【断片03/20】赤道近く故郷遠く・小さき軍勢

広々とした、というよりも寒々とした子供部屋。
ぽつんとあるベッドに、華奢な少年が横たわっている。

後の、7歳の天原佳月に瓜二つ。
但し、髪は佳月の鳶色の猫毛よりも黒く硬く、眼は佳月の柔和な目元よりも険しい。

瀟洒なサイドテーブルの上には、水差しに粉薬の袋。
氷嚢はとっくに溶けてしまっていたが、この深夜に誰かが来る気配は無かった。

衰弱した身体の中、双眸だけが子供らしからぬ光を煌々と湛えて、天井を睨み据えている。

(父さん、今日も来ねぇな)
(しょうがねぇか。何万人も守んなきゃなんねぇんだし)

利かん気そうでありながら、子供らしくクマのぬいぐるみを抱き締めていた。
しかし、例えば佳月が常に自分のほうに向けて抱き締めるのとは違い、クマは彼に背を向けている。

(……父さんなんて大嫌いだ。俺は、あんなふうにはなんねぇ)

理解を示してみたところで現状を受け容れる諦念に向かうのではなく、こういう状況の子供にありがちな悪態をついた。
が、それは、「なれない」でも「なりたくない」でもなく、「ならない」という決定。
しかも、それに続く思考は年齢的に、ありがちな発想ではなかった。

(俺が守んのは、自分と家族だけでいい。俺と、父さんと、母さんと、婆ちゃんと……そうだなぁ、いつかは、嫁さんと子供と)

クマと一緒に真っ直ぐ前だけを見つめながら、彼は自らをそう定義した。


何で、俺らは倒れてる?
何で、あいつの顔は血まみれ?
何で、あいつの股は血まみれ?
何で……俺の手が無い?

羊を一頭攫ってくることなど簡単だった。
今回は特に、拍子抜けするほど簡単だった。
未舗装の砂利道に追い込んで強引に停めた車の後部席には、毛皮は仕立ての良い三つ揃え、首輪は上層のベルベットのリボンタイ、12歳の仔羊コルデロ
屈強な男三人に銃を突きつけられると、仔羊はぼんやりと銃口を見つめてからほんの少し困惑した表情になっただけで、命令に「はい。分かりました」と片言で素直に従い、膝に乗せていた分厚い本に栞を挟んでから座席に置く。
運転していたスーツ姿の日本人男性と共に車を降ろされ、ざっとボディチェックを受けている間も、少し俯いてやはりぼんやりと地面を見ている。
それが終わると、一切抵抗することなく、むしろ自主的にすたすたと彼らの車へ歩いていく。

「ったく、ポンハってのは気持ち悪ぃな。こんなガキのうちから何考えてんだか分かんねぇ」
「縛っとく?」
「要らねぇだろ。護身具一つ持ってねぇ、ぬるい羊だぞ」
「生きてても死んでてもどっちでもいいって言われたけど」
「生きてて手間が掛かんねぇってのが一番じゃねぇかな? 生きてるのが映ってるほうが説得力あるだろ。小綺麗なツラしてやがるし、用が済んだら物好きに高く売れるかもしんねぇ」
「だな、先ずはお持ち帰りだ。こっちのはどうする?」
「要らねぇだろ。処分しとこう」

ロープが要るか要らないか、という相談と同じレベルの気軽さで、彼らは決定した。
顔を引き攣らせて硬直したほうのオヴェハは、少なくとも彼らには理解しやすかった。
羊とは、常に狩る対象。
脅しではなく撃つ意思で銃を構え直した時、三人の寿命は、数分縮まった。


その時、仔羊である少年は、襤褸車の後部ドアのアウタハンドルに手を掛け、がちゃがちゃと鳴らした。

「私は、開きません。コレは、施錠されていますか?」

背を向けたまま片言で質問する少年を、三人が同時に見やる。

「そんなのも自分で開けらんねぇのか? とろくせぇな、これだから温室育ちは。ほれ、こうやるんだ、」

呆れて完全に気が緩んだ一人の男が、少年の横に歩み寄って少し屈み、ドアを開けてやろうとすると。
男を仰ぎ見た少年は、――

自分達に背を向けていた仲間が突然、血の凍る絶叫を上げた。
今までの流れと繋がらない状況に、二人は理解不能に陥る。
叫び続ける男は拳銃を放り出し、両手で顔を覆って大きく仰け反った。
その巨体が邪魔で、二人からは少年が見えない。
二人が声を掛けるよりも早く、叫ぶ男に不自然な加速がついて後方へ倒れてきた。

別の一人が別の絶叫を上げる。
叫びと呻きと泡が口内で滅茶苦茶に入り混じり、身体を折り曲げて横倒しになった。

残る一人は、少年の姿を完全に見失った。
どこだ、と思った瞬間には、銃を構えようとした両腕が動かなくなっていた。
自分の背後から正面へ回り込んできた少年を見て、逆上する。
腕を強引に動かそうとして藻掻いた時、撃鉄を上げたまま握っていた銃の引鉄を引いてしまった。
そして、三つ目の叫びが響いた。

誰にも視認出来なかった。
先ず、相手の武装と会話と周囲を把握し、最適な小石に目をつけ。
油断しきっていた一人目の両眼を、素手の指先で潰し。
無防備になった相手の鳩尾に肘打ちして薙ぎ倒し、その巨体を盾にしながら、近くに居た二人目の足元へ。
地に這った低い体勢のまま股間を右足で蹴り上げ、相手が叫んで前屈みになったところへ喉仏の下を肘打ちし。
相手の気管が自らの叫びで詰まって倒れると、両手でのガードが一瞬空いた相手の股間へ左足の爪先で着地し、鉄板の入った靴底に全体重を一気に掛け。
ぐじゅ、という鈍い音が出た直後には、既に三人目の背後へ。
相手のジャケットの襟を掴み、両肘の辺りまで勢い良く引き下げ。
上がらなくなった右手が握っている銃の銃口へ、二人目の足元に屈んだ時に拾ってあった、ジャストフィットの小石を詰め。
暴れて引鉄を引いて暴発した銃が、右手を粉砕し。

