【断片04/20】赤道近く故郷遠く・小さき旅懐

走る車。

「……っと。手ぇ洗ってからじゃねぇとな」

身体のあちこちに付いた血はハンカチで拭ってはいたが、特に左手は未だ汚れている。
小さく呟きながら、少年は別のハンカチでそっと本を摘まみ上げて通学鞄に戻した。
バックミラー越しに見ていた国津は、ふと思い出す。

(そういえば……栞)
(最初から……無事に戻ってくるつもりだったのか……)

暫し、気まずい沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは少年だった。

「申し訳ありません」
「ぇ……え、えっ!? なな何がですか!?」
「御迷惑をお掛けしました。お詫びのしようもありません」

国津がよく知っているほうの声と言葉。
バックミラーから視線を外し、国津は前だけを見た。
再び気まずい沈黙が落ちる。

「……気持ち悪いです」
「え。ぇえ!? 何がですか!?」
「その言葉遣い。さっきの、行ってしまった時の……あれが本来のあなたでしょう? だったら、あのままでいて下さい」
「えー……それはちょっと……失礼かなぁ、って……」

いつ以来だろう。この状況下で、国津は“楽しい”と感じた。
人生で初めて、アクセルを深々と踏み込む。

「構いません。そのほうが分かりやすくていいです」


停まる車。
自宅前、天原剛毅が門の外に立っている。

国津が後部ドアを開けると、少年は真っ直ぐ父の元へ向かう。
父の正面で立ち止まり、怯むこと無く見上げた。

「ごめんなさい」

ややあって、重厚な声が訊く。

「……何について謝っている?」
「買取予定の工場の中に、有害物質を撒き散らしました。後始末が大変だと思います」
「……謝る点はそれだけか?」
「はい」

兵士が上官へ報告しているかのような、反省など微塵も感じられない謝罪と無表情。
暫し無言で少年を見つめていた父は、平手打ちの構えでおもむろに右手を挙げた。
それに反応すること無く、少年は瞬きもせず父の眼だけを見据えている。

右手を宙に止めたまま少年を見下ろしていた父が、小さく溜め息をついて手を下ろす。

「……母さんに心配を掛けるんじゃない」

少年の表情が、漸く人間味を帯びた。
不機嫌そうに眉を顰めて言い返す。

「親父もな。たまには家帰れよ。お袋、壊れちまうぞ」

国津が呼びに行ったのか、母が駈けてくる気配が近付いてきた。
今しがたまで泣き崩れていたらしく、涙の跡が目立つ。
それを振り返った父子の科白が重なった。

「「ごめんなさい」」

飛びつくように少年を抱き締めて蹲る母が、何度も少年の名を呼んでいる。
途方に暮れながらも抱き締め返そうとして、少年は不審げな表情になり、両手で母の両肩をもぎ放して怒鳴った。

「焦げ臭ぇ! 何してた!?」
「あ、あなたが学校から帰ってくるまでに、お、お菓子でも準備してみようかな、って……生地を作って冷ましてたら、爆発して……」
「何その黒魔術!?」
「あまりに遅いから心配してたら……さっき、国津さんから連絡があって……」
「俺は毎日生きて帰ってきてるだろ、お袋がキッチンに立つことのほうが危ねぇの! 料理人達が死んだらどうすんだよ!?」

少年には理解出来ている。
家族の帰宅を待つ以外、母はすることが無いのだ。
未だしゃくり上げている母に背を向けて玄関へ歩き出し、少年はふと足を止めて俯いた。

「まともに料理も出来ねぇのに、いきなり菓子なんて作れるわけねぇだろ。……キッチン、借りてくる」
「……え?」
「何作ろうとしてた? 俺で良けりゃ作るから……泣くなよ」

ポケットから左手を出して掌を見つめた少年の物憂げな眼は、母からは見えない。
数秒の後、深憂を固く握り潰し、少年は再び真っ直ぐ歩き出した。


慌てて息子の後を追う妻を見送った視線を、静かに国津へ向ける。
天原剛毅は深々と頭を下げた。

「……国津君。迷惑を掛けた。詫びる言葉も無い」
「い、いえ、とんでもありません! 私は、……御子息に……救われました」

拭っても落ちない血に汚れている息子を見れば、「救われた」が意味するところは薄々分かる。
顔を上げると、国津から外した視線を遠くのどこかへ向けた。

「……この辺りでは、通学時にボディーガードを雇っている家が多いだろう?」
「そのようですね。一般家庭でもそうしていると聞いています」

どんな辛酸にも折れることの無い毅然が悄然に変わるさまを、国津は初めて見た。

「あの子はいつも……家庭教師と、通学時の運転手やボディーガードを、いつの間にかクビにしてしまう」
「何故ですか?」
「……足手纏いだから、だそうだ。スクールバスの発着所まで歩いていくし勉強は自習で充分だ、そんな余計な金があるなら本と栄養士をくれ、と言う。それでも私は運転手をつけるのだが…… 今日も、登校時には居たが、下校時にはクビにされていて居なかった。……君を危険な目に遭わせてしまった」
「いえ! お気になさらず! わ、私が勝手に申し出たことですから!」

