アーカイブ

佳月を寝かしつけたばかりの時間帯。
来た時よりも何故か更に落ち込んだようにとぼとぼと帰っていく真二の姿が見えなくなってから、唯一は玄関に入る。
リビングに戻ると、続き間のダイニングでは無何有が未だ食器を洗っていた。
つい今しがたの真二とのやり取りを思い出し、唯一は憂鬱になる。

(あいつがフラグメントとやらに詳しいのは確かだが……知ってるのは多分、共通項と、自分が使ってたアレのことだけだ)
(こいつしか知らねぇこともある。くそ、やっぱ会話を避け続けるわけにはいかねぇか……)

ソファにどさりと座ってその場で頬杖をつくと、唯一はダイニングのほうを見ないまま訊いた。

「てめぇは……無機を司る、とか言ったな。それにしちゃ、どうしても納得出来ねぇことがある。てめぇが使った死者どもは、無機物にカウントされんのか」

蛇口を捻って水を止めた無何有は、顔だけで振り返るのではなく全身できっちりと向き直り、直立不動で答える。

「死せる者は、無何有が使用したものではありません。また、無何有が有していたものではありません。天原理央にもそう説明しました」
「いや、それはてめぇに無理矢理見せられたから知ってる。じゃあ、あの死者どもはどっから来たんだ。別に、あの野郎を殺したことを責めてるわけじゃねぇ、むしろ感謝しか無ぇ。ただ、あんなもん使う奴が傍に居たら佳月が危なくてしょうがねぇから、使う条件を確認しときてぇだけだ。だから正直に言え」
「正直、という語が事実のみを語る意であるならば、無何有は常に正直です。全てのフラグメントは、虚偽を語る機能を有していません。仮に虚偽を司るフラグメントが存在したとしても、例外ではありません」
「嘘がつけねぇ、ってことか。その科白自体が嘘だったら、……」

(いや待てよ。こいつらは、人間の意思が生み出しただけの存在だ。概念だけで成り立ってるこいつらが事実と違うこと言ったら、存在が揺らぐのかもしんねぇ)

「ふん。存在は嘘っぱちみてぇなもんだが、言葉だけは100%信じていいんだな?」
「はい。そして、無何有は、無機物であり、無機物と無機物の間の無そのものであり、無機という概念そのものであり、無という概念そのものです。それらの要素を包括する事象は、三次元的には存在しません。従って、死せる者の現出、は。無何有が天原理央を通過した際、三次元的に存在していなかった無何有そのものがイレギュラーな通路となり、天原理央が有するアーカイブの一部が外側へ流出した。という現象です」

無何有のほうを向く気など無かったにもかかわらず、思わず無何有を見て訊き返した。

「……アーカイブ?」
「はい。天原理央に限らず、人間は、情報を収集し、脳に蓄積します。その中で、特に人間に関する情報を蓄積したものを、今、便宜的に“アーカイブ”と称します」

無何有の話し方は未だに、例えば音声読み上げソフトのような、不自然な抑揚と区切り方のままだった。
単語のセレクトも、理央とは似ても似つかない。
しかし、もしも学習が進んで自然になったとしたら、恐らく唯一は今よりも更に受け容れられなくなるであろう。

「自らに直接関わる人間の情報とは限りません。面識の有無にかかわらず、関心を持つ人間。例えば、英雄、偉人、と呼ばれる者。特定の分野で著名な者。政治的経済的宗教的に導く者。等から、単純に美しいと感じる者。喜怒哀楽の感情を引き起こさせる者。に至るまで、人間が取捨選択して蓄積するカテゴリは多種多様です」

いつの間にか、唯一も姿勢を正して無何有のほうへ向き直っていた。

「それらは原則として、人間が接することが可能な情報源からのみ収集されます」
「誰もが頭ん中に持ってる本棚って思えばいいのか。本屋から自分が好きな本だけ買ってきて溜め込んでる、本棚」
「はい。それです。その比喩を用います。人間は、自らの内側の書物を随意に閲覧しますが、蔵書の存在は無自覚です。蔵書が増え、書架が増え、やがて書斎に至る人間も多く存在しますが、 それでもなお、無自覚です。書斎のどこに何の書物があるかも、著しくは書斎そのものが何のカテゴリであるかも、自覚してはいません」

話がどこへ向かっているのか分からない、が不吉な予感しかしない。

「書斎よりも更に肥大化したアーカイブを有する人間を、今、便宜的に“管理者”と称します。管理者は、アーカイブが単なる関心を超えて、自我と同調しています。管理者の本質に極めて近いアーカイブの規模が大きくなると、アーカイブそのものが吸引力を持ちます。即ち、管理者が接したことの無い、類似の情報をも収集するようになります」
「書斎が、あるじに無断で本を集め始めんのか? ……ああ、学習した録画機器が勝手に録画予約すんのと似てんな」
「はい。それです。アーカイブの規模が大きくなるほど、学習力が累乗されていきます。天原理央は、左側頭部に外傷を負った時点で既に、死せる者の大規模なアーカイブを内包していました。書斎、という概念と並べるならば、」