その一分間には、逡巡も容赦も一切存在しなかった。

右手が密着していた右腿からも血を流しながら地面をのた打ち回る三人目の禿頭が踏みつけられる。

「てめぇら……誰を処分するって?」

教科書で学んだだけのような先ほどの片言と、流暢な今の下層訛りとが、男の脳内では同一人物として結びつかなかった。
激痛にがちがちと歯を鳴らしつつ横目で見上げ、男は凍りつく。

「あいつは、親父のもんだ。三下が勝手に処分していい奴じゃねぇんだよ」

少年のほうに銃口を向けた時、こんな眼はしていなかった。
今、見下ろしているのは、圧し殺した激昂の眼。

「折角、親玉んとこに案内してもらう間ぐらいは穏便に済ましてやろうと思ってたのに。口が利けそうな状態なのは、えーっと、てめぇだけか。どっかで見かけた気がすんだけど。誰の命令で来た?」
「お、おぉぉお俺俺俺らは、ぁああぁあああぁあぁぁぁ」
「この仲良し三人組だけで誘拐を計画したっていうんなら、あなたがたこそ真の勇者です、って褒める。で、殺す」
「ち、ちが、ちががが違うぅぁああぁあぁぁあああああ」

小さく舌打ちした少年の声は次第に、“逆鱗”からただの“不機嫌”へ移っていく。

「っせぇな、手ぇもげた程度で大袈裟な。三下がカッコつけて馬鹿でけぇリボルバーなんぞ持ってっからそんなことになるんだよ。俺が今訊きてぇのは、『違う』なんていう分かりきった返事じゃねぇ。生きてても死んでてもどっちでもいい『って言われた』んだろ? さっさと吐けば止血ぐらいはしてやる。ったく、三人ぽっちしか寄越さねぇとか、靴さえチェックしねぇとか、てめぇらんとこはナメてんの? 素人なの馬鹿なの自殺なの? よその連中はどこも、もうちょいしっかりしてたぞ」

複数形を過去形で語る少年に、男の恐怖が頂点に達した。
失敗した、殺される。だが、今、殺される。
男の葛藤を見て取り、少年は不意に、天使の笑顔を向けた。
禿頭を踏みつけていた足が退けられた瞬間、(そうだ羊が殺しをする筈がない仔羊なんていくらでも言いくるめられる黙っていればいい)と考えてしまう。
その心身の弛緩を見逃さず、少年は天使の笑顔のまま、血が噴き出し続ける右手首を、躊躇無く真上から真下へ踏み潰した。
身構えていない時の拷問ほど効くものはない。
悲鳴は、空気を震わせただけでもはや音声を成さなかった。

「なぁ、死んじまう前に喋ってくれよ。誰のお使いで来た?」

口角から泡を噴きながら何か言いかけた、俯せの男の背に。
何の前触れも無く、襤褸布のような塊が舞い降り。
布の隙間から、フィレナイフを握った小さな手がするりと伸び。

地に伏している男の延髄を貫いた。


暫しの静寂。
男の手首を踏みつけたままぽかんと顛末を見つめていた少年が、次第にぷるぷると震え始め、やおら怒鳴り出す。

「ぉぃ……おいおいおいこらぁぁぁっ! 何でお前はいっつも、手当たり次第にすぐ殺すかなぁ!? 誰の差し金か分かんなくなっただろ! っつーかどうやってここに来た!?」
「走ってきた」
「ちっがーう! どこで何を聞きつけてここに来たのかって訊いてんだよ!」
「こいつらの仲間、ヘッフェ、攫う相談してた。だから、走ってきた」
「何しに!?」
「ヘッフェ、助けに」
「助け求めてねぇよ!? しかもこーんな大勢で押し掛けて来やがって、お姫様か俺は!?」

国津護くにつまもるは、状況から全力で置いていかれて放心していた。
襤褸布の小さな塊は、よく見れば、継ぎ接ぎの布を全身に纏っていて両眼と前髪しか覗かせていない、少年よりも頭一つほど小柄な、血の滴るナイフを手にした子供だった。
それを睨んだまま血まみれの左手を外へ大きく広げて怒鳴った少年の「大勢」という単語に、国津はびくっと身構えて周囲を見回す。
乱闘、というよりも一方的な蹂躙の名残で立ち込める砂煙のそこかしこに、人影が湧いている。

蒼褪めて振り返ったが、国津が守るべき対象には緊張感が見られなかった。
野鳥のような性別不明のこのナイフの子供に確かに怒ってはいるのだが、直前までの非人間的に苛烈な激昂ではなく、子供同士の日常会話の域を出ていない。
ナイフの子供も、慣れた様子で平然と聞き流している。

総勢、30人前後。
集まってくる人影は全て、幼かった。

「おー、そんな服着てんの初めて見た。そうしてりゃ、いいとこのお坊ちゃんらしく見えるねー」
「喋らず暴れず返り血浴びず、だったらの話だけどなーあはははは」
「ヘッフェ……似合ってる、王子様みたい……」
「あああああいっぺんに喋るなお前らぁ!」

成人に近い身長だが青年と呼ぶにはやや幼い雰囲気の金髪の男が、加害者、いや被害者の屍をにこやかに見下ろした。
国津が慌てて地面を見やると、倒れ伏していた他の二人もいつの間にか動かなくなっている。

