唯一無二

「え。もう見終わったの? 俺、午前いっぱいかかったのに。お前どっかおかしいんじゃない? やっぱりスゴいねー、ダっサいオタクのくせに」
「お前のほうこそ、どっかおかしいぞ。電算の連中じゃあるめぇし、あんなもん普通に眺めてたら気付かねぇだろ。やっぱスゲぇな、腐った変態のくせに」

という会話があったのが、

「で、どうすんだ。気付いちまった以上、全部局で調査する方向に持ってくべきなんじゃねぇか?」
「難しいねー。それやろうとすると先ず、アルバムとじゅーきちゃんの栞、それぞれ部長級決裁まで上げてからシステム管理課に提出しなきゃなんない。それを精査してー、電算室長の決裁が下りてー、そっから漸く各部局に調査命令が出てー、って何日かかるか分かったもんじゃないよ」
「緊急扱いで根回し出来ねぇかな」
「そうしたいけど、俺、今日の午後いっぱいと明日丸一日、課長級研修受けなきゃいけなくて。お前、独りで電算に根回し出来る?」
「んなこと下っ端に出来るわけねぇだろ。提出用の栞の打ち出しすら、許可下りるか怪しいぞ」
「じゃあ、一日だけ待っててよ。明後日には何とかするからさ」
「それまでに外にダダ洩れになったら、俺らのクビがヤベぇんだけど?」
「お前も気付いただろ、その可能性はすっごく低い。でも報告はしなきゃいけないし、明後日に気付いたことにすればいいんじゃない? あ、自分が今日つけた足跡は消しといてねー」
「仕事熱心なのか税金泥棒なのか、自分のキャラはっきりしろよ」

昨日の内線電話の中でのことだった。
卓上カレンダーを見やり、唯一は気分が重くなる。

(幸多が動けるようになんのは明日からか。はぁー。日程調整して、起案書作って、いや先ずは豊雲次長に報告して……急かしといて何だけど、めんどくせぇなぁ)
(終業まで……あと20分か。今日はさっさと帰って、……帰って……)

腕時計を見た唯一は、別の憂鬱に沈む。
つい二日前までは心躍っていた“帰る”という語から連想したのは、唯一の家に居るべきではない無何有についてだった。
理央、佳月、無何有、のことが常に頭から離れず、何を考えていても思考の上を霞のように覆っている。
その霞が、“帰る”という語に反応して、急に濃くなった気がした。

スマートフォンが鳴る。
ホルダーから出してみると、行きつけのアニメショップの電話番号が表示されていた。

「いつもお世話になっております。御予約頂いておりました商品が入荷されました」

唯一らしくもなく、一瞬、ぴんと来ない。

(……ああ、アレか。予約したの何ヶ月前だったっけ。綺麗さっぱり忘れてた。珍しいな、俺がDVDの発売日忘れるなんて。そういう気分じゃねぇんだが、)

何かをしようとしても、何かをしないようにしようとしても、常に付き纏うあの映像が脳裏をよぎる。
理央の眼を通して佳月を見て、理央の声で語る、無何有の言葉。

――天原理央は、天原唯一及び天原佳月が、今まで通りの生活を維持することを願いました。

短い溜め息をつくと、唯一は静かに答えた。

「……ありがとうございます。今日、取りに伺います」


初回限定特装版DVD-BOXの入ったアニメショップの袋を提げて、唯一は最寄り駅からの帰路を急ぐ。
帰ることに気が進まないのに急いでいるのは、佳月の様子が心配だから、というのが一番の理由だが、寒がりだから、でもある。

夕と夜の狭間の、金と菫色の空。
住宅街の人通りの無いアスファルトから立ち昇る、肌を刺す冷気。
ところどころに、鳥の声。

周囲の変化は唐突だった。
色も熱も音もそのままに、唯一の周囲が“塗り潰された”。

足を止めて360度を見回してみる。
もうすぐ自宅、という地点の見慣れた風景が、跡形も無かった。
眼に映るのは、上下左右の無い、鮮やかなオレンジ色。
まるで、誰かがペイントツールで先ほどまでの風景の一部の色を抽出して、視認し得る空間全てを塗り潰したかのような。

無何有に侵入されたこと以外で、唯一は怪異を経験したことは無い。
それでも、無何有を初めて見た時と同様、狼狽え騒ぐことはなかった。
問い質すべき相手が、眼の前に居る。

通常の距離感覚で、約10m先。
一見普通の、大人しそうな青年が立っていた。
やや長い髪、細い銀縁眼鏡に地味なスーツにネクタイ、中肉中背の標準的な体躯。
にもかかわらず、異様なものを“連れて”いる。

青年の背後に、幼児くらいの大きさの薄闇が蟠っていた。
深緑の地に、蛍光の黄緑の文字列が、帯を成して絶えず渦巻いている。

「初めまして。天原唯一さんですね?」

事務的ではあるが穏やかで、知も礼も感じさせる声だった。
だが、唯一は答えない。
名乗らない相手から名を問われる経験ならば飽きるほどあり、その後の展開も常に同じだったから。

「今日は、お願いがあって参りました」

警戒の表情を解かない唯一を慎重に観察しながら、青年は言葉を継ぐ。

「あなたのフラグメントを……消して下さい」


「あーあー。困ったものだ、ねぇ」

白衣の老人は今日も陽気だった。

「我々は別に、フラグメント達にバトルロイヤルをさせたいわけではない。現段階では、出来る限り多くのフラグメントが存在してくれねば。特に、那由多と無何有は、どちらも欠けて欲しくないものだ。……お。漸くお目覚めかね」

丸二日経って、白衣の青年が、入っていった時と同様にのそのそと隣室から出てくる。

「高原真二の論理的帰結は、常識的には正解だったのだが、ねぇ。非常識な切り取られ方をした無何有のファウンダーは残念ながら、……えーっと何という名だったかな、そうそう今言っていたな、天原唯一、ではない。この二人が衝突したところで、高原真二にとっても我々にとっても、収穫は無いことだろう」

青年は椅子に座ってチェス盤のほうを向いた、が相変わらず正二十面体群を見上げることは無い。
その露骨な無関心さには構わず、老人もチェス盤の前に座りながら、映画的な娯楽に興じるかのように正二十面体のうちの一つを振り仰いだ。

「せめてもの収穫は、高原真二の勘違いのお蔭で、巨大フラグメント同士の衝突が今のところ回避された、というくらいか。とはいえ……今後、一部のフラグメントの淘汰は止むを得ぬかもしれぬな。類似の神々は相食み合うものだ。どちらが真なる存在かを証明するために、ねぇ」


「……あー。えっと。意味分かんねぇんだけど。俺の、何を、何だって?」

漸くあった唯一の返答を、高野真二は韜晦と解釈した。

「天原理央さん……というか、彼女の振りをしているフラグメントを、消して下さい」

数秒の沈黙の後、唯一は真二の背後の薄闇に視線を移した。

「……へぇ。ふん。なるほど。アレの類似品か」

その表現は激しく真二の癇に障ったが、努めて冷静に言葉を継ぐ。

「あなたの幼いお子様が、フラグメントを切り取ってきたとは考えられません。あなたがファウンダーですね?」

左足に軽く力を込めて靴底をじゃりっと鳴らした後、唯一は真っ直ぐ、行く手に真二が居ないかのように歩き出した。

「済まん。頭、大丈夫か? マジで意味分かんねぇ。じゃあな」
「分からない筈はありませんよね。現に今、あなたは僕のフラグメントが視えているし、動揺もしていない。普通、いきなりこんな状況に置かれて冷静でいられはしないでしょう?」

至極真っ当で真剣な問い掛けに、唯一が逆に不思議そうに問い返した。

「へ? 何言ってんの? この程度のこと、ファンタジーの世界じゃ、しょっちゅうあるだろ?」

真二は混乱する。

(え。何? 何言ってるんだこの人?)

