め、まだ何か言いかけていた裁の背に話し掛けた。

「そ……そうだよな、ありがと。安心したよ」
「お前を励ましたわけでもない」
「あーはいはい、そんなの分かってるから。そうじゃなくて、さ。あの子、いくらお前が粗探ししようが粗が見つかんないような、ほんとにいい子だっただろ? だから安心したんだよ。もうお前が今日みたいなヤバいことは考えなくなるだろうなー、って」
「……あの子供は、」

背の重みに息切れはしているが、気の緩みきった笑顔で陽向は歩き出す。
その後の裁の呟きは、陽向にも少女にも聞こえなかった。

「危険だ。いずれ、排除せねばならぬ……」


「何とまぁ。末恐ろしい、ねぇ」

憮然とした面持ちの老人が呟く。
揶揄するような先ほどまでの声色は消え、明らかに憂鬱そうだった。

「いや、よくよく考えれば、王と超規模管理者の間に生まれた子なのだったな。サラブレッドということなのか、ねぇ」

長時間同じ姿勢で座っていて疲れたらしく、椅子の背凭れごと大きく背伸びをする。

「だが、例のチートな父親とは若干性質が異なる。ある意味、父親のほうよりもたちが悪い。見たかね? 自らはフラグメントを切り取ることもないあの幼子は……他者のフラグメントに書き込みをした」

チェス盤の対面へ向き直った老人は、その席が無人だったことを漸く思い出した。

「……ああ、そうだった。君は、居らぬ……のだったな……」

この上なく悲しげな溜め息をついてから、改めて正二十面体を仰ぐ。

「ファウンダーとフラグメントの絶対的な関係を意にも介さず、神々を自在に書き換える……編纂者。神屠る王の子は、神紡ぐ王、ということなのか、ねぇ」

聞く者の居ない言葉が、室内に反響して消えた。

「……ところで、」

さすがに我慢の限界が来た老人が、隣室へのドアに向かって怒鳴る。

「そろそろ起きてくれぬかね!? 最近、起きている時間のほうが短くはないかね!? 君が仮眠室を占領しているお蔭で、私はいつも、ここの椅子で寝ているのだよ!? 老体への思い遣りは無いのかね!?」


(消エタ)

一幕の終演までに、真二はその場へ行けなかった。
収拾のつかない病院を出てバスを待っている今も、那由多からの映像を受信し続けている。

(今のは一体……? 分解回収された……のか?)
(分解、違ウ。分解ナラ、残骸、残滓、回収サレル。アノふらぐめんと、何モ残ッテナイ。ダカラ、母二ヨル分解デハナイ)
(消えた……消滅した、ってことか。誰が、どうやって?)

自分に提示した疑問は、すぐさま恐ろしい記憶を掘り起こし、あり得ない結論に到達する。

(天原……唯一。あの父親と同じように、この子が……否定の一言だけで、フラグメントを消したのか? この子は一体、何なんだ?)
(コレ、人間ノ幼体。トイウコトシカ分カラナイ)

自分を“千切って”出発した那由多は更に、佳月と無何有、陽向と裁、の二方向に自分を分割して追尾を継続していた。
那由多自身は二つの映像を並行解析出来るのだろうが、現実のバス停周辺を見つつ更に脳内で二つの映像を視る、などという視覚処理は人間には不可能なので、那由多は現在、佳月側の映像だけに切り替えて実況中継している。

(デモ、コレ、ふらぐめんと、認識シテル)

微かに嘆息すると、真二は会話を中断した。

命名の失敗も、贄も、フラグメント同士の衝突も、実際に視るのは初めてだった。
自分が踏み込もうとしている世界に、改めて戦慄する。

だからといって、踏みとどまるわけではない。
真二にしてみれば、「生身の」「素手の」「人間」に、よりによって初戦で大敗を喫した恐怖のほうが優っていた。
佳月の映像を視ながら、ごく冷静に熟考する。

――無何有及び天原佳月は、……

(あまはらかづき……というのが、この女の子の名前なんだろうな。だとすると、)

男女どちらにもある名、ベージュのランドセル、女児服のモデルのような顔立ち。
佳月からしてみれば大変残念なことに、真二もまた、これが男子児童だとは思いもしなかった。

(むかう、がフラグメントの名前? 無い、何、有る、と書く無何有のことか? そんな名前、この歳の子供が思いつくだろうか?)

名無しを追っていた那由多が衝突の現場に着いたのは、「天原佳月は、無何有のファウンダーではありません」という科白よりも後だった。
真二は未だ、無何有のファウンダーについて把握していない。

(ファウンダーはどちらだ? 抜け殻を残した母親なのか、この子なのか……)

敵性のフラグメントへの対策を考える際。
裁のような直情暴走型はそれこそ、最初に「ファウンダーなどどうでも良い」と考える、が。
先ほどの名無しのような事例は別として、結局のところ、フラグメントを動かすのはファウンダーの意思に他ならない。
真二にとって、どのフラグメントにどういう主義や思想のファウンダーがついているか、の把握は最重要だった。

(父親の口振りでは、この子はファウンダーじゃないようだった。実際、年齢的に無理がある)
(何かの拍子に巨大なフラグメントを切り取ったとしても、さっきの女の子みたいになってしまうだろう)
(ファウンダーでもビリーバーでもないのにフラグメントを認識してる、とすると……父親と同じような性質なんだろうか。困ったな)
(フラグメントのほうは、抜け殻着用のせいで、想像以上に能力が限定されてる様子だった。あれなら、那由多が回復すれば互角に戦えるかもしれない、と思ったが……)
(そんなわけの分からない人間が二人も傍に居るんじゃ、迂闊に動けない)

バスがやって来る。
列に並び直しながら、真二は決断した。

(……直接、確かめるしかない、か……)