アーカイブの司書

星々が明るかったあの夜、安全な場所まで手を引いてくれた、どこかの誰か。

(青く視える人……なら、たくさん居たけど)
(赤く視える人……なんて、居るんだ)
(二度と会うこともない人なら、名前も知らない人なら……恋をしても許されるかもしれない、って思った)
(ずっと好きでいても迷惑を掛けないだろう、って思った……のに)


一つの屍が、静かに瞼を開く。

理央は仰向けに倒れていた。
その眼が最初に映したのは、瞼が閉じる直前まで見ていた雲ではなく、星の無い夜空。
ただの黒ではなく“空”と判別出来るのは、煌々とした青い月が浮かんでいるからだった。

(……?)

状況が理解出来ず、上体を起こす。
空から地へと視線が移動した。

見渡す限りの屍の丘。
地平を埋め尽くすその丘の中に、理央は居る。

いつもと同じように、特に感慨も無く、見慣れた丘を見つめていた。
ふと自分を見下ろすと、服に大きな破れと血痕がある。
それに触れてみて、理央は不審げに、微かに動く眉を顰めた。

(新しい傷がある)
(ってことは、私、あの時……死んだのよね)
(だから、ここに来たの? どうして……ここに来たの?)

いつもと同じように、一番近くにあった屍に手を伸ばす。
それに触れてみて、理央はまたも眉を顰めた。

(冷たい。触れられる。いつもの幻じゃない)
(ってことは……私に、体温がある。触覚がある。冷たいと感じる意識がある)
(だったら、この人達には? 感覚は、意識は?)

「無い」

唐突に、空間が答えた。
びくりと動きを止めたものの、理央は死してなお、恐怖や動揺を表情に出すことが出来なかった。

「此れら全て、死せる者。死した刻の儘の姿で蓄えられた者」

答えなど予期していなかった理央の内心の独白に、理央と同じ声が答え続ける。
微かに震える喉で小さく息を吸ってから、今度は疑問を口に出してみた。

「……蓄え、られた? ここは……コレは、何……なんですか?」

やはり、死してなお、恐怖も動揺も声には表れない、表せない。
問いは淡々と、答えは更に淡々と続く。

「此処は、元来、天原理央が蒐集したアーカイブ。“怨嗟”に分類されるアーカイブ」
「……アーカイブ? どうして、私が……こんなものを……?」
「天原理央が自らを『悲劇ではない』と定義した時点で、天原理央は怨嗟のアーカイブの管理者となった」
「自分を定義した……何のこと、ですか……? この人達は……私の、ただの幻……じゃなかった、んですか?」
「否。此れら全て、過去に実在した者。一般的なアーカイブは、人間の脳内で、視ることも触れることも出来ない情報の容をしている。併し、天原理央は、情報を組み立て直した元の姿、即ち複製された概念を視ることが可能となった。今此処に居る天原理央もまた、複製された概念である」
「でも……蒐集した、って言われても……知らない人、ばかりですよ……? いえ、知ってる人も居ることは居るんですが……せいぜい、ニュースで名前か顔写真を見聞きした程度で……」
「情報を得る術が無い対象については、アーカイブ自らが情報を蒐集する」

理央は茫然としたまま立ち上がる。
見回す限り、見渡す限り、屍しか無い。

「嘗て、天原理央は、此れを『食い散らかされた』と表現した。其れに倣うならば、此処は『必然性無く人間に食い散らかされた人間』の集積場」

性別も年齢も、着衣などから察するに時代や民族すら関係無く、乱雑に、そして平等に積み上げられている。
生ける者が一人も居ないのは明らかだったが、死せる者全般ではない、ということは10歳の時から既に気付いていた。
全ての屍が、苦悶に顔を歪ませている。
ある者は、頭部や四肢を散乱させ。ある者は、首に紐を巻きつけたまま。ある者は、皮膚が不自然に変色して腫れ上がり。
安らかに天寿を全うしたと思しき人間が、ここには一人も居ない。