人生初の、二次元どっぷりの人間との遭遇だった。


混乱したのは真二だけではなかった。
今まさに白駒を進めようとしていた右手が、ぴくり、と宙で止まる。

「え。何? 今……何と言った?」

呼吸も忘れたように全身を硬直させたまま、老人はぎこちなく首だけ回して正二十面体群を振り仰いだ。

「……『アレの類似品』、だと? 『視えている』……だと!?」


「で。何がしたいわけ?」
「ですから! ……あなたのフラグメントを消して頂くまで、お帰しするわけにはいきません。餓死するまででもここに居て頂くだけです」

(人殺しなんかしたくない。本当に餓死しそうになったら助けてしまうかもしれない。だから……頼む、無駄に苦しむ前に、アレを消してしまってくれ)

人生初の恫喝で揺れている胸中を見破られないように、という祈りは、やけに長閑な科白に砕かれた。

「消せ、って言われてもなぁ。アレ、俺が呼んだわけでも創ったわけでもねぇから。消し方なんざ知らねぇよ」
「……あなた、では……ない?」

血が上る。頭の中が揺れる。あり得ない、そんな結論は“あり得ない”。

「そんな莫迦な! それなら一体誰が、」
「あのさぁ。さっきからお前が言ってる“消せ”ってのは、“消滅させろ”って解釈でいいんだよな?」
「え? ……あ、ああ、は、はい、」

言葉を継がせず、唯一は真二の背後を見やりながら訊く。

「で、俺んちに居るアレに相当するモノが、お前にとってはソレなんだよな?」
「え……あ、その、」
「ちょっと考えて分かんなかったのか? お前、誰かに『ソレを消して下さい』って言われて、『はい消します』って答えんの?」

思考が停止した。
価値観の根幹、真摯に信じ奉じる存在、消せる筈がない、消し方など分からない。

「まぁ、仮に消せたとしても、だよ。お前、俺のガキのこと知ってんだな? あんなガキから母親を取り上げようってのか?」
「ち……違……違う! だってアレはあの子の母親じゃない、アレはっ、」

言葉に詰まる。
動揺させられてはならない、会話してはならない。
息を大きく吸い、大きく吐き、いつもの自分に立ち返ろうとする。

「……時間を稼いで、アレが助けに来るのを待っておられるのかもしれませんが、無駄です。アレがここに来ることは出来ません。あなたの挙動を外から見るくらいは出来ますが、ここに干渉することは出来ません。ですから、」
「助けに来る? 冗っ談っじゃねぇ、お姫様か俺は。アレは俺を助けに来たりはしねぇし、俺もアレに助けてもらいたかねぇよ」
「そん、そんな筈はっ……どんなフラグメントも、ファウンダーの安全を最優先する筈でっ、」
「んーだーかーらぁー、俺ぁファウンダーとかいうもんじゃねぇっつってんだろ。……あー。めんどくせぇ。もういいや」

本当に面倒そうな唯一の呟きと同時に、真二の全身がざわっと総毛立った。
理解は一瞬遅くやって来た。
空気が変質したのだ。
色も熱も音もそのままに、真二の周囲が“圧し潰された”。

「アレは俺の持ちもんじゃねぇ、けどな? 生命への危害をちらつかせて所有物の損壊を強要したわけだよな? 抵抗しなかったら、俺、飢え死にしちまうんだよな? 抵抗したって、違法性阻却事由の範囲内だよな?」
「え……何、一体どういう……、」
「お前は、俺を脅したよな? お前は、」

真二の前に居るのは、普通よりもよく喋るが間違いなく普通の人間だった。
新たに何らかのフラグメントを切り取った気配も無い。
にもかかわらず、圧迫感は圧倒的だった。

と感じた瞬間、唯一が眼前に居た。
眼が捉えたのは、獰猛な笑み。
腹が捉えたのは、未知の痛み。

真二は後方へ3mほど飛ばされていた。
尻餅でブレーキがかかってもなお、大きく後方へ。

「敵だ」


尻餅の体勢のまま茫然としている真二を見て、殺気の塊だった唯一が、急に呆れ顔になって立ち尽くしている。
そして、いきなり怒鳴り出した。

「おいこらぁぁぁ! 防ぐ振りぐらいしろぉ! あーびっくりしたー、あのなぁ今のは50%の俺だったんだよ! んなもん連れてんなら防げただろーが!」

(防ぐ……? 防げ、……って、言われても、)

「例えばだ、道端で暴漢に襲われたとしたら、いくらお前がどんくさくても最低限の自衛の動作はすんだろ!? しっかりしろよ生存本能無ぇのかよハムスターかよ!?」

攻撃しておいて何故防御出来なかったことを叱り飛ばしているのか全く理解出来ない、が。
感情は恐怖に停止し、一方で知能は問い掛けの一つ一つに目まぐるしく答えていく。

(……防げなかった)
(僕には護身の心得なんか無い、それでも)
(よける、伏せる、大声を出す、両腕で庇って致命傷を避ける)
(それが、それだけのことが、出来なかった。本能的な無意識の自衛行動さえ出てこなかった)
(自分で防げない殴打であれば、例えば、那由多の一部を強固な物質に組み替えて、防御壁として、)
(……間に合わなかった。そんな演算をする暇は、無かった……)

唯一は肩を落として溜め息をつき、はたはたと左手で追い払う仕草をする。

「あーもー、やる気失くすわ。お前、喧嘩売るのなんざ慣れてねぇ、っつーか喧嘩したことすら無ぇだろ。お前からは全っ然、血腥さがしねぇんだよ。いい子だから、さっさと帰れ」
「……でき……で、でき、出来ません……」
「は?」
「アレを……消さないと……駄目なんだ、那由多が……真理に、なれない……」

未だに鳩尾に残る激痛と恐怖に歯を鳴らしつつ絞り出す真二の震え声を、唯一はぽかんとして聞いていた。

「はぁ……こんなとこに放り込まれてなきゃ、ただの中二病の科白なんだけどなぁ、それ。とにかく、俺は帰るぞ」
「どうやって!」

唯一は、対峙した時と同じように、左足の靴底で軽く足元を鳴らした。

「ここ、二つ目の角を曲がったら俺んちだよな?」

真二は息を呑む。
声も表情も自然体としか言いようのない気楽さの言葉が、立て続けに飛んでくる。

「周りがこんな色になっちまった時、すぐ確認した。靴の裏の感触。雑音。空気の匂いと温度。その直前までと全く同じだった」

(まさか……そんな冷静さが普通の人間に望める筈がない……)

「最初は俺の目ん玉がどうにかなっちまったのかと思ったが、お前とソレだけはくっきり見える。俺の視覚がいじられたわけじゃねぇ。アレの類似品なら、出来るんだろ? この場所に“何か違うもん”を被せちまうことが」

(……正解だ)