精一杯フォローしようとする国津の声が届いているのかいないのか、項垂れた天原剛毅はぽつりと零す。

「私達は、親失格だ。名前が強過ぎたかな。あの気性は誰に似たのか……」

国津には理解出来ている。
「自分が天原剛毅のオマケだから救われたのだ」と。
それでも、とっくに屋敷内に消えている少年の姿を追うように玄関のほうを見ながら、言わずにはいられなかった。

「いえ。間違いなく……支社長の御子息でした」


傍らのデジタル時計のアラームが鳴る。

かつて己を定義した部屋とは異なる、広いが薄暗い、異国装飾の子供部屋。
片隅に座っている少年の肩の上、パイプや瓶や砂などの廃材で自作したダンベルが、そろそろ手で滑り始める。
乱れる呼吸と滝のような汗に耐え、少年は歯を食い縛り続けていた。
親に頼めば上質の市販品が手に入ることは分かっているが、親の金であろうともそういう物に一銭も払う気は無い。

不意に運動を止め、暫く息を整えてから、少年は床にダンベルを下ろす。
微かに痙攣する両掌をじっと見つめた。

(過負荷は禁物、なんだが……足りねぇ)

傍らのデジタル時計のアラームが鳴る。

少年は机に向かっている。
散乱した分厚い書物も、脇目も振らず語学の書き取りをしているノートも、明らかに年齢の内容を超えていた。
少年の肉体的な悩みの種はただ一つ、どんな大怪我よりも堪える、左手中指のペンだこだった。

傍らのデジタル時計のアラームが鳴る。

少年は深く嘆息する。

(俺の歳で睡眠時間を削るわけにはいかねぇ。足りねぇな……全然足りねぇ。まだ空っぽだ、もっと必要だ……)

少年にとって、全ての鍛錬は、終の住処へ辿り着きそこで生きるための手段に過ぎず、決して鍛錬そのものが目的ではない。
未来と今日は等価であり、未来のためだけに研鑽を積むつもりもない。
椅子から立ち上がると、部屋の片隅にあった日本の漫画雑誌を一冊手に取り、寝室へのドアへ向かった。
ふと足を止め、机を振り返る。

(ガキでいるってのは……焦れってぇもんだな)

傍らのデジタル時計は、自らを厳しく律する相棒。

天衣無縫、自由奔放、傍若無人、に見えても実際は違う。
少年には永久に、完全な無縫の自由は無い。
嘗ての定義に含まれる、“家族”への無条件の紐付けのマイナス面の現れだった。
それでも、常に顔を上げ前を向き、世界という望まない迷路を旅し続ける。

故郷への道は未だ半ばにも満たない、ということさえ未だ知らない。
自分の“地”が富裕層ではなく市井で生きるように出来ていることを、少年は自覚している。
母国の平穏な市井を、終の住処と決定した白地図があるが故に。
異国の波乱の市井へ、貪欲に経験値を求める少年は明日も赴く。


