分岐の蝶

「彼の言葉は、自在に他者を動かす」

正二十面体群の発光だけが光源の、相変わらず昼夜が分からない薄暗い室内。

「言葉の力に恵まれていながら、教えも救いも導きもする意思が一切無い。思ったことを思った通りに語るのみで、他者を翻弄しようとも懐柔しようとも考えてはおらぬ。にもかかわらず、或る者には万能の妙薬となり、或る者には臓腑を灼く猛毒となる」

椅子に深く凭れ、老人はここまで自分が取ってきた黒駒を眺める。

「ならば、相手の選別は、何を以って行っているのか? 例えば、全く同じように噛みついて全く同じように『どっかのヘッフェ』と呼ばれた二人の男の場合、一人は取り込まれ、一人は滅ぼされた」

老人が今思い描いているのは、自分の白が黒のキングとクイーンをスキュアにした場面だった。
記憶の中の棋譜を遡り、思考の中でクイーンをキングに置き換えてみる。
黒のキングが二つ並んだ仮想の盤上で、一つを取り、もう一つも再度チェック出来る流れにしてから、そこにキングが無いかのように白を動かし始めてステイルメイトに持ち込む。

「彼は、敵意と悪意を明確に判別する。心理学的素養によってではなく、完全なる無意識下にて選別する」

先ほど動かそうとしていた現実のほうの白駒を手に取り、それをしみじみと眺めながら独白のように呟く。

「敵意を摘み取れば敵ではなくなる相手か、敵意を摘み取った後もなお悪意で成り立っている相手か。前者は取り込まれ、後者は滅ぼされる。故に、彼が通った後に敵は無く、人だけが残る。……興味深いね。いや実に興味深いと思わぬかね、君」

白駒を盤上ではなくローテーブルの端に置くと、老人は椅子を軋ませてのそりと立ち上がり、両手を後ろ手に組んで正二十面体群を仰いだ。

「興味深いが、今重要なのはそこではない。重要なのは、彼の精神性が、経験の積み重ねで形成されたもの……ではない、ということ。環境によって変質することが無い、ということ」

先ほど唯一と真二を観測していた正二十面体に、唯一の遍歴が早送りのように映し出される。

「人間の一生に“もしも”は存在せぬが……少々、試してみるかね?」

その正二十面体の全ての面が不意に暗転し、硬質の翅の蝶の群れが舞った。
再び映像が戻ると、全ての面が過去の任意の時刻を選択して一時停止し、そこから別の分岐を辿って、20パターンの同一時刻の唯一を映し出す。

「蝶が羽ばたき、彼の時間が数分ずれるだけで、彼の歴史はこんなにも変わる。が、平穏な環境で生涯過ごしたとしても、この世の地獄で足をもがれたとしても……最終的に、彼の在り方には一切の変質が観測出来ぬ。全てのシミュレーションで、彼は“宣言通り”天寿を全うする。人災も天災も疾病も不慮の事故も、彼を殺すことが出来ぬ。環境は彼を変えず、彼は環境を変える」

正二十面体は、暗転、任意の時刻選択、分岐、20パターンの同一時刻の表示、を繰り返している。

「彼の最大の分岐は、日本に戻ってからだ。師と、妻。蝶が羽ばたくだけでこの二人との出逢いは消失するのだが……ほら、この通りだ、どう分岐しても彼は必ず別の“決して超えられぬ者”を見つけ出す。妻に至っては、妻帯せずに生涯を終える確率が98%、残り2%は……別の偶然によって出逢った饗島理央。驚異的な数字だよ? 誰しも自分と相似形の精神構造など滅多に存在せぬにしてもだね、妥協して別の女性を娶るという選択肢が彼の人生には存在しておらぬのだ」

興味を露わにしていながら、笑う余裕を少し取り戻したその笑顔は、憎々しげなままだった。

「敵意と悪意を判別するが故に、高原真二と那由多はたまたま赦されたに過ぎぬ。我々にとって最大の問題は、彼が神々を殺すこと、と……神々が彼を殺せぬこと。厳格なる基準の下、神々であろうとも、否、神々であればこそ、彼は容赦無く屠るであろう、ということ。変質せぬ精神性であるが故に、人間に直接危害を加えること能わざる神々が如何に駒を進めて環境を変えようとも、神々は彼を殺せぬであろう、ということ」