「だから、俺は普通に歩いて帰って、インターホンが押せる」

(正解だ。でも、それで“帰れる”と思ってるのなら、間違い……)

「つっても、音は鳴らねぇんだろうな。鳴るのはきっと、今の俺の感覚で、数時間後か、数日後か、数ヶ月後か……数年後?」

唯一の反応も言葉も、全てが想定外だった。
唯一は既にこの空間の構造を把握している、動揺を誘う筈が動揺させられている。

「あなたは……何なんですか!? ただの、市役所職員なんじゃないんですか!?」
「……はぁ?」

ぴりっ、と再び空気が震えて、再び真二は竦み上がる。
が、今回のそれは、先ほどのような殺気の塊ではなく、「ごく一般的で日常的で理解可能な」怒りだった。

「お前、役人馬鹿にしてんのか……?」
「いっ、いえっ別にそういうつもりではっ、」
「じゃあ『ただの』って何だただのって! そういうつもりじゃねぇのにそういう表現が出てくるってのがもう、ナチュラルに俺らを軽く見てるってことだろ!? お前ぜってぇ俺らのことラクな仕事でいいなぁとか思ってるよな!? やれるもんならやってみろ景気いい時は民間がどんなに給料増えようが安月給のままでよ不況になったら民間に足並み揃えましょうとか言い出しやがんの! 出世したらしたでやっすい管理職手当で誤魔化しやがって残業代出せってんだ畜生俺はぜってぇ出世しねぇからな! そのくせ就職はアホみてぇに人気あって俺ん時なんざ試験の倍率40倍だぞ!? ああそうだそういや店で食い逃げしねぇ奴が何で水道代や給食費は払わなくていいと思ってんだかわけ分かんねぇお前常識ありそうだからそういうの分かってくれるよな!? な!? お前税金の部署行ったことあるか義務さえ理解しようとしねぇ奴がゴネまくるしよそりゃリスニングしてみて根拠のある生活苦の滞納だったらちゃんと誠意持って特別分割なり何なり対応するってのそれ以外で不満があんならちゃんと不服審査請求しろあと選挙行け!大体なぁ、」

ほぼ句読点の無い勢いでずらずらと捲し立てる怒声を聞き流しながら、真二はただ、ぼんやりと座っている。

(僕はどうして……電車を乗り継いで来てまで、初対面の人の仕事の愚痴を聞かされてるんだろう……)
(このスピードで全然噛まずにいくらでも言葉を出し続けられる、って恐ろしいな……どうやったらこんなふうになれるんだろう、論文発表で質問回答の時に苦労しないだろうな……放っておいたら何分間喋るかな……)

自分が何をしに来たのかさえ一瞬忘れていたが、幸い、唯一のほうから思い出させてくれた。

「って、何で俺の仕事知ってんだ。俺んちの家族構成といい……あ。もしかしてお前、昨日の1時台に役所に来た奴か?」
「な……どう、してっ、それをっ……」

マシンガントークからの不意討ちだったとはいえ、ここで動揺を見せてはいけなかった。
後ろめたいことの無い者が「1時台に役所に来た」と言われれば、普通は“午後1時台”と考える。
普段ならば引っ掛かったりはしないこの程度の誘導尋問に、自分のペースをがたがたに狂わされている真二は素直に引っ掛かった。

「やっぱ、な。アレの類似品なら、ネット回線無視して電源から侵入してくることも出来るのか。ったく、あの野郎にどう説明すりゃいいんだ。手品師どころか魔術師じゃねぇか」
「あ、あの……何の話……」
「今度から気ぃつけろよ? 個人情報の覗き見、速攻バレてたぞ。人事課の、優秀な、」

不愉快なことを思い出したらしく、唯一は一度言葉を切って大きく息を吸った。

「感じ悪くてチャラくて俺のことオタクオタクって馬鹿にするくせにゲーム依存症であと女依存症でドSの変態で何年間も俺の嫁さん狙い続けてる課長補佐に」
「済みません人物像がイメージ出来ません! あとそんな個人情報は要りません!」

脳のどこかで微かに、警鐘が鳴った気がした。
唯一の動きを警戒しながら慎重に立ち上がる。

「……どうやって帰るおつもりなのか、と訊きました」
「へ? ……あ、悪ぃ、そうだったな」
「あなたは、ここの構造を理解している。何故ですか? やはり、アレのファウンダーだからこそではないんですか?」
「理解なんざしてねぇよ。お前が言ったんじゃねぇか、『外から見るくらいは出来るかも』しれねぇ、って。つまり、ここは、何かの中なわけだ」

警鐘が大きくなる。危険だ。何がどう危険なのか分からないが、危険だ。

「けど、閉じ込めただけで、別に凶器振り回して襲ってくるとかいうわけじゃねぇ。『餓死するまででも』ってこたぁ、お前は俺に、っつーか他人に、直接危害を加えらんねぇんだろ。脅すだけで何とかしてぇ、っていう長期戦を想定してるんなら、ここは普通の時間の流れ方はしてねぇだろうな、って思っただけだよ。いくら人通りが少ないとはいえ、イレギュラーな通行者は居るんだ。人に車に野良犬野良猫、下手すりゃ虫一匹飛んできただけでも壊れる空間じゃ話になんねぇもんな」

内心、真二は歯軋りしていた。

(視覚情報と時間のみ遮断した次元を被せたこと、それで充分だと考えていたこと……失敗だった)
(那由多の処理能力なら、聴覚にも嗅覚にも触覚にも情報を与えない次元を被せることも可能だ)
(でも、実験では、人一人分くらいの小規模な空間しか成功していない。今みたいな広範囲に被せるとなると上手くいかない)
(僕はまだ、そこまで那由多という存在を理解出来ていない……)

ふと、ひんやりした空気の流れを頬に感じた。
何気なく視線を上げ、真二は愕然とする。

周囲が変質していた。
固定していた筈のオレンジ色から、濃紺へ。
足下から立ち昇る冷気は、先ほどよりも更に凍てつき。
それに、先ほどから感じるこの、大気の微弱な振動は?

(次元が……揺らいでる、消えかけてる!?)

「ちっ。本来の時間と、一瞬同期しただけか」
「ど、どう……」
「どうしてもくそもあるか! 俺は寒ぃの嫌いなんだよ! あーもうすぐ家だー、って時にこんなとこに閉じ込めやがって!」
「僕が質問する前にキレないで下さい! “どうして”じゃなくて“どうやって”ですよ!」
「どうやって、って。何もしてねぇよ。『んなとこさっさと出て、帰ろう』って思っただけだ」

(那由多)

いつものように、真二は思念で呼び掛ける。

(ナァニ?)