「ヘッフェ。コレ、ヴィボラんとこの下っ端」
「あー。何か見たことある連中だと思ったら、そっか。……とりあえずさぁ、」

ナイフの子供から視線を逸らした少年は、今度は青年へ食ってかかった。

「その呼び方やめろっつっただろ!? 俺はいつか日本に帰んの、お前らのヘッフェにはなれねぇの!」
「だからだよ」

毒気の無い笑顔が、少年の頭上高くから答える。

「いつか居なくなるから、今、ヘッフェでいてくれないと」

眼を丸くして青年を見つめていた少年は、軽く舌打ちして眉を顰めた。

「……お前、最初ん時とキャラ違い過ぎるぞ。頭、ちょっと殴り過ぎたかな」

にこにこと見下ろす青年からふと眼を逸らし、少年はまた表情を一変させた。
右腕が肩から無い華奢な少女の、質素なノースリーブのワンピース。
元は薄汚れた生成りなのだろうが、上半身に大量の鮮血がべったりと付着している。

「おい! 怪我してんのか!?」

その言葉が嬉しかったらしく、愛らしい少女の頬がぽっと上気した。

「心配、ありがと……大丈夫……コレ、全部……、」

血に染まった胸元を左手で押さえながら、照れている少女は微笑んで俯く。

「返り血……」
「あぁぁもぉぉ何してきたんだお前らはよぉぉぉ!」

両手で頭を抱えて空を仰ぐ少年に、丸縁の黒いサングラスの痩せた少年を背負っている温厚そうな巨漢が、天候の挨拶のように答えた。

「ヴィボラの窟の留守番係に、色々質問してきただけだよー」
「いやそれ質問じゃねぇよな拷問だよな更に処分してるよな!? 俺がやること片っ端から持ってくんじゃねぇっ……ん? 留守番? あいつら今、街の窟には居ねぇのか」
「うん。あっちに、工場あるよね。閉鎖されてるやつ」
「なるほど、優雅に別荘に御滞在中なわけね。……そりゃあいい。あの中なら一度行った。お前ら、ありがとな。そんだけ教えてもらえりゃ充分だ。気ぃつけて帰れよ」

瓶を何個か紐で束ねて腰から提げている大人しそうな少年が、やはりのんびりと訊く。

「ヘッフェはどうすんの?」
「決まってんだろ」

答えながらジャケットを脱いでベスト姿になった途端。
少年を包む空気が急速に冷え、凪ぐ。
陽気にざわざわ騒いでいた子供達が、冷気を感じ取ってしんと静まり返った。

「俺んちを脅迫しようとしやがった。……敵だ。警察なんぞにくれてやるかよ、どうせ翌日には出てきちまう。敵は、」

リボンタイの襟を緩めて一回瞬きすると同時に、酷薄な笑みが咲いた。

「殲滅する」


少年が一歩踏み出そうとした時、誰からも忘れ去られて立ち竦んでいた国津の呪縛が解けた。

「お……お待ち下さい! そ、そんな、き、きき危険です直ちに御自宅へ、」
「国津さん」

唐突に日本語に切り替わった穏やかな声に遮られ、国津の思考は一瞬途切れる。

「あんたは、親父の味方だ」

少年は普段、年長者への礼儀を弁えている。
国津と対等またはそれ以上の口を利いたことなど一度も無い。

――初めまして。父がいつもお世話になっております。
――おはようございます。どうなさったんですか? ……僕の送迎? それは申し訳ありませんでした。父に伝えておいて下さい、社の人材を私用に使うな、と。

短い付き合いの中での様々な場面が国津の脳裏を過ぎるが、それらが今の少年と結びつかない。
母国語に切り替えても意識が切り替わらないのか、少年は今、国津に初めて、素の状態を見せていた。

「え、あ、も……もっ勿論ですとも! 何を今更、」
「だったら、」

背を向けて立ち止まっていた少年は、肩越しに顔だけで振り返る。

「今後、こういう時は、絶対に危険なほうへ出てこないでくれ。俺が撃たれようが刺されようが、自分の護身だけを考えろ」
「そんな、それでは支社長に申し訳が立ちま」
「あんたに俺は守れねぇ。“現時点で実現不可能なこと”をしようとするな。俺はあんたを、無傷で親父に返さなきゃなんねぇんだ」

国津が初めて見た、奇妙な静けさの表情。
冷静、冷徹、冷酷、冷淡、怜悧、非情、豪胆、といったあらゆる表現が当て嵌まらず、

「親父は必ず日本に帰る。そん時に、あんたみてぇなのが一人でも多く親父の傍に居てくれなきゃ、困る。あんたの仕事はもともと、親父のオマケを守るのが本分じゃねぇ。オマケが商品本体の足枷になる時は切り捨てろ。心配してもらわなくても、簡単には壊れねぇオマケだ、その辺を転がってから自分で店先に帰る。オマケには土が付くが、別包装の商品本体が汚れることは無ぇ」

くるくると目まぐるしく変化していた今日の表情のどれでもなく、

「あの狸が負けっ放しで終わるわけねぇんだよ。なぁ、例えばだけどさ。現在日本の首都は東京です、なんて小田原城以前の誰かが想像出来たと思うか?」

国津がよく知る、天原剛毅あまはらたけとしに酷似していた。

「つっても、法治国家でのお上品な派閥争いなんぞに、俺が出しゃばれるわけでも出しゃばりたいわけでもねぇ。そっちの敵は親父が勝手に潰すだろうし、こっちの敵は俺が勝手に潰す。今あんたが警察に連絡でもしてみろ、明日の朝には俺んちは丸焦げだ。申し訳が立たねぇってんなら、ちゃんと言い訳出来るように縛り上げといてやるが、どうする?」
「……いえ……私、は……」

論理としては滅茶苦茶だった。
にもかかわらず、国津の両足は、静かに放たれる一言一言で地面に縫い止められていく。
国津の力が抜けきって棒立ちになった様子を確認すると、少年は小脇に抱えていたジャケットを国津にひょいと投げて渡し、再び前を向いてひらひらと手を振ってみせた。