「自然の摂理としての、不可避の死は含まれない。此処に在るのは、他者による死のみ。危害が直接の死となった者とは限らない。間接的な死も含まれる」

月からはぽつりぽつりと、雫のように新たな屍が降ってきている。
それらが音も無く、屍の丘に積み上げられていく。

「危害を加えた側の、悪意の有無は問わない。純粋に、理不尽である死。怨嗟、憎悪、悔恨、絶望。其れのみが格納される」

果てしない大地は、屍達の何も映さない瞳を束ねて、理央を見つめている。
果てしない夜空の、青い月から降り注ぐ悪意敵意害意殺意が、理央に纏わり付く。

「怨嗟……ここには、恨み憎しみしか無いんですか? この人達に……幸せな時、というものは無かったんですか?」
「有る者のほうが多い」

声は、事務的に、重過ぎる真実を告げる。

「人間が“幸福”と定義するものを一切享受したことの無い者も含まれているが、幸福を得た経験があれば、絶望は比較対象を得る。故に、怨嗟のアーカイブは、絶望と同じ深度の幸福を識る管理者を望んだ。幸福の容を知らずとも、絶望への理解が一段階劣るのみであり、管理者としての機能に支障を来すことは無い。併し、アーカイブは管理者をアップデート、即ち外部から幸福を得るシミュレーションを優先的に選択させた」

幸福に絶望を塗り替える力は無いと断言しているに等しく、屍達の生涯を全否定された気がした。
自分の意思での人生の選択、唯一と佳月から与えられた幸福、といった、理央の生涯を全否定された気がした。

「……そのためだけに……私は今まで、家族から……幸せをもらったんですか? 私が幸せしか知らなかったら……私は、そんなふうに操作されずに生きられたんですか?」
「否。アーカイブは、人間の知識の一種であり、人間の自我の下層に存在している。超規模アーカイブといえど、上層の自我への命令権は無く、単に“選択の優先順位を提案する”発言権を持つに過ぎない。アーカイブの規模が大きくなれば発言権は増し、その影響で段階的に人格が変質する管理者も存在するが、天原理央はこの限りではない。人間に“もしも”は存在しない、が、誕生まで遡って全ての分岐を観測すると、」

不意に、月以外は黒一色の空に、一等星ほどの明るさの、緑の点が灯る。

「天原理央の精神性は、過去の経験の積み重ねで形成されたものではない」

その緑を起点として緑の線が現れ、急速に伸びながら枝分かれし、瞬く間に空一面を覆い尽くす樹形図を成す。

「平穏な環境で生涯過ごしたとしても、この世の地獄で足をもがれたとしても。最終的に、天原理央の在り方には一切の変質が観測出来ない。怨嗟に死せる者を正しく理解し得る天原理央は、全てのシミュレーションで、怨嗟のアーカイブの管理者となる。異なる分岐へ進んだ場合、表情が有るか無いか、という微細な相違しか観測出来ない」

樹形図がすうっと薄れて消えていき、空には月だけが残った。
この声とは相互理解が不可能であることを理解した理央は、俯いて静かに呟く。

「微細……ですか。私にとっては……死ぬほど重要だったんですけどね……」

一度固く眼を閉じ、開くと、理央は歩き始めた。


幻として視ていた時にはそんなものは無かった気がするが、いざこの場に取り込まれてみると、乱雑に積み上げられているように見える屍の丘には、人一人歩けるほどの道が伸びている。
一本道でも自然な隙間でもなく、例えば京の碁盤目のような“整備された道”という印象を受けた。

(この人達は……歩かない。ってことは、コレは多分……私のためだけに用意された道。ここを通れ、っていう……この人達の、意思)

ここへ来て感じた恐怖や動揺は、単に「口に出していない言葉に対して返事があった」「それが自分と同じ声だった」ことについてのみだった。
譬え職業柄死を見慣れている者であっても正視に耐えないようなこの屍の丘自体には、負の感情は湧いてこない。
かといって感性が麻痺しているわけではなく、小さな個人が眺め受け止めるには膨大過ぎ凄惨過ぎる死を、一つ一つ悼み受け容れていく。

十字路に差し掛かる度に、理央は立ち止まる。
屍の堆積には規則性があった。
“死因”ではなく“原因”で分類されている。
もしも屍が書物であったとして、理央が書架に並べるならば、こういう分類になったであろう。