いつものように、無機質な、それでいて奇妙に幼い声が答える。

(彼は、人間か? 例えば、彼の妻のような、抜け殻を着用したフラグメントという可能性は無いか?)
(無イ)

返答は、簡潔にして残酷だった。

(アレ、ヒト。アレ、危険。アレ、なゆたヲ消ス)

本当の意味で、真二は己が愚昧を思い知る。
“消される”という可能性と危険性は考慮していたが、フラグメント同士を戦わせなければ回避出来る、と思い込んでいた。
それが唐突に現実味を帯びたら。

初めてそれに想像が至る。
那由多を喪った後の自分は、呼吸と鼓動があるだけの抜け殻に違いない。
それを他人に強いようとしていた、つまりどんなに肉体的危害を避けようとしても結局は踏み絵と同じ暴力であるのだと。

しかし、それならば逆に、逃げるわけにはいかない。
那由多が消滅する可能性など、万に一つもあってはならない。

「なぁ。もし、お前が死んだら、ソレはどうなるんだ?」

やけにのんびりとした声と、物騒な内容の問い。

「お前は、俺が死ぬかもしんねぇ、っていう未必の故意で俺を閉じ込めた。それに、最初っから、俺かガキか、の二択しか考えてなかった。ってこたぁ、ソレが存在するためには、原則的に、認識してくれた奴が生きてなきゃなんねぇんだろ?」

ファウンダーが存在しなくなったらフラグメントは存在出来ない、厳密には“認識されない”。
真二が生きているうちに、同じ欲求を持つビリーバーが現れなければ、那由多は即座に消滅こそしないものの、揺蕩うだけの存在に成り果てて分解回収の対象となってしまう。
真二の死後に真二と同じ欲求を持つ者が現れたとしても、那由多と同じ性質の別のフラグメントを切り取るファウンダーになるだけなのだ。

「申し訳ねぇが、お前が俺を殺しても、ウチのアレには何の変化も起こらねぇ。じゃあ、俺がお前を殺したら?」

唯一が軽く緩やかに左手を上げるのを見て、真二はびくりと跳ね上がった。

(来る!)

やはり何の予備動作も無く、唯一が一直線に突進してくる。

「けど、殺す必要は無ぇよな。 お前は、俺の心を折りさえすりゃアレが消える、って考えた。じゃあ……逆も有りだ」


掌底が真二の腹を捉える寸前、唯一は急停止した。
一瞬訝しんだ表情を見せてから、後方へ飛びずさる。

「んだよ。やりゃあ出来んじゃねぇか」
「……え」

現時点で地上に存在している他のフラグメントには見られない、那由多と無何有のみの特性、不定形。
その那由多の一部を“千切って”前面に張った壁が、真二の正面にある。
左手が動くのを見た瞬間、恐怖で停止した思考とは無関係に前頭前野が反応し、最初の掌打と同レベルの衝撃に耐え得る強度の壁を那由多で生成していた。
こんなことを実践してみた経験は無く、素晴らしい成果だった筈だが、真二は喜べない。
打突の直撃以上の恐怖を新たに生み出したに過ぎなかった。
この壁は、ファウンダーでない限りは、人間の視覚で捉えられないのだから。

「こ、ここコレ、み……視えてるんですか!?」
「いや、見えねぇけど。そこに何かあるだろ。っつーか、今いきなり出しただろ」

恐怖に駆られて思わず後ずさりながら、真二は那由多を更に千切った。
頭上高くを舞う緑の燐光が、十数本の槍を生成する。
それらを、唯一を中心とした半径1mほどの檻になるように降り注がせる。
唯一はそれにも反応した。
小さく「わっ」と叫んだかと思うと、全ての槍を回避して更に後ろへ飛び退く。

ここまでずっと持ったままだったアニメショップの袋を、さすがに手放した。
唯一の右手を離れて落下する瞬間、全景からそれだけ削除したかのように、ふっ、と袋が消えた。

「あっぶねぇー」
「やっぱり視えてるじゃないですか!」
「見えてねぇって。上から何か落ちてきたら、気付いてよけるだろ、普通」
「視えないモノになんか気付きませんよ普通!」
「な、何だと……? じゃあお前、ビルの窓から植木鉢とかが落ちてきた時、真下を歩いてたらどう対処すんだ!?」
「救急車で運ばれるんですよ!!」

本気で驚いている唯一に、真二も本気で驚いて思わず叫び返していた。

(焦るな……彼の動きは直線的だ。道路幅は4m。人間が反応出来ない速度で射ち出せばいい。那由多、頼む)
(ウン)

本当は唯一を取り囲む半球状に槍を射出したいのだが、動く対象には未だそこまでの演算が瞬時に出来ない。
真二は、正面から、槍を連射した。

「お? そうだ、それでいい」

何故か笑って唯一が呟いた、途端に真二の視界から消えた。

(どこ……どこへっ、)
(しんじ。横)
(よ、こ?)
(ウン。横。左側、垂直)

自分の眼を、というか自分の正気を疑う。
三度目に向かってきた唯一は、真二に対して垂直、地面というべきものがあるとすれば“壁”としか言いようのない場所を駈けていたから。

「ちゃんと最初に言ったよな、帰れって。逃げねぇほうを選んだんなら、殺す気で来い」

のんびりと言いながら“壁”を蹴って舞った、と思った次の瞬間には、唯一の右足が真二の脇腹の真横にあった。
反射的に左側に那由多の一部を張ったが、無色透明のそれが一瞬揺らいだのが見えた。

「遅ぇ」

防ぎきれず蹴撃に吹き飛んだ真二を見下ろす笑顔は、場違いに朗らかで、それはつまりどんな侮蔑よりも酷薄だった。

「どっちつかずだと、お前、死ぬぞ」

(あり得ない……砕かれた、いくら薄いとはいえ、鉄と同じ強度の壁を……)

「何か守るモノを瞬時に造ってるようだが、遅ぇんだよ。造ってる最中のモノなんざ脆くて当たり前だろ」

(生成が……間に合わない……)

「あと、今の感触、鉄製のドア蹴破る時と似てたかな? もっと強度上げられるように、まぁ頑張れ」

(どんな足だよ!?)

「類似品と言ったのは訂正する。ソレはなかなかハイスペックなカミサマだ。ただ、いくらハードが優秀でも……エンジニアが粗悪品じゃどうしようもねぇな」

(那由多…… 「那由多!」

血が上るにつれ、思念の呼び掛けは途中から叫び声となって口を突いて出ていた。

「捕獲は不可能だ、撃ち落とす!!」
(ウン)

不可視、である筈の槍の雨。
それを、地の無い地を蹴って躱し、或いは腕で弾き飛ばし、唯一は今度は右側の“壁”を少し走って距離を置く。

「な・ん・でっよけられるんですかぁっ!?」
「何で、って。えーっと。言いにくいんだけどさ。お前のソレな、」

平常の冷静さを欠いている真二に対し、那由多を指差した唯一は、馬鹿にしているふうでもなく心から申し訳なさそうに答える。

「銃弾より遅ぇからだよ。射出速度、もうちょい上げらんねぇか?」

一瞬呆気に取られた真二は、直ちに反応した。
感情は初めて知る闘争心によって、知性は新たに与えられた命題によって。
那由多から噴き上がった槍の束は、驚異的に速度を上げて放たれる。

が、それに合わせて唯一の速度も上がっただけだった。
槍を叩き落とす左手の甲を掠って血が滲む。
その左手を握り、満足そうに笑いながら、唯一は獣が舞うように躱し続ける。

「献血と予防接種以外で自分の血ぃ見るのは久々だな。そうだ、それでいい、けどまだ遅ぇ、甘ぇ。長引かせるな、死角を探せ、急所を狙え」
「何なんですかあなたは!? 人間なんですか!?」
「んなもん使う奴に、んなこと言われたかねぇよ。別に、硬化魔法が使えたり、毒の王が憑依してたり、狼男だったり蛇使いだったり世界の信仰を強奪したりルシファーがストライクだったりするわけじゃねぇ。正真正銘、普通の人間だ。安心しろ」
「今のままで充分不安です! あと一部何言ってるんだか分かりません!」