「若ぇのにこんなとこにトばされてきて大変だな。まだ慣れねぇことばっかしだろうしほんとは慣れちゃいけねぇんだけど、エリートコースに戻りたかったら、なりふり構わず生き残りなよ。……あ。ケータイ、持ってる?」
「えっ……は、はい、あの、先に社へ連絡しましょうかそれとも御自宅へ、」
「電源、切っといて」

振り返らずに歩き出した少年に、肩から二つのバッグを提げている、気の強そうな顔立ちに雀斑が映える少女が訊く。

「あの兄ちゃんに何て言ったの?」
「ん? ああ、要約するとな。足手纏いだから車ん中でラジオでも聴いて待っとけ、って」


言うなり一気に加速して駈けていった少年の背を、彼らは見送っている。
巨漢が、青年にのんびりと声を掛けた。

「じゃ、行こっか」
「だな」

返事と同時に、青年の笑顔の質が豹変する。
そちらこそが青年本来のものなのであろう、刹那的で粗暴な笑顔。

「タダカズの敵は、俺らの敵だ」


全てが駈け抜け、国津と屍だけが残された。
茫然自失から半分ほど回復してきた国津は、一団が消えた方角を空ろに眺めたまま、社用の携帯電話を取り出す。
どの短縮ボタンを押すか、数秒悩み。
国津は、電源ボタンを長押しした。


「ちょっ、何ぞろぞろついてきてんだ!? 帰れ帰れっ!!」
「たまたま行き先が同じだから。皆、奴らには散々毟り取られてきた」
「……全員死んでも構わねぇんだな?」
「うん。ヘッフェ、命令」
「えー? やだよ。こっ恥ずかしいし。それ、毎回やんなきゃ駄目?」
「うん。駄目」
「はぁー……めんどくせぇ奴らだなぁ。んじゃ、今日は、どうしよっかね……、」

有刺鉄線で厳重に封じられているフェンスが近付いてくると、少年は諦めたように微かに苦笑した。

「全員、晩飯までに帰ること。以上」

試合開始の笛シルバタッソ
矛盾した絶対命令の下、グンタイアリの群れは、花火のように散開する。


――道のあっち側は、つまんねぇ。

大通りを隔てた区画から、物好きにも独りで迷い込んで来た、異国の少年。
彼らは一様に、富める者の浅薄、富めることに飽きた者の傲慢、と解釈した。
羊とは、常に狩る対象。
彼らは一様に、狩りによってのみ生きてきた。

疾走する時、彼らの耳には、少年の声が甦る。

(タダカズは、いつも手ぶらでやって来る)
(タダカズは、施しも憐みもしない)
(タダカズがくれたのは、文字と、数字と、……あの言葉)

彼らの言語で、彼らが聞いたことの無い話を語り、彼らを見たことの無い処へ招く、彼らの小さな魔術師。
その背を追って、その眼が見ている世界を見て、その声が語った言葉を暗唱して、その少年が居るだけで彼らは何一つ懼れない。

扉はいくつもあるが、見張りは道路に面した出入口エントラーダのみ、しかも二人しか配置されていない。
別の出入口から侵入するのは容易だが、彼らは「殲滅する」というただの独り言を遵守した。

最初の衝突エンクエントロ
物陰から、気の緩みきっている見張りの頭上へ、太陽を背にした扇鷲アギラアルピアが飛ぶ。

――おっもしれぇなお前! 軽業師ってもんじゃねぇよ鳥だ鳥! って、あれ? もう終わり? ああ、ここまでは追って来られねぇのか。勿体無ぇな、折角そんなに身軽なのに。お前なら必ず、俺なんかより高く速く“どんなとこでも”飛べるようになるぞ。はいはーい、んじゃ鬼ごっこ再開ー。諦めてんじゃねぇ、猛禽がウサギさんを取り逃がしたらダっセぇだろ?

最初に大きな物音がした方角、眩しい頭上、と2ヶ所に反応しなければならなかった見張り達は、背後にまで注意が回らなかった。
一人の首に、青年の鋼のような腕が巻きつく。

――さっき、笑ったよな? 勝ったと思っただろ? だから負けんだよ。笑いは緊張を殺すためのもんだ。殴り合いの最中に笑うんじゃねぇ。笑うんなら……、

ごぎ、と鈍い不快な音を立て、一人の頸椎が圧し折られた。
銃を向けるべき箇所が増えてしまい動転する残りの一人の両肩に、扇鷲の両足が舞い降りる。
襤褸布の裾に視界を遮られて藻掻くその首の後ろを、正確無比にフィレナイフが捌いた。
二人分の勝利を確認すると、

――とどめ刺してからにしろよ、どっかのヘッフェ。

元リーダー格の金星ショロトルは、凶悪な笑みを浮かべた。


一人も取り逃がす気は無い、仮に首謀者が狩られている間に隠れてやり過ごそうとする者が居たとしても取り零す気は無い。
故に、彼らの一部は真っ直ぐ1階プラテアへ、一部は真っ直ぐ最上階の4階ヘネラルへ。
誰に命じられることもなく、誰に命じることもなく、各々が各々に最も適した場所を目指す。
蟻が、自らの役割を知っているのと同じように。

――あいつらは、お前らから横取りすることで頭がいっぱいだ。逃げることも奪い返されることも、考える容量が無ぇ。だから、あいつらの知らねぇこと、気付いてねぇこと、どうでもいいと思ってること、知っとけばいい。一つでも、小さくても、どんなことでも。お前らの窟の道に落ちてる小石一つで致命傷を負わせることだって出来るし……非常口が非常口の用を一瞬為さねぇだけでも致命傷を食らわせられる。

扉という扉を全て閉じていく一団。
窓という窓を全て閉じていく一団。
敵という敵を、全て狩っていく一団。

吹き抜けを囲んでいる3階通路の一辺。
銀熊エロソプラテアードもまた、背負っていたサングラスの少年をそこの柵の前で降ろし、特に何か言い残すでもなく狩りのために駈けていく。
残されたサングラスの少年は、柵に背を向け、膝を抱えて座った。