屍を見ればその最期が、眼を閉じて意識を向ければその最期から遡っていく生涯が、理央に流れ込んでくる。
もともと理央の内部に蓄えられていただけあって、仕入れた覚えの無い情報でありながらそれらは“復習”のように感じられた。

しかし、動き続ければ疲れる、のは死んでからも同様である、らしい。
歩けども歩けども果ての見えない屍の丘で、理央は屍と屍の隙間に座って膝を抱えた。

足を止めてしまうと、読み続けた死のこと、置いてきた二人のこと、が一気に押し寄せてきて精神を苛む。
自分もここに加えられた死者でありながら、読まれるのを待っている屍達とは違う、という疎外感。
動いて考えることが出来る身体でありながら、唯一と佳月が生きている場所へ戻れない、という疎外感。

何気なく、服の上から、人生最後の傷に触れてみる。
死の直前に傷口を壊死させて塞ぎ、全身の痛覚を遮断した、にもかかわらず死の始まりとなった傷は指先が触れると痛んだ、ような気がした。
錯覚であることは分かっている。
肉体的な痛みが無くなってからというもの、全ての痛みは精神から来ていた。

「私は……死んだ、んですよね?」

最初に疑問を持った時とは違い、少しだけ返事を期待して、訊いても知っても無意味な問いを投げてみる。
呟きが闇に木霊して溶けた後、明確な回答が返ってきた。

「然り」
「じゃあ……どうして私だけ、この人達と同じじゃないんですか?」
「天原理央が自らをそう定義したため」

最初に『定義した』と言われた時には思い当たらなかったが、漸く思い出す。
誰にも届けなかった、誰にも届かなかった、幼い自分の心の声。

――ああ……先生、分かりました。コレが……悲劇。悲劇ぶるのとは違う、本当の……悲劇です。

「嘗て、天原理央は自らを『悲劇ではない』と定義し、此処から除外した。その上で、此れらのために生き続けることを規定した。故に、生きた時は生ける者ではなく、死した時は死せる者ではない」
「……どちらからも仲間外れですか。それは……寂しいですね」

返事があってもどこを見て話せば良いのか分からず、膝を抱え直した理央は、屍の地平を眺めながら呟くように訊き続ける。

「私が自分を『ここから除外した』、というなら……私が今ここに来てるのは変じゃありませんか?」
「其れは天原理央の分類基準であり、アーカイブの基準とは異なる。アーカイブは、上層の自我の主観性とは無関係に、客観性と普遍性を有し、原始的無意識領域から情報を蒐集する」
「……いきなりそんなユング的なことを言われても、私じゃない何かが勝手に私の中にこんなものを蓄えていました、なんてことは実感が湧かないんですが……いえ、それ以前に、 」

死んでいる、という実感さえ湧いてはこない。

「コレが私の中にあった、というなら……私が死んだのにまだここが存在してるのは変じゃありませんか?」
「本来、此のアーカイブは、天原理央の死によって、別の管理者に新たに引き継がれる、或いは別の管理者の類似のアーカイブに加えられる、筈だった。併し、天原理央の脳は、再起動により、未だ活動している。故に、此のアーカイブは、死した刻の天原理央の自我を取り込み、死した後の天原理央の肉体で存在し続ける、というイレギュラーが生じた」

(再起動……じゃあ、私の身体は、今……願った通り、無何有が動かしてくれてる……?)

イレギュラー、と言われておきながら、理央はほんの少し安心感が湧いた。
自分の身体が存在し続けているのならば、今自分が思考していることは死者の妄執ではなく幽体離脱のようなものだ、という気休めにはなった。

「死ぬ……って、こういう無残な形だけじゃありませんよね。そういうかたは、どこへ行くんですか?」
「『行く』という表現は適切ではない。此れらは、死せる者そのものではなく、死せる刻の複製に過ぎない。故に、複数のアーカイブに同時に存在することも、何処にも存在しないこともあり得る」

この声との会話は、膨大な死に呑み込まれずに自分本来の思考を保つ上で、貴重ではある。
が、話せば話すほど、相互理解が不可能であることを思い知らされる。

「此処は、天原理央に最も理解しやすい表現をするならば、『蔵書が極端に偏った書庫』。此処と重複する蔵書のアーカイブも在れば、此処には置かれていない蔵書のみを持つアーカイブも存在する」
「蔵書……ですか。随分、非人間的な表現ですね。あなたにとって、この人達は……文字と同じ、なんですね……」
「然り」