射出を続ける那由多の声こそ変化しないが、動揺や困惑など持たない筈の思念全体が、微かに絶え間なく揺れていた。

(コンナ動キ、知ラナイ。ヒトトイウ種ノ動キ、逸脱シテル。無軌道デ捕捉出来ナイ。しんじ、アレ、ヒト?)
(君が人間だって断言したんだよ……本人も人間だって言ってるんだから人間なんじゃないかな……って、)

「さっきからどこ走ってるんですか!?」
「どこ、って。塀」
「へ……い?」

ひらりと降り立った唯一は、何も無いように見える空間を左手で軽く叩く仕草をする。

「コレはブロック塀。んで、そこに電柱。お前のちょうど真横には門扉があって、そっから先は生け垣になってる」
「視え……てないんですよね!?」
「見えなくても別に支障無ぇだろ? “在る”ことさえ分かってりゃ足場にはなる。まぁ、俺、骨が重い上に身体が硬くて、教わった通りには走れねぇんだが、この程度なら何とかな」
「い、いえ、何らかの武術的な心得があるとしても……あなたは滅茶苦茶に動き回ってるんですよ!? たとえ最初に地形を把握してたとしても、もうどこに何があるかなんて分からなくなってる筈でしょう!?」
「へ? ここ、俺んちの近所だぞ? 町内だぞ? ちょっと走り回ったぐれぇで地形が分かんなくなるわけが……って、まさか……お前、さては、」

重大なことに思い当たったらしく、唯一は一度言葉を切って大きく息を吸った。

「カーナビが必要なタイプの人間か!?」
「ぇえぇええっ!?」

突拍子もない問いに真二は絶句したが、唯一はどうやら真剣だ。

「地図見るか一度実際に歩くかすりゃ道も街並みも覚えられるってのに、あんなもん一体どういう層に売れるんだろう、ってずーっと不思議だったんだが……そっか、お前、方向感覚が無ぇのか。方向音痴ってのは都市伝説だと思ってたよ、可哀相に……」
「カーナビは可哀相な人のための商品じゃありません! あと僕は可哀相な人じゃありません!」

本当に珍しく、真二は苛立ちの頂点にあった。
槍の射出が自然と乱射になってきたが、躱し、弾き、駈ける唯一には疲労の欠片すら見当たらない。

「んだよ、ヒント出したのに。道の両側が生け垣になってるとこまでお前が下がりゃ、俺は道幅分しか動けねぇ。現実の情報を再取得すりゃ、そういう地点が分かるんじゃねぇか?」

(く……出来ない。確かに那由多の処理能力なら可能だろう、が……今の僕では、再取得してこの空間に重ねた情報を、僕だけが視られるようにすることは出来ない。彼が有利になってしまうだけだ。あの動きで息切れ一つしないって、一体どういう身体の構造なんだこの人は……)
(すきゃん完了。固有覚及ビ空間覚、過剰発達)

疑問を呼び掛けと解釈したらしき那由多の解析が思念を揺らし、真二は我に返る。

(骨密度及ビ随意筋強度、種ノ平均値、著シク上回ル。体格カラ試算サレル身体能力ノ限界値ノ近似値ヲ示ス。デモ、ソレ以外、アレ、ホントニ、ヒト)
(なるほど……ありがとう。あの自信は、身体的な特質に依るものか)

真二の背後一面に、無数の槍が現れた。
今までの線上の射出ではなく、面状の配置を保ったまま、唯一へ降り注ぐ。

 星のような願いがあった。
 恐らくは一生手が届かない、という現実も見失って、己の手に余る願いを祈っていた。
 今、その願いさえ忘れている。
 那由多の大部分を用いた、那由多の内部にも等しい、天も地も無いこの仮初の空間に初めて立ち入ったことで、己の在り方へ至る唯一無二の道を見つけた。

不可避の剣山をも、唯一は不可視のステップで回避していく、が真二には想定内だった。
綿密に計算した射出は、上に唯一の意識を集中させるためだけの陽動。

 より迅疾に、より精緻に、道を見つけたことを自覚していない進化が加速する。
 那由多の内部とは、つまりは願いの原点。
 往くべき道の先に居た唯一は、標でもあり壁でもある。
 唯一の様々な問い掛けを正確に読み解き、唯一よりも強く在らなければ、先へ走れない。
 
並行して計算した伏兵は、下に編み上げていた。
地の無い地に着地した唯一の足下に、黒い膜が湧き上がる。
声を上げるいとまも無く、唯一は球体に包み込まれた。


「……まずい」

老人が、膝の上で両の拳を握る。
小動物の共食いを何の感慨も無く観察するかのような最初の落ち着きは消え失せていた。
もはやチェス盤も青年すらも眼中に無く、椅子を蹴るように立ち上がり、正二十面体群へ向けて、彼らに届く筈もない叫びを叫ぶ。

「駄目だ……殺すな。殺さないでくれ!」


酷使した脳を回復させるべく、真二は深く息を吐く。

(僕の声が届かなくなるから、コレは使いたくなかったが……)
(で……どうする? 本当に、彼が餓死するまで放置しておくのか?)

赤い屋根の家の内部を観察した際の、あの子供の顔が脳を過ぎる。
ずきりと胸が痛み、思わず固く瞼を閉じた。

が、その瞼の裏に浮かんだのは、別の顔。
老いを見せ始めた男女の、弱々しい笑顔。

(そうだ。僕には那由多が必要だ。那由多が真理になるまでは、守れる人しか守らない)
(言いたいことは言った。これ以上話す必要は無い。那由多、外側の次元を解除……)

球体に背を向けて歩き出そうとした途端、明るい声が耳に届いてびくりとする。

「何だコレ。さっきまでと違う。感覚が無ぇな……あー、コレ知ってるぞ! アレだアレ、山河社稷図だろ?」
「何ですかソレは!?」

(うっ……そういえば、僕の声は届かないんだった。彼と話し続けてはいけない、どうも調子が狂……)

小さく溜め息をついた時、信じ難い言葉が飛んできた。

「原典じゃなくて漫画のほうのだよ!」

理解には数秒を要した。

(……返事を……した!? いや、そんな筈はない、これはきっと、そう、ただの、大きな独り言……)

自分に言い聞かせつつ恐る恐る顔を上げた真二が眼にしたのは。
僅かに波打っている、球体の表面。

「ってこたぁ、ここはさっきより高次の数学的空間ってわけだ。そんなら、アレも使えるんじゃねぇかな」

掌ほどだった小さな振動が徐々に大きく、やがて球体の表面全体へと拡がっていく。

「な……にを、してるんですか……? やめて下さい……ど、どうか……大人しく、そこに居て下さ……」
「断る」

音も無く、慈悲も無く。
黒い球体は、無為な懇願と共に霧散した。


「むかーし昔、漫画読んでたら、“モノの存在する確率を歪曲する”武器ってのが出てきてな」

茫然自失の真二に、誇るでもなく驕るでもなく、唯一はあくまでも世間話のように語る。

「詳しい解説抜きでいきなりバトってたから原理なんざさっぱり分かんねぇが、例えば、今そこに99%以上の確率で存在してるお前の、存在する確率をゼロにするってこった。まぁ、俺はそんな物騒なもん持っちゃいねぇから、お前を消せるわけじゃねぇ。安心しろ」

(波動関数の……極大化的解釈? 開けてしまったシュレディンガーの箱を、観測前の非決定的状態に戻して、別の現実を観測し直す……)
(さっきのボールの内部でなら理論的には可能だ、でも!)
(那由多の一部を使ったボールを、僕のフラグメントの空間を、僕がまだ使いこなせない理論を、第三者が何故使いこなせた!?)
(ボールという観測の場自体の存在する確率をゼロにしたというのなら、そこに含まれていた観測者が何故無事でいられた!? いや、それより……どんな手段を使った!?)
(これじゃ、まるで……僕が実現しようとしてることを……既に実現させてしまってるみたいじゃないか!)