――けど、俺らは所詮、ガキだ。

仲間とはぐれたある男は、通路の角を曲がった時、華奢で小柄な少女と出くわした。
想定外のものとの突然の遭遇に、一瞬呆気に取られる。

「なっ……何だてめぇ!? どっから入ってきた!?」

怒声や風貌に逃げ出しもせず、少女は2mほど先に立ち止まったまま、困ったような顔で小首を傾げて男を見上げていた。
よく見ると、右腕が肩から無く、包帯を厚く巻きつけた左手でその断面を押さえている。
真っ赤に汚れた衣服も併せれば、大怪我をしているようにしか見えなかった。

「あのね……あたし……おじさん達に、言わなきゃいけないこと、あって……来たの。さっき、ここに、来た人達の、こと……」

銃底で一発殴るだけで失神しそうなこのおどおどした隻腕の少女のどこにも、危険性など見当たらない。

「な、何だよ。あいつらの仲間じゃなさそうだな。何か知ってんなら教えろ、悪いようにはしねぇ」

有益な情報を持っているのならば、怯えさせないようにしなければ。
男は無意識に、銃を下げて膝を少し屈めていた。

「うん……皆が言ってたよ……おじさん達……、」

てく、てく、と慎ましげな足取りで近付き、少女は耳元で囁き掛ける。

「邪魔。……って」

易々と。深々と。
左手の包帯の中から伸びた、柄の無いナイフが一閃し、男の頸動脈を断ち切った。

――ガキの非力さ、ガキの浅知恵、ガキの経験値不足。だったら、ガキであることを活かそうじゃねぇか。相手がガキだと思ってくれてる間にだけチャンスがある。逆上させちまった後だと勝ち目は無ぇ、一目散に逃げろ。目安は、そうだな……、

異変を察した別の男が二人、通路の向こうから駈けてくる。

「てっ、てめぇっ、このガ……」

屍の横で立ち止まったまま、返り血の増えた少女はゆっくりと振り返った。
彼らは銃を構えようとしている。
嘗ての少年の言葉が耳に響いているにもかかわらず、無表情の少女は瞬きもせず敵を見つめていた。

――相手が『このガキ』って言い終わる前だ。

突如、通路脇から、銀熊が敵に襲い掛かった。
「襲い掛かった」としか表現出来ない、野獣の猛突だった。

――スっゲぇ、お前マジで俺とタメなのか? 参考にしてぇからちょっと教えてくれ、何食って育ったらそうなる? けどなぁ、ほら。俺の骨、折れてねぇだろ。確かに痛ぇが致命傷になんねぇ。折角の馬鹿力なんだ、とどめ刺せるように周りを上手く使えよ。例えばこんなふうに……あ。あれ? お、おい、生きてるか?

後ろから後頭部を掴まれた二人の男の顔面は、膂力が生み出したとは到底思えない速度で、一人は近くにあった木箱の角へ、一人は窓ガラスを突き破って眼下のアスファルトへ、それぞれ叩きつけられ陥没した。
悲鳴を上げるいとまも、いや自分に何が起こったのかを認識するいとまも無く絶命した三つの屍を残し、自分の狩りのついでに囮を務めた烏羽玉ペヨーテは、銀熊と言葉も視線も交わすこと無く、再び二手に分かれる。


屍から屍へ、胡狼チャカールが走る。
左肩から右の腰へ、右の肩から左の腰へ、それぞれ大きなバッグが襷掛けにされていた。
戦場稼ぎも斯くやという鮮やかな手際で、彼女は屍から目ぼしい金品を抜き取っていく。
財布、時計、貴金属、等は右のバッグへ。
銃と弾のみ、左のバッグへ。

―― 一般の店から盗むなってば。え? いや、そんな道義的な話じゃなくてさ。そいつらはいつかお前の敵になる。敵は、増やすもんじゃねぇ。潰していくもんだ。どうせなら、今存在してる敵から盗れよ。っつーわけで、俺は敵じゃねぇから、ほれ、財布。返せ。今日の飲み物代しか入ってねぇぞ、ソレ。


2階通路を駈ける少年の行く手に、目当てのドラム缶があった。

(オッケー。まだ、ある)

数m後ろを駈けてくる銀熊の足音を認識すると、通路脇に積み上げられている短めの鉄パイプの山から、足を止めることなく2本を取る。
駈け抜けながら、同じく通路横に並んでいるドラム缶のうちの三つに、鉄パイプのうちの1本で大きく“〆”の傷をつけていく。
仕上げに、鉄パイプを2本とも背後へ投げ、それらが金属の床に落ちてがらんがらんと反響する音を聞きながら、振り向きもせず駈け去った。


残された時のまま膝を抱えてぽつんと座っているサングラスの少年を、通路を駈ける胡狼が視認した。

(イチ)

仲間から“イチ”と呼ばれる少年は常に、仲間の目線で発見されやすく、且つ、敵の目線の死角になる物陰に“設置”される。
一旦イチが座り込むと、仮に敵が正面を通過したとしても発見されないほどに気配が無くなる。
とはいえ、イチに万が一にも害が及ばぬよう、いつもイチを背負っている銀熊は最初に必ず、その一帯の敵を掃討するのだが。

外しやすいように襷掛けの上側に掛けていた左のバッグを、イチの前にどさりと投げ捨て、やはり声を掛けることも失速することもなく駈け抜ける。
新たな回収物へと向かう胡狼の足音が遠ざかると、イチはサングラスを外してシャツの胸ポケットに入れた。
自分の前に降ってきた何かの表面に掌でぺたりと触れて、慣れ親しんだバッグであることを確認する。
その中身にも触れてみて、現況に最適な品を二つ、選んだ。