自分が立ち上がっていたことさえ、唯一は気付いていなかった。

「人類が有する最大の図書館を遥かに超える規模です。そして、天原理央は、外傷により、自らの内側の蔵書と外側の原本を同じ形で視ることが出来るようになった、イレギュラーな管理者です」
「同じ形……って、」

唯一の脳裏を、あの屍の山がよぎる。
アメリカ議会図書館、ロンドン図書館、過去に唯一が立ち寄ったことのある巨大図書館は、小さな個人を呑み込み圧倒する存在感だった。
その蔵書全てを屍に置き換えてなお足りない、と無何有は言う。

「じゃあ、理央のアーカイブってのは……」
「怨嗟のアーカイブ。人間によって死に至った人間が蓄積されるアーカイブ。です」

茫然、などというものではなかった。
数多の死を直接見てきた唯一でさえ、あの屍の群れは、いや屍の群れよりもそこから立ち上っていた無色無音無臭の瘴気は、恐怖や嫌悪を催す悪夢だった。

「な……ちょっと待て……理央が頭に怪我させられたのは、10歳の時だったって聞いたぞ。そんな頃から、理央は……あんなもんを見続けてきたのか!?」
「はい。視続ける、といっても常に視えているのではありません。不定期に現れる幻覚です」
「……知ってる。青い月……が見える幻、って言ってた」

理央が蒐集してきた、理央に似た症例の資料のことを思い出す。
理央が読み取りに四苦八苦していた海外の資料を日本語訳し続けてきたのは、他ならぬ唯一だった。
が、理央の全てを知っている、という自負が、この思いがけない場面で崩される。

「いいえ。天原理央は、左側頭葉の後天的損傷に起因する、所謂“正常な幻覚”を2種類、所持していました。一つは、死せる者が一定条件を満たしている場合に格納される、怨嗟のアーカイブ。 及び、天原理央の潜在的願望が視覚化されていた、原風景。前者には青い月、後者には赤い月、が心象風景として付加されていました」

全てが語られてはいなかった。
全てを語って欲しい、独りで背負い込まないで欲しい、と願うのが唯一の愛の形であるならば。
全ては語らず、二つの月の影を独りで背負い込んだままなのが理央の愛の形だった。
理央の苦悩を少しでも軽く、と心から願ったばかりに、却って理央に気遣わせて負担を掛けていたのかもしれない、と唯一は悔やむ。

――恋愛感情のほうなら、『ああコレがそうか』ってのが分かった気がする。

記憶が巡り巡る。大切に積み重ね繰り返してきた日々の一部が欠けていく。

(思い上がりも甚だしい、全然分かってなかったじゃねぇか。全部話して欲しい、なんて本気で思う相手に、理央が全部話すわけがねぇ。理央はそういう性格だ、って分かってたのに、分かってなかった……)

「そして、天原理央は、その幻覚に対して、恐怖や嫌悪を有していませんでした。恐怖や嫌悪を喚起するのは、『その幻覚に恐怖や嫌悪を感じない』というただ一点でした。そういう管理者でなけれ ば、たとえ無自覚のアーカイブであったとしても、精神崩壊を起こします。大規模なアーカイブが望むものは、“壊れない管理者”です。逆説的には、壊れない管理者だからこそ、大規模なアーカイブを維持拡大することが出来ます」

長い沈黙が落ちる。
項垂れた唯一が思い出したのは、嘗ての自分の言葉。
理央にとっては死の直前まで支えになっていた枯れない言葉だったが、そんなことは知らない唯一にしてみれば、急に色褪せた気がした。

――誰にも言えなくて、けど安心材料が欲しくて、今までそんなに調べてきたんだろ? なら、そろそろ安心してやれよ。

「……軽率なこと……言ったよなぁ……」


話を切り上げる一言さえ無くリビングを出ていった唯一の姿が見えなくなってから、無何有は洗い物の続きを始める。

(怨嗟に死せる者のみで構成されている、超規模アーカイブ。そのようなものの管理者でありながら精神崩壊しなかった、天原理央。という事例一つだけでもイレギュラーだが……)
(キラルである二つのイレギュラーが性質を保ったままアキラルを成していた、という現象が三次元的にも起こり得るのか。その事例自体がイレギュラーだ)

その無機の眼の奥では、つい今しがたのやり取りの最中に無断で唯一を走査した結果を、手を止めること無く解析していた。

(天原唯一には、アーカイブが……存在しない)
(無論、人間社会の一員である以上、人間に関する情報は、知識として収集され蓄積されている。それらが、本来成すべきアーカイブの形を成していない)
(先ず、他者への関心が極度に少ない。特例的に、僅かに関心を惹いた他者の情報、“家族”というカテゴリで蓄積した情報、それらは……自我の中に直接編纂されている)
(理解した。これが“天敵”の構造か。確かに、神々の構造に酷似している)

理央の日常に倣う無何有には、夜更けまで様々な家事がある。
最後の皿を洗い終え、水切りラックに入れ、手を拭き、次の家事に向かう。

(天原唯一には、他者というものが……存在しないに等しい)