ふと思い出したように、老人は正二十面体群のうちの一つへ顔を向ける。
その一つだけがシミュレーションを停止し、先ほどの唯一と真二の交戦をスロー再生し始めた。

「無論、例外はある。人間には掠り傷一つつけられぬ筈のフラグメントが、彼に怪我を負わせている。が、あれは、ファウンダーがフラグメントを道具として使役したからこそ可能だった。古来より、人間は神々を戦場で使役してきたものだ。神の加護を享け、神の名の下に兵を束ね、時として、神ないし神の力を直接用いることの出来る者が神の奇跡で敵を屠る。が……フラグメントないしフラグメントの一部が、フラグメントの意思のみで人間を殺すことは出来ぬ」

交戦記録を再生し続ける正二十面体に背を向け、しかし青年のほうを向くでもなく、老人はやや下を向いて歩き回る。

「取り立てて見るべきところが無い、と最初は思ったが……先ほどの交戦は、非常に有意義だった。高原真二が採った方法……閉じ込める、は有効だ。人間から見れば臆病者の選択であったのかもしれぬが、神々にとっては、もしかするとただ一つの攻撃手段かもしれぬな。即ち、」

椅子を立った時は動くのも億劫なほど気分が沈んでいたようだが、思考が回復してくるにつれていつものように活発に動き出し、更に自分の靴音と歩幅がメトロノームとなって思考の回復が早まる、良いサイクルに入ったらしかった。

「フラグメントの意思のみで人間を殺そうとするならば、未必の故意でなくばならぬ、ということだ。生存率が限りなくゼロに近いが、探せば一応逃げ道のある、幽閉空間。死ぬかもしれぬ、死なぬかもしれぬ、出来れば死んで欲しいなぁ、という状況でならば、神々は人間を殺せる、ということが分かった。が……そのような状況を作り出すのは面倒極まりない。妻が遺したフラグメントが傍に居る以上、彼はいつか必ず関わってくる。あの非常識な身体能力だけでも厄介なのに、……見給え、」

老人が背を向けたままの先ほどの正二十面体が暗転し、今度は螺旋状の遺伝子が映し出される。

「コレが彼だ。身体的に突出した形質が何一つ無い。にもかかわらず、自らをあのような化け物の領域まで育て上げた、精神。否定の言葉のみで幽閉空間自体を壊したようなチートぶりでは、計画の障害になるのは間違いない、ねぇ」

その直後、老人は、あり得ない音を聞いた。

「理想的じゃありませんか」

どこから発せられた言葉なのか分からなかった。
正二十面体群は、音声を再生しない限り、自ら音を立てることは無い。
青年は、息はしているが音が聞きとれるほどではなく、チェスの駒さえ老人と違って盤に置く音も立てずにそっと動かし、時折隣室へ向かう時に椅子と靴とドアを鳴らす程度。
この部屋に入ってからというもの、聞いたものといえば、声、呼吸、鼓動、飲食、衣擦れ、靴、コーヒーを作る際の器具と器具の接触、など老人自身が出す音だけだった。

しかし、低く、抑揚少なく、それでいてよく通るその声は、言葉を続ける。

「むしろ、たまたまファームに王が一人存在した僥倖を歓迎すべきでは? 彼のような者は、皆無ではないが稀少です。彼をサンプルパターンとして記録しておくだけで、     の構築は迅速に行われることでしょう。無機でありながら利便性汎用性に優れた那由多、無機でありながら死せる者の巨大アーカイブを取り込んでしまった無何有……と、恐らくはそのアーカイブと同じ普遍的判別基準を持つ天原唯一。彼らの特性を併用すれば、あなただけなら時間が掛かるであろう作業が一気に短縮されますよ」

ぎ、ぎ、と首だけ動かして、老人は青年を見やった。
猫背気味に座ったままの、今までろくに眼も合わせなかった青年が、無表情の顔こそチェス盤のほうを向いているが視線だけはきちんと老人に向けている。

「き……君……、しゃ、」

ばん、と盤上の駒が浮く勢いで両手でローテーブルを叩き、身を乗り出すようにして老人は叫んだ。

「喋れたのかね!?」
「……今重要なのはそこですか?」
「そうだよ! 今は他のことは割とどうでも良いよ!」
「ということは、今まで、返事を期待せずに話し掛けていたんですか。随分大きな独り言ですね」
「確かに返事は期待していなかったとも、だって最初に会った時から一言も喋らなかったではないかね!? 話し掛ければ耳と頭は反応しているようだから、ならば口が利けぬのだろうな、と考えるだろう普通! いきなりそんなに喋り出したら驚くではないかね! というか『あなただけなら』ってどういうことかね本気で最後まで何もせぬつもりかね!?」
「はい」

沈黙。
会話が終わってしまった。