分断され狩られていく大人達の中、吹き抜けから1階フロアまでを俯瞰出来る4階踊り場に辿り着いた、一人だけ何故かネクタイをしている男は、彼らを侮ってはいなかった。
焦燥はあっても逆上はしない。
最も早く非常口に辿り着いたにもかかわらず、一人だけ脱出する、という選択肢は初めから無かった。
忠誠心など欠片も持ち合わせてはいないが、自分を頭脳労働者として購入してくれた以上は務めを果たす。
このような場に置いておくには惜しいビジネスライクぶりだった。

(落ち着け、あいつらをガキだと思うな。俺らにだってあの時代があっただろ、ガキの怖さは知ってる。だが……ガキの寄せ集めが、これほど統制の取れた動きをするには……、)

伴っていた男達に、静かに鋭く叫ぶ。

「どっかに、小賢しい司令塔メディアプンタが潜んでる筈だ。あいつらが指示を受けに合流してる奴を探せ、最優先でそいつを潰せ。それと、単独行動インディヴィドゥアルはするな。見ろ、あいつらは接近戦ディスパロコルトしか出来ねぇ」


3階通路、吹き抜けの一辺、細い手摺りの上を、扇鷲が飛ぶ。
扇鷲は、複数の敵、特に銃を持つ敵とは対峙しない。
一人一人を自分の手で確実に仕留められない場合は、陽動に徹する。
宝くじ的に幸運な流れ弾でも無い限り、扇鷲を撃ち落とせる者が居ないからこそ。

――トゥーハンドかよ、かっけぇなお前! ……え? 別に、気持ち悪かねぇけど? うーん、説明しにくいな。お前が見えてねぇのは多分、モノの形と色なんだ。モノの存在や運動や距離感を把握する視覚経路は生きてる。だから、ほら、俺が止まったら真横の樽と区別つかねぇし、お前が目ぇ瞑ったら……な、砂ぶっかけられたら俺が“見えなくなった”だろ。そういう症例があるんだよ、っつーかお前ほど極めてたらむしろ俺の国じゃヒーロー扱いだぞ? まぁ、的を確実に捕捉してぇなら、的が出す音に頼るだけじゃなくて、

聞き慣れた軽い足音を追う、無様に重い足音が二つ。
立ち上がって後ろを向いたイチは、おもむろに両手に銃を構える。

通常、拳銃は右手で撃つことを想定して造られている。
左利き用は生産数が少ない上、両手が塞がってしまうと弾丸の装填などに手間取り、西部劇ならばいざ知らずオートマチックが普及した現代で二挺拳銃というものは現実的ではない。
が、イチには関係無かった。
視覚無しで劣悪な環境を生き延びるべく他の身体機能を発達させた結果、右利きにもかかわらず左手が所謂ウィーク・ハンドではない。
「弾が入っている銃」を「同時に撃つ」ことさえ出来れば良く、今の場合ならば「弾が少なくとも1発入っている銃」を「的が規則的に動いているうちに、射撃の反動のタイムロス無く、同時に2発撃てれば良い」。

――的を仲間に動かしてもらうってのも有りだ、ブラインド・フューリー。……ん? ああ、リメイク映画の主人公。オリジナルバージョンは、

気味が悪い、と周囲に言われるがままにそう信じ込んでいたそれは、たった一度の会話で神の眼となった。
形状も色彩も映さない両眼が視るのは、躍動する世界。

――“座頭市”な。

吹き抜けを隔てた反対側の通路から、2発の弾丸が二人の敵の頭蓋を粉砕した。


VIP席パルコを逐われて試合会場エスタディオに下りざるを得なくなったヴィボラとその女が、階段で隔てられた反対側の区画での退路を失って逃げ込んだのは、吹き抜けの1階フロアだった。
それ目掛けて、大量の粉、続いてドラム缶が三つ、落ちてくる。
ドラム缶の直撃は免れたが、二人は視界を奪われた。


あまりにも自由な襲撃だった。
アクション映画のような華々しさも、軍隊のような厳格な命令系統も無い。
明らかに連携している何らかの集団でありながら組織エキポではなく、個別の獣がたまたま同じ場所で狩りをしている、そんな光景。

「こいつら……司令塔が居ねぇ!?」
「意外だな。ヴィボラんとこにもちゃんと、脳味噌入ってる奴、居るじゃねぇか。で、そっちの司令塔はてめぇってわけか、ホワイトカラー。単独行動は危ねぇぞ」

(莫迦な。背後を取られる筈がねぇ。非常階段はちゃんと見てた。ここは4階だ、外に剥き出しの踊り場だ、どっから来やがった!?)

一瞬混乱はしても、ネクタイの男の反応は迅かった。
が、銃を構えた角度から別の角度、特に真後ろへ構え直す予備動作の際、腕に全力を込めていられる人間は極めて少ない。
振り返りざまに弧を描いて動く右腕を、少年が両腕で捕らえて全体重を掛けて正面に回り込み、元の位置に戻しながら肘の内側を肘打ちした。
反動で逆方向へ弧を描いた銃口は、ネクタイの男の顎の下でぴたりと停止する。

「司令塔なんざ居ねぇよ。あいつらは自分の脳味噌で臨機応変に……っつーか、好き勝手に動く。俺もな」

あり得ない握力で右腕を固定されたことよりも、間近で見上げている少年の眼と言葉に射抜かれて全身が麻痺した。
敵の指先に指を重ねた少年が、躊躇なく引鉄を引く。

「暴力ってのは人間の、まぁ、呪いだ。呪いに失敗したら呪いが返ってくるっていうだろ? 俺はさ、呪われたくねぇから、自分からは殴り掛かんねぇんだよ」

自らの銃に顎を撃ち抜かれてどさりと崩れ落ちた相手を何の感慨も無く一瞥してから、少年は吹き抜けの1階フロアを見下ろせる位置に立った。

(さて、と。アレをどうすっかね)