声との隔たりを改めて感じて立ち上がった理央に、声は温度を感じさせない言葉で断じた。

「此れらは、死して初めて存在が確定した者。書き換えられることも書き加えられることも無い、不変の存在」


理央は歩き続ける。
死を読み疲れると座り込み、歩く間に湧いてくる様々な疑問を虚空へ投げ掛けてみる。

「もしかして……私が死んだ時に現れたのは、この人達ですか?」

膝を抱えて俯いたまま、屍の山と山の間で訊く。

「然り。天原理央が神を切り取った際、神自体が通路となり、此れらの一部が流出した」
「流れ出た……だけじゃなくて、明らかな攻撃の意思で、あの人にだけ襲い掛かってましたよ? この人達に意識が無いっていうなら、どうしてあんなことが起こったんですか?」

人生最後の最も鮮明な記憶がよりによって、人間が生きたまま引き千切られるさまだった。
自分を殺した相手であっても、あの光景はどうしても「いい気味だ」とは思えない。
しかしすぐに、理央のそういう考え方こそがここでは異端である、ということを思い知らされる。

「怨嗟に死せる者は常に、怨嗟の原型を、其れが失われている場合は類型を、求める」
「……原型……類型?」
「己の怨嗟の対象、即ち原型、が既に地上から失われている場合、原型に近い行動様式の者を怨嗟の対象とする。瀬度鉄成は、原型であると同時に、2種類の類型に該当した」
「……ああ、つまり、恨んでる相手に似てる人間を襲うんですか。納得しました。でも……出来れば、殺さないで欲しかったです。確かに、あの人の場合、捕まったとしても法で裁けたかっていうと難しかったでしょうけど……やっぱり、人間は人間の法で裁かれないといけないんじゃないでしょうか」
「否。其れは生ける者の論理であり、死せる者は是認しない。意識が無いからこそ、論理は無い。原型、類型、を問わず、多くの場合、怨嗟は死を以って罰して猶、贖えない」
「……殺してもまだ足りない……んですか。重い、ですね……」

(そういえば、唯一さんがよく、『目には目と目を』って言ってたっけ。想像力の足りない相手には、倍返しくらいしないと思い知らせられない、って……)

唯一のことを思い出すと、意識はどうしても生きた世界へ向かう。

「生きながら苦しんでる人達は……ここには居ないんですか? 苦しみの質は、この人達と同質だと思うんですが……」
「其れらは、何れ此処へ蓄えられる。現時点では、彼処に存在する。苦痛のさなかに在る者を格納するアーカイブも存在するが、其れは此処ではない」

この声に指差す指は無いが、「あそこ」が月を指していることを理央は即座に理解した。
顔だけ起こして見上げた月からは、今も屍が降り続けている。

「苦痛のさなかに在る者を、天原理央は『絶対的に救済されねばならない悲劇』と規定した。彼処に存在している間に解消されれば、此処へは蓄えられない。併し、殆どが此処へ蓄えられる。苦痛から幾年経とうとも、死の瞬間が幸福であろうとも、無関係に。怨嗟が解消されていなければ、此処へ蓄えられる」

言葉の一つ一つを咀嚼しながら、理央は今ここに居る理由を考えた。
自分も怨嗟を内包する者として分類されている。
例えば、最期が殺害などではなく安らかな死であったとしても、理央はやはりここへ蓄えられたのであろう。
薄れはしても消えはしない、と怨嗟の重みを代弁している声から、耳を塞ぎたい気持ちになった。

「併し乍ら。苦痛のさなかに在ろうとも、完全に解き放たれていようとも、無関係に。新たに他者を『食い散らかした』場合、此処へは蓄えられない」
「……どうしてですか?」
「天原理央の、生ける者の解釈がそうであるため。生ける者は流動的だ。死して初めて、此のような存在であった、と確定する」
「……ああ、つまり、この人達は……死ぬまで罪が無かった、ってことですか」

罪無き者の底知れない怨嗟には哀しみしか湧いてこないが、罪無き者しかこの場に存在しない、と保証されたことは、この場の見た目の凄惨さとは無関係に安心感を与えてくれた。