廃屋の、薄暗い半地下。

「くっそ、今日は牛蒡買いに行こうと思ってたのに。こんな大雨、聞いてねぇよ」

借りたぼろぼろのタオルでずぶ濡れの髪を拭きながら、不貞腐れた顔の少年が階段を降りてくる。
数歩後ろを、烏羽玉が大人しくついてきていた。

「ゴボウ? ……ああ、gobou。市場にあるね。ハポネのためだけに売られてるって聞いた」
「親切な国だよなぁ。そっちから見りゃ極少民族だろうに」
「ハポネ、真面目で親切。だから好かれてる」
「だったら何で俺にはいきなり襲い掛かってきたんだよお前らはどいつもこいつもよぉ」
「他の東洋人と見分けつかない。それに、ハポネ、こっちには滅多に来ない。あっちでは、働き者で大人しい兄弟。こっちでは、お金持ってて大人しい羊」
「なるほどね。確かにあっちに居りゃ誰もが歓待してくれるが、こっちにしか無ぇもんもいっぱいある。行きてぇとこに行けねぇのはつまんねぇ。とりあえず、今日は牛蒡探しは無理っぽいなぁ」
「アレって、枝?」
「根っこ」
「食べられるの?」
「ああ。美味ぇと思うんだけどな。バードックっていうハーブティーなら結構飲まれてるし、葉っぱんとこサラダにする食文化もあるが、世界中探してもアレそのものを食う民族は殆ど無くてさ。戦時中、捕虜にいいもん食わせてやろうとした俘虜収容所の所員が、当時は貴重品だった牛蒡を買ってきたばっかりに、虐待として訴えられたこともある、ってよ。まぁ、日本じゃその話が広まって、真偽不明なほど尾鰭背鰭ついちまってるが……、」

がしがしと首回りを拭きつつ、手頃な木の椅子を引いて座り、少年は机の上に放置されていたポットの中身を罅だらけのコップに注ぐ。

「誰かが食うもんを誰かが食えねぇこと自体はしょうがねぇんだよ、俺だって初めはここの飯がつらかったし、お前らだって日本ではメジャーな山菜のおかず出されたら雑草にしか見えねぇだろうし。けど……言葉通じねぇってのは、それだけで悲劇なんだろうな」

窟には未だ誰も来ておらず、この二人しか居ない。

「……ヘッフェは、」
「その呼び方やめてくれってば、むずむずすんだよー」
「……タダカズは、日本に帰るの?」
「うん。そのうちな」
「居なくなるの?」
「うん。そのうちな」

特に感慨も感傷も無く語る少年とは違い、椅子の傍に寄り添うように立っていつもの空ろな眼で考え込んでいた烏羽玉は、意を決して切り出した。

「あのね、あたし、」
「ん?」

右肘を椅子の背凭れに掛けてゆったりと座り直した少年は、コップを口元へ運びながら、何気無く訊き返す。

「タダカズの子供が欲しい」

ぶびゅうっ、と盛大に茶を吹く。
全身を拭いた意味が無くなった。

「え。何。いきなり何!?」
「タダカズ、居なくなるから。駄目?」

初め唖然として烏羽玉を見つめていた少年が、ふと真面目な面持ちになった。
椅子ごと烏羽玉のほうへ向き直り、真剣さに真摯さで応える。

「……ああ。駄目だ。俺は地球の裏側へ行く。お前を連れて行きはしねぇ。お前が独りでガキ育てるとかいうのは、絶対駄目だ」
「そういう母親、いっぱい居るよ?」

座ったままの少年は、立ったままの烏羽玉の左手をそっと取った。
その手を軽く握りながら烏羽玉を見上げ、年齢不相応な落ち着きと穏やかさと真摯で続ける。

「そりゃ個人の選択の自由だが、俺の選択肢の中には無ぇ生き方だ。ガキはガキ作っちゃいけねぇ。コレは、お前が独りで生きてくために強くなってきた手だろ? 強くなっていこうとしてる最中に、この手にもう一つ人間を抱えることは出来ねぇんだよ。俺は、ガキは二人で育てるつもりだけど、それは……お前じゃねぇんだ」
「うん」
「そりゃ、お前は素直で可愛くて俺は好きだし、そんなふうに迫られりゃ嬉しいけどさ。お前を好き、ってのは、ここの他の連中を好き、っていうのと同じなんだ」
「うん」
「……初めは、もしかしてお前なのかな、って思ったんだけどな。そうなんだったら、俺は誰が何と言おうとお前を連れて行った。何か……何かが違うんだ。俺の女は……どこに居るんだろうな。すっげぇ年上かもしんねぇし、まだ生まれてきてねぇかもしんねぇな」
「うん」
「それに……お前が欲しいって言ってるガキは、俺じゃなくて一人の人間だ。俺の代用品として考えちゃ駄目だろ」

実際、背負う歴史の割に、烏羽玉は素直だった。
というよりも、シンプルな思考だった。
この辺りでは珍しい自己主張の少なさも、物事に抗わず受け容れる姿勢も、生き延びるための靭さから来ていた。
真剣な少年を真剣に見つめ返してまた考え込んでから、真剣だがいつもの自然体で訊く。