粉に咳き込んでいる生き残りを、やはり何の感慨も無い眼で観察する。

(的は二つ、遮蔽物デフェンサ無し、粉が3バケット分ぶちまけられたフロア……ちょっと近付きたくねぇな。こっちの遠距離組ってぇと二人だけ。大きく動かねぇ的じゃ、イチには難しい……)

ふと、異臭が鼻を刺す。
眼を細め、少年は微かに笑った。

(なぁんだ、もう終わってんじゃねぇか。んじゃ、とっとと帰るか)


「こ、このガ……」
「ばっ馬鹿、待て! ここで撃つな! 今撃ったら……」

眼も開けられない状況でありながら二階通路へ銃を向けようとする女を、ヴィボラは蒼褪めて制止した。
粉は未だ濛々と立ち込めている。

(粉塵爆発狙いか、畜生、小賢しい……)

視界は悪いが、ヴィボラの眼は敵を捕らえた。
階段区画から2階通路へ、ズボンのポケットに両手を突っ込んで歩いてくる、ベスト姿の少年。
小走りでも悠然とでもなく、自宅の廊下を歩くかのような自然さで。

2階通路の真ん中で立ち止まり、少年は真っ直ぐヴィボラを見下ろした。
場違いに爽やかな笑顔に眼が釘付けになる。
それは“楽しげ”ではなく、年齢不相応に営業的、またはサロン的な笑顔だった。

「初めまして、セニョール・セラーノ・メンドーサ。タダカズ・アマハラです」

名乗られるまでもなく知った顔、写真でのみ知っていた顔、誘拐または殺害するよう命じておいた筈のその顔が、今ここに在る事実に慄然とする。
ヴィボラのような者にとっては不愉快極まりない、上流発音の口上が澱みなく流れ出た。

「本日はお招きに与りまして誠に有難うございます。若輩の身に余る御歓待、深く感謝致します。早速ではございますが、本題失礼致します。本物件は売買契約が成立しており、第三者が不法占拠をお続けになりますと当事者の不利益は甚大です。貴殿との係争となり長期化すれば三者とも得るものはございません。恐れ入りますが、即時退去、」

呆れるほど優雅で自然な紳士の一礼をしつつ、少年は、要望ではなく、耳を疑う宣告をした。

「つまり、死んで下さいますよう、何卒宜しくお願い申し上げます」


少年の数歩後ろに、一人、また一人、と人影が現れる。
嘗てヴィボラが踏み躙ってきた蟻の群れは、少年と同じ眼でヴィボラを見下ろしていた。

いつだったかの、ネクタイの男からの報告が突然甦る。

――西の窟のヘッフェが入れ替わったようです。
――……ガキどもの? あの狂犬がどうしたって?
――何でも、東洋人らしきガキが狂犬を潰したとか、ソロや小人数組だったガキどもが徐々に吸収されているとか……。
――あいつらがチーノとつるむとは思えねぇな、ニッケイかね。ま、誰が頭になろうが大勢に影響は無ぇ。ウチの使いっ走りも出来なさそうな連中だ。

(ニッケイですらなく……ポンハ、だと……! こいつ、ガキどもを買い集めやがったのか!?)

唐突に、一礼したままの少年の語調が変わった。

「プレシデンテ・タカギは、眼の前の銃口に向かって、何て言ったっけ?」

(へ……? 何の話だ?)

顔を上げた少年の相変わらずの微笑に、ヴィボラは愕然とする。
一礼の前と今で、両眼だけを入れ替えたかのような。
少年的でも日本的でもなく、激しも凍りもせず、転がっているドラム缶とヴィボラを同じ物として見ている、温度の無い眼。
微笑から流れ出る声もまた、温度を持たずに言葉を紡ぎ続ける。

「日本の血、ナメんなよ。巨大企業の上のほうなんていう魔窟には、銃で言うこと聞かねぇああいう馬鹿がうようよしてる。もしてめぇが順調に俺を攫ってたとしたら、俺の親父がすんのは間違いなく、てめぇからの電話を切って、世界一不運な刑事にかけ直すことだけだ」

(世界一不運な……あ。何でこんな時に、呑気に映画の話なんか……)

「けど、生命の危機に晒されてるいたいけな被害者の俺としては、ヒーローの御到着を待ってる余裕なんざ無ぇわけよ。正当防衛は万国共通だろ?」

ポケットから両手を出し、少年は柵の手摺りに両肘を凭せ掛け、フロアを覗き込むようにやや身を乗り出した。
少年の額から目元にかけて、血が飛び散っている。
少年自身の血ではないことは、赤い左手を見れば明らかだった。
生乾きの血にべっとり汚れていながら、僅かにでも痛みに苦しめられている様子は無い。

(こ、こいつ……手下使ってるだけの仔羊じゃねぇ!)
(違う、こんなのは違う、あの眼は……俺のもんだ。何で俺が……あの眼で見下ろされてる!?)