「……いきなり俗な話をしますが……フィクションでは、実在した人物をモチーフにしてることなんてしょっちゅうあります。その人がしなかった言動、出逢わなかった人、時には外見や性別まで違う設定……そういうのって、死んでからも存在が流動的とは言えませんか?」
「否。天原理央は今、解釈ないし創作について述べている。モチーフとは、存在自体を書き換えることではない。死せる者が嘗て有していた意識は、永遠に他者からの影響を受けない。例外として、死せる者の自我にアクセス出来る管理者は、生ける者同様に死せる者の意識を書き換えられるが、天原理央は其れには該当しない」
「そう……ですか。非科学的なことにはあんまり興味ありませんが……供養とか除霊とかって、案外そういうシステムなのかもしれませんね」

足はだいぶ回復してきたが、精神は疲労の限界にあった。

(私と同じ声、常に三人称で語る声……問えば答える、のに一人称と二人称の概念が無い。思考はする、のに自我が無い)
(私が精神を病んだのでなければ、この声は……無何有? 私が翻訳してるから、本来声を持たない無何有の言葉がこういうふうに聞こえてるだけ?)

こんな場で、しかも死んでいる自分に訪れるとは思ってもいなかった“眠気”が、ひたひたと押し寄せてきている。
膝を抱えて俯いたまま、屍の山と山の間で、理央はいつの間にか眠っていた。


目覚めると歩き、歩き続けては眠る。
復習が進むにつれて、新たな疑問が湧く。

(足りない)

この屍の丘を、理央は既に半ば把握しつつあった。
どこにどの屍が居るか、それはどういう怨嗟を抱えて死んでいるか。
把握し始めたゆえに、ここの取捨選択の基準が分からない時がある。

青い月の下で屍の丘が成す波のような凹凸は、海を思い出させた。
一度だけ見た、唯一とだけ見た、あの穏やかな、海。

――俺は、人を殺してる。

(唯一さんは、あの日、確かにそう言った。唯一さんは……嘘をつかない)

――何人も。
――お前と逆なんだ。
――理不尽を何もかも受け容れてきたお前ほど、強くねぇんだよ。

(なのに、唯一さんへの怨嗟を持つ人が……ここには居ない。どうして?)

十字路で立ち止まって周囲を見回していると。
最初の時と同じく、呼んでいないのに例の声が答えた。

「此処へ蓄えられるべき者ではないため」
「……どうしてですか?」
「此のアーカイブは、正当な怒りを評価し、除外する。故に、怨嗟の死であっても、此処へは蓄えられない者が存在する」
「正当な……怒り。ああ、例えば……逆恨みとか返り討ちとかで死んでしまった人は含まれない、と?」
「然り。其れらは『食い散らかされた』者には該当しない」
「そうですか」

それはこの屍達の価値基準であり、唯一が全てから絶対的に赦されているわけではない、と分かってはいても。
ふぅ、と思わず安堵の溜め息が洩れる。

「……良かった」

小さく呟くと、理央は再び歩き出した。


ところどころに、屍が全く無い砂地がある。
復習が進んだ理央は、「一度はここに蓄えられたが今はここに居ない」屍についても把握し始めていた。

(流出した人達が、半分ほど居なくなってる。恨みが消えた、ってことなんだろうけど……半分は、またここに戻ってきてる)

――多くの場合、怨嗟は死を以って罰して猶、贖えない。

(この人達がここから完全に消えるためには、世界中の類型を殺し尽くしても足りないのかも……)

この場が抱える絶望に絶望しながらも、理央は歩き続けている。
だが、その違和感は、屍と屍の間の不自然な隙間を見た時に湧いてきた。

(足りない)

それは例えば、ビブロフィリアが書庫をざっと眺めただけで蔵書のほんの一点の虫食いに気付いてしまえるような、特殊な感覚だった。

(初めからここに居ない、っていう違和感じゃなくて……もともとここに居た筈の人が、あの時には流出していない人が、居ない)
(少なくとも……三人? それも……小さい男の子ばかり?)
(同時に亡くなった人達は、まだここに居るのに)

屍の丘全体を人体に見立てるとすれば、三人ほどの原因不明の不在はピアスの穴。
小さな小さな、しかし理央にとっては決して許容出来ない、欠損。

(あの声は、ここを『蔵書が極端に偏った書庫』と言った。流出した時を例外とすれば、図書館から本が勝手に出ていくことは無い)
(誰かが持ち出した……誰が、持ち出した?)