「……子供、作らないなら、いい?」
「は?」
「あたしのこと、好きじゃなくてもいいよ。あたしは、好きだから」

少年の反応も、いつも通りだった。
やや戸惑いはしたが、照れたり逃げたり狼狽え騒いだりもせずまた考え込んでから、真剣だがいつもの自然体で答える。

「うーん。別に惜しいもんじゃねぇし、俺なんかでも欲しいって言ってくれるんなら、お前にやるのは構わねぇけど……」
「タダカズ、初めて?」
「うん」
「ちゃんと教えるよ?」
「いや教えてもらわなくても出来るだろうけど」

烏羽玉が少年の膝に乗り、左腕を首の後ろへ回し、ごく自然に距離を縮める。
今この世界は二人だけで出来ていて、邪魔する者など

「ちょぉっと待ったぁっ! あんたねぇ抜け駆けしてんじゃないよ!」

居た。
もともと蝶番が傷んでいて本体も腐りかけだったとはいえ、胡狼が開け放った木のドアは吹っ飛び、更に壁に打ちつけられて真ん中から割れた。
そんなことには動じもせず、少年に乗り上げてしがみついたまま、顔だけで胡狼を振り返った烏羽玉が冷静に答える。

「早い者勝ち」
「何そのルール!?」

先ほどまでの状況には動じなかったが、今の状況には思わず叫んで後ずさった。
が、背中には椅子の背凭れがある。
少年がじたばたしているうちに、話は勝手に進められた。

「替わりなよ! あたしだってタダカズ欲しいよ!」
「駄目。順番」
「俺の意思は!?」

華奢な左腕一本とは思えない力で少年に貼りついている烏羽玉を引き剥がすのは無理、と分かった胡狼は柔軟に思考を切り替え、直ちに建設的な提案をする。

「そんなら、三人で、ってことでもいいか!? 異存は!?」

烏羽玉も柔軟だった。

「無い」
「あるわーっ! 何で最初っからそんなイレギュラーなことしなきゃなんねぇんだ!?」

もはや少年に発言権は無い。
しかも、一人増えた。

「だ……だったら、僕も……」
「断るーっ!!」

胡狼の背に隠れるようにしておずおずと顔を出した赤犬に怒鳴るが、いつもならば心に届く少年の言葉が、今の彼らには届かない。

「断る余地があるように見えるか?」
「賛成多数」
「お……お願いします……」
「うわぁぁあぁぁぁ」

三人が一斉に少年に圧し掛かって椅子ごと倒れ、今度は木の床板が割れた。

ドアが無くなっている入り口を怪訝そうに見ながら入ってきた金星が、室内の惨劇を見て、呑気な感想を述べる。

「お? いいねぇ、モテモテだなぁ」
「羨ましいか!? 羨ましい状況に見えんのかぁっ!?」

急な大雨から逃れてきた者達が、続々と訪れて来つつあった。

「何? 何? どうしたの?」
「よっ。あのな、今からタダカズが、」
「イチに何吹き込んでんだあと『今から』って何だぁーーーっ!?」


南から北へ、西から東へ。
眼に痛い青空を往く飛行機を、見上げる。

屋根の上で揚げパンを齧っている子供が。
路地裏で空き瓶を拾い集めている少年が。
窟の窓際で札束を数えている少女が。
喧噪の市場を歩く少年と、背負われている少年が。
パブの準備をしている青年が。

塒の窓際、朽ち傷んだベッドの上、起き上がってじっと座っている少女が。

置き忘れたのか置いていったのか、枕元にあった細いリボンタイ。
嘗て全てを失くしたと思っていた少女には、それを握り締めて生きていく左手がある。

少年を連れてきた飛行機を知らなかったが、少年を連れていく飛行機を知っている。
ということが、彼らの宝となる分岐。
自分の夢のためだけに歩き回っている少年が指す明るい方角へ、と背を追う彼らは増えていった。
世界のどこでも少年はあのままで、世界のどこかでまた新たな彼らが増えるのだろう。

見上げた彼らは、泣かない。
今日からを生きていくために。


市街地を見下ろせる丘の上。
少年は珍しく、父と並んで立っている。
不機嫌最高潮の顔で、少年は静かに切り出す。

「……なぁ、親父ぃ?」
「……うむ」
「俺、日本の高校に通って、卒業したらすぐ秋葉原か心斎橋に近いどっかの市町村に就職して、大きく出世せずに定年退職する、って決めてんだけど?」
「……うむ」

政情不安定をミニチュアにして置いたような市街地を睨んだまま、少年はとうとう爆発した。

「またこういうとこかよ!?」
「……済まない」
「ここでどんな仕事するってんだよ!?」
「……分からない」
「早く帰らせろぉぉぉ!!」
「……そのうちな……」