「あ、そうそう。御心配を払拭して差し上げるべく最初に言っとくべきだったんだろうけど……ソレ、粉塵爆発しねぇぞ?」

何を言われたのか一瞬理解出来なかった。
手摺りに肘をついたまま、少年は右手を裏返し、特定の何かではなく空気を指差す。

「むしろ爆発性現場の作業用によく使われてる、防爆向きの安定素材だ。いや、一定条件下では爆発する可能性もゼロじゃねぇんだが、こんな風通しのいい吹き抜けでそんな厳しい条件は揃わねぇよ。ほーら、俺は手ぶらだよ? 専守防衛の国からやって来た、堅気の家のお子様だよ? 安心して撃っていいよ?」

手摺りに肘をついたまま両手を広げてみせる挑発に、かっと頭に血が上りかけた。
とはいえ、倫理無き者達を少数とはいえ束ねてきたヴィボラの頭は、さほど軽くはない。

(このクソガキっ……いや、ブラフだ。あの余裕、自分の安全を確信してやがる。口車に乗せられて撃ったら爆発するかもしんねぇ)
(いや、それもブラフか? こんな至近距離で爆発したら、あいつらだって無事じゃねぇ筈だ)
(一番近い出口は……左。あの中で銃持ってんのは……一人だけ。この粉が危険なら、あいつらだって銃火器は使わねぇ)
(あの二挺拳銃にさえ気をつけりゃ、こっちは二人だ、距離を保ちながら逃げられる……が……一か八か、あいつらが下りてきて囲まれる前に、あのクソガキだけでも撃つべきか)
(どっちが正解だ? この粉は……あいつが言う通り安全なのか、俺が思ってる通り危険なのか……撃っていいのか、駄目なのか……)

「まぁ、いくら風通しが良くったって、俺らは吸い込みたくねぇからそこには下りねぇけどな。ほんとは今ここに立ってんのも嫌だし。ソレ、肺に溜まるとマジでヤベぇぞ。てめぇの主治医メディコはこの近所か?」

(っ……それが切り札かぁっ!!)

思考の迷宮に追い込まれていたところへ想定外の危険を示唆され、ヴィボラはパニックに陥った。
さすがに背を向けたりはしないが、慎重に銃を構えたまま、ぴちゃ、ぴちゃ、と水溜まりを踏んでじりじりと最短距離の出口のほうへ後ずさる。

(……ぴちゃ? 水音?)

不意に、少年は、彼自身の自然な笑顔になった。
嘗て、敵に「とどめを刺すまでは笑うな」と言った。
にもかかわらず少年はよく、戦いながらこの笑顔になる。
少年にとっては矛盾ではなかった。

――俺、武器使うの苦手でさぁ。壊れるし。かさばるし。証拠になりやすいし。刃物は血糊ですぐ切れなくなるから大勢相手には向かねぇし。棒は狭い場所には向かねぇし。銃とか弓とかソレとか、消耗品だと弾切れになるし。な? 全弾外しちまったら、お前、もうやることねぇだろ。自分の武器で逃げ場失くしてどうすんだ。乱発して警戒させるからそんなことになる。一撃で仕留めろよ。お前みてぇなオウンゴールアウトゴール野郎は、

「正解は、」

――こんなふうに。的に当てようとするより、的を広げたほうがいいぞ?

「俺を撃つ、でした」

(まさか)
 (まさか、だって、)
  (だってあそこに全員揃ってるじゃねぇか、あそこに、あいつの後ろに……他に切り札がある筈が無ぇ!)
(……何で、俺はあれを“全員”だと思った?)

あの眼で佇む少年の後ろに同じ眼の者達が集うさまを見れば、誰でもそう考えたであろう。
本能的な恐怖に、ヴィボラは振り返って宙を仰ぐ。
少年が見下ろしている2階通路の反対側の一辺、ヴィボラの真後ろの角から。
赤犬チャンティコが火炎瓶を連投した瞬間を見た。

一ヶ所を残して全ての出入り口を封鎖し、その一ヶ所にだけ開栓して横倒しにしてあった、幾つもの小型の燃料缶。
特有の強い刺激臭にすら気付かないほど少年と粉塵に全神経を奪われていたヴィボラと女の足下で、充分に流れ出た油が一気に炎上する。
炎に呑まれる刹那、半狂乱のヴィボラは、奇妙に冷静な自分の声を聞いた。

(あいつは真っ直ぐ歩いてきた、誰にも指示してねぇ、目配せ一つしてやしねぇ)
 (あいつが立ち止まった場所が最終の合流地点なのは間違い無ぇんだ)
  (なのに、何で)(何で伏兵ススティトゥートが居る?)
(何でこんなに 用意周到   ?)

「そいつの毒性がキッツいのは嘘じゃねぇんだけどさ。何ヶ月かかるか分かんねぇ発症まで待ってやるほど暇じゃなくてな。得点王ピチーチがとどめを用意してて、しかもそれが完成するのに時間が掛かるんなら、俺の役目は、的を足止めしたり的を誘導したりする援護アシスティールだけだ」

印をつけて工具代わりの物を残しておけば、銀熊はドラム缶を直接の凶器にするのではなく中身を使う。
徐々に広がっていく油の上へ敵を誘導していれば、赤犬は合流せずに死角へ回り込む。
事前の打ち合わせやその場の指示など必要無い。
少年の言葉が血肉となり、各々が各々の主となっている者達にとっては。

「てめぇらが今そこに居るのは全くの偶然だが……俺らは、てめぇらに全ての偶然を許さねぇ。俺らが封鎖した時点で、どこに逃げ込もうが関係無ぇんだよ。別の場所には、誰かの別のとどめが用意されてる。苛酷な訓練を受けてきた筈の職業兵がマニュアル無視のガキのゲリラに殲滅される、なんてよくある話じゃねぇか」

自らの口から迸る絶叫に、自らの脳のどこか遠くで響く冷静な声が混じる。

(芝居がかった科白も 一番危険な場所に立ってたのも 全部  全部   )
(あり得ねぇ     あの クソガキ  自分を   囮に    しやがっ   )

「じゃあな、どっかのヘッフェ。俺は、嘘なんざ一度もついたことの無ぇ、純真なお子様だよ。人の言葉を信じらんねぇ奴って悲しいもんだな」

少年は戦闘狂ではない。試合終了シルバートフィナルと同時に笑顔は消えている。
柵に凭れたまま、むしろ呆れたような顔で、小さく溜め息をついた。


後に高原真二が気付いた通り。
この少年に天敵が存在するならば、聴覚が無く、且つ、手話を知らない者のみであろう。
それほどまでに。
天原唯一に敵対するならば、彼の言葉に耳を傾けてはならない。