明確な解を求めて、空を仰ぐ。

「誰がそんなこと……いえ、ここから持ち出された人達が救済された、っていうのならいいんです、けど……」

救済されていようがいまいが理央に為す術は無いが、救済以外の目的で持ち出されたのだとすれば許し難い。
しかし、ややあって返ってきた声の答えは、今までになく不明瞭だった。

「此処に一度は蓄えられたが此処から“切り取られた”者に関しては、定かではない」

理央の眼が、微かに見開かれる。
それは、未だ言語を用いなかった無何有と初めて会話した時に聞いた表現だった。
理央の「持ち出された」という言い回しをわざわざ言い換えているからには、何らかの共通項がある筈だ、と理央は考える。

「切り取った者も、切り取った理由も、切り取った時期も、切り取られた者の結末も、定かではない。何故ならば、其れらは、天原理央が死した刻には、既に此処から失われていた」
「……ああ、なるほど、それじゃあなたにも分かりませんよね……」

思考が止まると、周囲の屍達の情報が一気に流れ込んでくる。
その場に座ると、流れ込んでくる怨嗟の声が、子守唄のように眠気を誘発する。
屍の声に疲れていた理央は、屍の声に守られながら、また眠った。


現実の理央の身体が夜と昼を繰り返しているならば。
複製の理央は、夜と夜を繰り返していた。
星の無い夜空は、明けることが無い。

(あれから……どれくらい時間が経ったんだろう……)

――死した刻の儘の姿で蓄えられた者。

(……そのまま?)

ふと気付き、今まで気にも留めていなかったポケットを探ってみる。
血痕が鮮やかなままのダウンジャケットのポケットに、スマートフォンが入っていた。

(やっぱり、ある)

ロック解除も出来る、時刻も表示される。
それは、死んだ日時よりも進んでいた。
念のため、心の中で数を数えながら眺めていると、60数え切らないうちに時刻が1分進んだ。

(時間の経過が現実と同じとして……3日ほど経ってる)
(でも、服に付いた血がいつまでも乾かない。なるほど、これが『死した刻の儘の姿』ってことなのかな)
(だったら、スマホの時計も止まっていなきゃおかしい。どういうことなんだろう)

暫く画面を見つめた後、理央はそれをポケットに戻した。
立ち止まっていたのはその時だけで、再び歩き出す。

――今此処に居る天原理央もまた、複製された概念である。

(この複製の身体で機能していないのは、消化器系と代謝だけなのかも。それ以外は、恐らく……実体と全く同じように機能してる)
(何も食べずに、どうやって動いてるんだろう……って、忘れてた。そういえば私、死んでたんだった)
(スマホの電池が減ってない理由が『死した刻の儘の姿』の影響だ、っていうのなら分かる。でも、内蔵時計が進んでる)
(もし、実体から電力が供給されたり実体と同期したりしてる、んだとしたら……、)
(私がここで消費した栄養素と水分も、恐らく……実体から供給されてる)

自分が死んでいるという前提ではあっても、怨嗟の死とは直接関係しない事柄についてあれこれ考察することは、少しだけ心に平穏を与えてくれた。

(でも、ここには、空気があるみたいなんだけど。死者に食べ物が必要無いのなら、空気も必要無い筈……)
(私の実体が空気を吸うから、ここにも概念の呼吸のために概念の空気が用意されたのか、……いや多分違う、)
(人間が存在するしないにかかわらず、地表には空気が存在してるものだ……ってことなのかもしれない)
(もしかして、気温も……私の実体が居る場所を反映してるのかな。幻の中では、気温なんか感じたこと無かったのに)

断続的に空気を裂く吐息は、白い。

(思考は、実体と複製で別々に行ってるの? 記憶の蓄積は、どこにされてるの?)
(無何有が3日間ほど行動してるとして、私のほうにその記憶は来てない。……無何有のほうには? 今ここに居る私の行動は、記憶に蓄積されるの?)