余裕の表情と隙だらけの姿勢のまま、唯一はゆらりと左腕を上げて那由多を指した。

「だが、ソレはどうだ? お前の意思が生み出しただけの存在なら、俺の意思が存在を否定しただけで消えちまうんじゃねぇのか?」

(否定した……だけ?)
(消えた……消された。那由多の、一部、が……完全に、消滅した。言葉だけで、拒絶の一言だけで!)

那由多全体を人体に見立てるとすれば、先ほどの球体はピアスの穴。
小さな小さな、しかし真二にとっては決して許容出来ない、欠損。

無論、誰かが「一言否定しただけで」誰かの強固な思想やそこから生まれたものが消滅させられる、などということは起こらない。
重要なのは、「天原唯一が」という、唯一点。

最初に感じた大気の振動が、無視出来ないレベルになっていることに気付く。
リモコンでボリュームを上げるように、唯一が一言発する度に、徐々に大きく。

(そういえば)
 (ついさっき、僕は何を考えた?)
  (そう……だ。「彼と話し続けてはいけない」と)

思考から雑音が消えた。
呼吸も、鼓動も、衣擦れも、自分が出す一切の音が消え去り、脳内がクリアになる。

(そもそも、彼には何故、那由多が視えている?)
(フラグメントを認識するには、何らかのフラグメントと直接関与していなければならない筈だ)

そこから導き出される推論は、

・彼の神は、仮想敵であるフラグメントAである。即ち、彼はフラグメントAのファウンダーないしビリーバーである。
・彼の神は、A以外のフラグメントBである。即ち、彼はフラグメントBのファウンダーないしビリーバーである。
・彼の神は、那由多となる可能性がある。即ち、彼は那由多のビリーバーとなり得る。
・彼自身がフラグメントである。

以外には無く、四つ目については既に除外されている、のだが。

「俺は、な。カミサマなんて持ったことも持つつもりも無ぇんだよ。誰かの創ったカミサマに……いや、能動的なカミサマがどっかに実在してるとしてもだ、自分と嫁さん以外の奴に自分の根っこを明け渡してたまるか。お前のソレやウチのアレみてぇな、ハンドメイドのマイカミサマが欲しい、ってわけでもねぇ。もともとが俺の願望だったとしても、そんなふうに俺から切り離しちまったら、もう俺の一部じゃねぇもんな」

(違う……彼は、ファウンダーどころかビリーバーにすらなり得ない。こういう思考体系の人間が、フラグメントを切り取るなどということはあり得ない)

「今のを壊してみて何となく分かったけど、ここは多分、別枠で用意した箱ってわけじゃなくて、ソレの一部を使ってんだろ? こんだけでけぇ空間に被せてるとなると、俺らは今、ソレの体内に居るようなもんだ。そんなら、壁を探してぶち壊す必要もねぇ、どっからでも外に出られる。じゃあな。面白かったけどよ、飢え死にするまで遊んでるつもりねぇわ。……腹、減ってんだよ」

(そう……だ。彼は最初からずっと……「出せ」「帰らせろ」ではなく……「出る」「帰る」と言っている)

障壁があれば、それを設置した者に退けさせる、という発想が唯一には無いのだ、と気付いて慄然とする。
障壁があれば、それを設置した者ごと粉砕する、とでもいうかのような。

(本当の脅威は、常人離れした身体能力ではなく……言葉)
(彼は、消す気だ。否定の言葉だけで……この空間全体を消す気だ!)
(那由多のリソースの55%を、この空間の現出と維持のために使用している)
(それが全部消し飛んだとしたら……那由多は!)

ピアスの穴どころではない、致命傷となる欠落。

「他人様が自分ちだけでカミサマを崇めてる分には別にどうでもいい、そいつが『存在する』って言うんなら存在してるんだろうよ。内心の自由まで否定するつもりは無ぇ、……俺に噛みついてきさえしなけりゃ、な」

薄く笑った唯一と、蒼白になった真二の、

「今、ここに、カミサマは居ねぇ」
「戻れ! 那由多ぁっ!!」

攻防の言葉は同時だった。


既に街灯が点いていた。
急激に戻った正常な視界に、くらりと軽く立ち眩みがする。

「大人しく帰る気になりました、ではさようなら……ってぇツラじゃねぇな」

那由多を消滅させられる直前、真二は空間に被せていた那由多を解除していた。
周囲一面に数式のテキスタイルが生じ、竜巻発生の逆再生のように、真二に向かって収斂した。

(那由多……那由多! 無事か!?)
(大丈夫。なゆた、痛覚、無イ)

那由多が存在を保っていることに安堵した一瞬の後、真二は凍りつく。
この返答はつまり、危惧した通り、否定の言葉だけで那由多のどこかが消されたことを意味している。

――エンジニアが粗悪品じゃどうしようもねぇな。

悔しいが事実だった。

(解除の演算が遅れたのか……済まない……)
(大丈夫。なゆた、生キテル。なゆた、生キル)

いつもと同じ、感情の無い淡々とした声。
だが、心の折れかけていた真二を奮い立たせるには充分な起爆剤だった。

「ふぅん。随分コンパクトに収納出来るんだな。ウチのアレより便利そうだ。で? 殺る気満々なのは結構だが、その状態からどうすんだ?」

(収納、か。ある意味正しい。何の予備知識も無く、直感だけで彼は的確に状況を把握する。でも……那由多は、箪笥の抽斗にしまわれたわけじゃない)

一時的に感情と雑念を麻痺させた、天原唯一という名の、恐怖は。
不純物を多く含んだ高原真二という名の構造物から、知能のみを取り返し。
絶え間ない日常の煩悶でもって緩やかに真二を埋め殺そうとしていた現実世界からは。
数学を志す者としては凡庸なまま終わる筈だった真二を、本来の状態である“天才”を、取り返しつつあった。

「あなたが言ったんです。死角を探せ、と」

(言葉が武器になるなら、言葉の源を……思考を、制圧する)

那由多を逃がした場所は、ジャケットの内ポケットの中の、スマートフォン。

「いくらあなたでも、懐に入られたら防ぎようがないでしょう?」

反射的に身構えた唯一の腰、ベルトのスマートフォンホルダーから、深緑と黄緑が螺旋状に絡まった帯が噴出する。
外側から閉じ込めるのではなく、唯一の内部へ。
ぐらりと大きく傾き、唯一は声を上げることもなく、アスファルトに膝をついた。


「……やはり殺されるか。残念だ、ねぇ」

深々と溜め息をつき、老人はどさりと腰を下ろす。
回転椅子が耳障りに軋んだ。

「祈ったことの無い人間は、極めて稀だ。力及ばぬ物事に直面した時、特定の神でなくとも良い、見ず知らずのどこかの何かに『上手くいきますように』と無意識に祈るものではないかね? 極端な場合は、宗教的要素を抜きにして、祈るべき対象も無く、漠然と祈ることさえあるだろう? 『世界が平和になりますように』などとね」

正二十面体の一つが映し出しているのは、遂に神の暴力に屈して膝をついている唯一の姿。
フラグメント、特に那由多の消失を阻みたい老人にしてみれば、歓迎すべき場面の筈だった。
が、その口元は、笑みを失って苦々しげに歪む。

「参ったね。フラグメントを切り取らぬ人間についてはノーマークだった」

青年は微動だにせず、老人の一手を待ち続けている。
チェスに意識が戻るどころではない老人は、嘆息の言葉を続けた。

「どんな数式を組み合わせても、マウス達のケージにライオンが紛れ込んでいました、などという解は導き出せぬではないか、ねぇ?」


無何有が唯一の脳内に侵入した際。
攻撃の意思など無く単に「天原理央の死の直前直後に関する情報」を転送しただけで、唯一は激痛に苛まれた。
人間の神経系へ侵入するには強大過ぎるフラグメントが、攻撃の目的で侵入すれば。

唯一は絶叫している、筈なのだが不規則な呼吸が大きく喉を鳴らすだけで声は出ていない。
唯一が視ているのは、高速で渦巻く原色。
そして、原色と原色の隙間に時折現れる、真二と那由多の記憶の断片。

「那由多。彼の思考を無力化してくれ。メモリやマップに触れてはいけない、現在の価値観の書き換えだけだ」

(倫理に悖る……なんてことは分かってる。でも、彼自身が御親切にも言ったんだ、どっちつかずは駄目だって)
(それなら……全力で那由多に乗っ取らせて、強制的にビリーバーにするしかない)

いつの間にか、唯一は身動きしなくなっていた。
祈る者のように両手両膝をついたまま、いつまでも顔を上げない。

「……那由多? 那由多、どうした!?」
「……っせぇな。でけぇ声出すな」

棒立ちに立ち尽くす真二と、蹲る唯一。
その立ち位置を以ってしてさえ、勝者は歴然としていた。
脂汗の滲んだ凄惨な笑みが上げられる。

「俺を、書き換える、だと? ざけんなよ。いや、まぁ、手法としちゃ悪くねぇ」

半ば放心して膝をつく真二と、ゆっくりと立ち上がる唯一。
神に仇なす言葉を止めようとして、思考の中心へ突撃する。
正攻法であるように見えて、実際は爆弾を防ぐために爆薬庫へ突撃するが如き愚行ではなかったか。

「なゆ……た……は、那由多はっ!?」
「っせぇっつってんだろ。くっそ、頭ん中で暴れ回るとかありかよ。取り押さえんの、ちょっと手間取っちまったじゃねぇか」

そもそも、常人離れした身体能力も、天賦の才などではなく後天的な獲得形質だとしたら?
それを作り上げたのは、常人離れした精神ではないのか。

(逆だ……言葉じゃなく、精神そのものが、武器……最も危険な場所へ、那由多を行かせた!!)

フラグメントとはいえ、仮にも神であり神の一部であるという那由多が完全に消滅したのだとしたら?
那由多を切り取った真二の精神の在り方が、唯一よりも脆弱だった、というだけのこと。

「分っかんねぇな。こんなこと出来るんなら、俺を脳死状態にするほうが簡単だっただろ。全身を木っ端微塵にすることだって出来たんじゃねぇか?」

ただでさえ強い拘束力を持つ言葉に、途方も無い喪失感で思考が真っ白になっている真二は、自白剤でも打たれたかのように空ろに答える。

「……人が死ぬのは……嫌、だから……見たくない、から……です……」
「にしちゃ無茶苦茶しやがるな。お前が議論吹っ掛けてきて、俺が論破されたり洗脳されたりする、ってんなら納得する。けどよ、直接脳味噌いじって改竄するなんてのは、殺すのと同じだぞ」
「……はい……分かっていてやりました。あなたにも、御家族にも、犠牲を強いるつもりで……やりました。僕は……守れる人しか守らない……」

一生分の戦意を失って黙り込んだ真二を見下ろしていた唯一は、面倒そうに短い溜め息をつくと、首を鳴らす時のように、くき、と一回首を振った。
唯一の頭の辺りから、深緑の、しかし密度の低そうな、うっすらとした靄が現れる。

それは振り落とされるように頭を離れ、アスファルトに落下した。
音はしなかったが、あったとすれば、にゅる、ぺちゃ、という印象だった。

「ほらよ」
「……え。な……ゆ、た……? 那由多!?」

返事は無い、が黄緑の帯が緩やかに渦巻き続けているところから察するに“生きている”らしい。

「さっさと連れて帰って、安静にさせて桃缶でも食わせとけ。んで、そのまま大人しく暮らしとくも良し、リベンジに来るも良し」
「か……神など居ない、と断言しておいて……見逃すんですか!? ま、ましてや、生き物と同じように扱うんですか!?」
「は? 何で? 俺にはカミサマが居ねぇだけで、ソレが生きてねぇとは言ってねぇよ? お前から見てソレが生きてるカミサマなら、俺から見りゃその辺の他の生き物と同じだろ? 戦意喪失や戦闘不能の奴をむやみやたらと殺すわけねぇだろーが。俺だって、死ぬのを見んのは嫌なんだよ」

那由多の生存を確認して急激に気が緩んだせいか、真二は今にも泣き出しそうになっているにもかかわらず、

「ただ、守れる奴しか守んねぇ、ってのもお前と同じだ。リベンジOKとは言ったが、次に来た時は無事かどうかは保証してやれねぇ。昔の人も言ってるだろ、『目には目と目を、歯には歯と歯を』って」
「言ってません重過ぎです!」

脊髄反射でそう叫んでいた。

「え、重いか? 俺の座右の銘なんだけど。他にもいくつかあるぞ、歴史から学ぶべき言葉は多いよな。『右の頬を打たれそうになったら左の頬を打て』とか、 『敵に塩を摺り込む』とか」
「歴史のどこにもそんな格言はありません! 何で座右の銘が全部攻撃的なんですか!?」

真二の常識的な反応は意にも介さず、唯一は衣服の汚れを両手でざっざっと払いながら、それまでと同じ口調で訊く。

「俺を狙ってきたのは、アレに正面からぶつかっても太刀打ち出来そうにねぇ、って判断か?」

虚を突かれて真二は口籠る。

「は……はい、そうです……」
「なら、ガキを人質に取る、ってのは思いつかなかったのか? アレはガキのことは守ろうとはするだろうが、四六時中一緒に居るってわけじゃねぇ」
「……それは考えました、が……子供は……小さい子供には、どうしても……」

それは、最初からの躊躇だった。

(アレはあの子の母親じゃない、でも、あの子を人質にしてしまったら……、)
(あの子が母親の死を知らないのなら、母親が死ぬところを見てしまう。知ってるのなら、死ぬところを二度見てしまう……)