微かな希望が湧いて空を見上げたが、その疑問に対する答えは無慈悲だった。

「実体と複製が記憶を共有することは出来ない。実体が複製の存在を認識することは可能だが、複製の行動や思考といった記憶は蓄積されない。何故ならば、死した刻に複製された脳は、その時点までの記憶しか共有しておらず、死した後の言動は複製にしか蓄積されない」
「……脳も、同期したり出来ませんか?」
「出来ない。死の刻以降に別の行動と思考を辿る脳は、各々が天原理央でありながら天原理央ではない。同期という現象を可能にするのは、実体と複製の統合、ないし交換のみによる」
「……そう……ですか。それじゃ、私の言葉を家族に伝える……なんてことは出来ないんですね……」

希望と落胆は常に対になっている、などという慣れ親しんだことを、唯一と出逢ってからはすっかり忘れていた。
忘れていただけに、落胆は大きかった。
その落胆を忘れるべく固く眼を閉じ、開くと、理央は再び歩き出した。


呼吸や睡眠があるだけのことはあり、複製の身体は現実の身体と同じように反応する、らしい。
生きていないにもかかわらず、理央の心臓が大きく跳ね上がった。

――危害が直接の死となった者とは限らない。間接的な死も含まれる。

若い女性の屍から眼を逸らせなくなり、理央は呟く。

「……自殺、してた……んですか……」

複製の鼓動が次第に、速く、強く、張り裂けそうになっていく。

「私だけ、が、無事、で。あなたは、あなた達には、助けが……来なくて。支えてくれる、筈の人にも、見捨てられて……」

思わず、屍を固く抱き締める。
それによって死んだ側に安息が齎されるわけではなく、どちらかというと生きている側が安息を求める行為である、ということは分かりきっている。
それでも無意識のうちに抱き締めていた理央は、やはり死者であるとは言えなかった。
屍を抱き締めたまま、先ず周囲を見回し、次いで眼を閉じて空間へ意識を繋いでみる。
理央の部屋の本棚と同じようにカテゴライズされているならば、この辺りが類似の屍の一帯である筈だが、視認でも意識でのアクセスでも、捜す者達は見当たらない。

(今、来てるのは、この人だけ。他の人達は、まだ……あそこで苦しんで、苦しめられて、苦しみ抜いて……いつか、ここへ来てしまう)

懐かしい、忌まわしい、激昂に襲われた。

(思い出した。この気持ち)

普段は空ろな眼に光が宿り、目元と眉が怒りを露わにしている。
絶え間なく屍が降り続けている月へ、自分でも気付かないうちに、全ての怨嗟を束ねた独白を繰り返していた。

(……許さない。許さない、許さない……)


怨嗟の蓄積が有史以来だとしても、屍の丘が無限であろう筈はない。
いつしか理央は、この丘が尽きる場所、あの月から降る屍が途絶える瞬間、を見たいと思い始めていた。
が、どれだけ歩いても、その願いが見えてこない。

(ここでもう一度死んだら、私でも……この人達と同じになれるのかな)

読み続けることにも願い続けることにも疲れて、十字路で立ち止まった理央は力無く項垂れる。

「……この人達、って……今、ここに、何のために存在してるんですか? 理解して欲しいんでしょうか? それとも、広く長く語り継いで欲しいんでしょうか?」
「全ての事象は、意味を持たない。意味を希求するのは人間のみであり、人間が観測しない場合の万物は、在るか無いか、動くか動かないか、というベクトルしか持たない。アーカイブもまた、他の事象に同じく、存在する故に存在している」
「……そう……ですか。この人達にも、私にも、意味は無い……んですね……」

感傷を理解し得ないこの声からは突き放された、にもかかわらず。
理央は、顔を上げて前を向いた。

(……だったら、私が意味を見つけなきゃ)
(この人達を知ること、忘れないことは、私にしか出来ない……、)
(この人達が居てくれれば……私も、独りじゃない)

青い月、闇の底。
白い吐息と共に、微かな呟きが洩れた。

「死んでから司書になるなんて……思わなかった、な……」

知ることと忘れないことによる結末にも意味など無いにせよ。
知ることと忘れないことへの責務に突き動かされて。
見えない最果てを目指し、理央は歩き続ける。