はたく手を止め、唯一は顔を上げる。

「へぇ。そりゃ良かった。思いついたのに実行せずに俺のほうに来た、ってことだけは褒めるよ。俺の家族を狙ってたら、」

ここで見せた今日一番のにこやかな笑顔は、

「お前、今頃、死んでたから」

邪気一つ無いそのあまりの明るさで、真二を凍りつかせた。

「はぁー。さっみぃーつっかれたぁー腹減ったぁー。やーっと帰……れ、る……」

真二に背を向けて、緊張の欠片も無く一歩踏み出した唯一の語尾が、不意に低くなって消えた。
その視線を追ってみて、真二はびくっとする。

路面に転がっている、アニメショップの袋。

(あ……そうだ、あの時……彼が手放したから、“第三者から見て彼を構成しているモノ”ではなくなって、あの空間から現実の同一座標へ移動して……いや、)
(移動する時に……もしかして、僕の攻撃の流れ弾、が、当たっ……)

正確には、アニメショップの袋の残骸。
地面に落下した衝撃で中身が壊れている、などという破損ではないことは一目瞭然だった。

恐る恐る視線を唯一に移すと。
背を向けているにもかかわらず、凄まじい圧迫感が放出されている。
映像のCGエフェクトでしか見たことの無い、色のついた凶悪なオーラが揺らいでいる、ように見えた。

「あ……えっと、その、す、済みませ……」
「……ろ」
「は、い……?」

振り返るなり、唯一は真二の襟首を掴んだ。

「弁 償 し ろ ! 今 す ぐ !!」
「はいぃぃぃぃぃっ!!」

(怒ってる! 今日一番怒ってるーっ!!)


咄嗟に那由多をスマートフォンの中へ取り込み、それとほぼ同時に袋(だったもの)を抱え上げ、逃げるように真二が走り去っていく。
振り返りも何か言い残しもせずに三叉路の角を曲がっていく姿を、唯一は不機嫌なままではあるがごく普通に見送った。
駈ける足音が戻ってこない、ことを確認すると、ぐらりと後ろへ倒れ込む。
とすっ、とブロック塀に凭れ、傷を負っていない右手で頭を抱えた。

(……ってぇ)

那由多の侵入が引き起こした激痛は、徐々に治まってきているとはいえ、未だに相当残っている。
更けてきた夜の冷気が脂汗を冷まし、頭痛を含めた全身の変調が一段と強く感じられた。

(頭痛止めで治るかな、これ。ったく、カミサマってのは、あんな化け物ばっかなのか?)

頭痛と頭痛の間隙を縫うように脳裏をよぎるのは、那由多が視せようとして視せたわけではないと思われる、那由多が含んでいた情報。
一般家庭らしき室内のどこかから、開け放たれたままのドアへそして廊下に誰かと立っている真二へ、高速で移動していく視点。
その時点からつい先ほどまでの那由多の記憶の、全てではなく時系列もばらばらではあったが、かなりの数の断片を、視た。

やや蒼褪めた顔を上げ、三叉路の角を見やり、真二が未だここに居るかのように内心で呟く。

(お前なぁ。世界にそんなもんを要求すんのかよ。数字追っ掛けてる人種なんだろ、だったら実現不可能ってことぐらい分かんねぇかなぁ?)
(『神は老獪にして悪意無し』、ってな。真理ってのは多分、カミサマが隠してるんじゃなくてむしろ丸見えの状態でそこらじゅうに転がってて、ただ人間には一部しか認識出来ねぇだけなんだろうよ。お前がその願いに辿り着けねぇのは、誰のせいでも何のせいでもねぇんだ)

呼吸を整え、小さく首を振ってから、唯一は塀から離れて歩き出した。

(ああ……そっか。だから、カミサマが手元に必要なのか……)


「……やれやれ。化け物にもほどがあるよ、ねぇ」

全てを視終えた老人は、疲れ切って深々と嘆息した。

「天原唯一、か。彼はファウンダーにもビリーバーにもなり得ぬ。にもかかわらず、恐らく、あらゆるフラグメントを認識する。特殊な能力などではない。単純に……精神構造が、神と同列なのだ」

膝に両肘をつき、やや伏せた顔の前で指を組み、声は次第に暗くなっていく。

「決して祈ること無き者、自己の外側に神を必要とせぬ者。無害なる神には寛容だが、敵対せし神は全否定にて屠る者。時として、神に成り代わって偶像となり得る者。神々の天敵……、」

顔を上げて前を見据えた老人の笑みは、心の底から憎々しげだった。

「“王”という人種だ」


「ただいまー」
「おかえりなさ……おててどうしたの!?」

未だあまり元気無さそうに出迎えた佳月は、スーツのあちこちが汚れ解れている、左手の甲に浅そうだが大きな掠り傷がある唯一を見て、叫びながら取り縋ってきた。

「ん? ああ、平気」

傷を庇うでもなく、唯一は靴を脱ぎながら佳月の頭を撫でる。
が、“痛いこと”に過敏な佳月は、くるりと踵を返して廊下をたぱたぱ駈け戻っていった。

「まってて! おてあてする!」
「おい待て大丈夫だってそんな大袈裟なもんじゃ……どうした?」

慌てて呼び止めようとした唯一の視界の端に、無言無表情で立っている無何有が映る。
その眼は唯一から見ればやはり“死人の眼”だったが、その眼の奥で機械的に何かの問題を解こうとしている、ように見えて思わず声を掛けていた。

「予測演算よりも帰宅が早かったため、どこに誤りがあったのかシミュレートし直しています」
「ふん。やっぱ気付いてて無視ぶっこいてたか。まぁ、余計な手出しされてもめんどくせぇから、それでいい」

靴を脱いで上がってふと気付くと、シミュレーションを完了したのか中断したのか、無何有の眼が今度は機械的な疑問を示して唯一を見つめている。

「何珍しそうに見てんだ? 俺がこういうもんだってこと、理央の記憶を探してみりゃ分かんだろ」
「……はい。今、検索完了しました。理解しました。これが……“懐かしい”というクオリアですか」

よもやこの無機物が“感想”に近いことを言うとは予想外だった。
数秒黙り込み、唯一は視線を逸らしてジャケットを脱ぎながら言う。

「……頭痛止め、くれ」
「はい。しかし、食後でなければなりません。天原理央の記憶に、『胃袋空っぽで薬飲むな』という言葉が存在します」
「んな情報まで掘り返してこなくていいよ今がんっがんに痛ぇんだよ! って佳月、俺これでどうやって飯食うんだ!?」

無何有に意識が向いている間に、ふと気付けば左手首から先が、包帯で分厚くぐるぐる巻きにされていた。
それがほどけないようにがちがちに結んでから、ジャケットを奪うように取った佳月は、唯一の背を廊下側へぐいぐい押す。

「おそかったから、おなかすいてるよね? うわぎとおくつ、ぼくがおかたづけするから、はやくおててあらっておきがえしててね」
「そりゃありがと、ってこれじゃ手ぇ洗えねぇだろ……」

渋々洗面所へ向かう唯一の背後から、驚きの声が追い掛けてきた。

「おとうさん!? このおくつ、なに!?」

普通に揃えようとした佳月の片手では持ち上げられなかった、異常な重さの、一足の革靴。

「ん? ああ、靴だけは、ガキの頃から特注なんだよ」


(どうして僕は……あのまま帰らなかったんだろう)

弁償を迫られた際、殆ど無意識に那由多の一部を起動させて、商品の入った袋ごと復元を試みていた。
商品や袋は消失部分が大き過ぎて復元出来なかったが、大きめの切れ端が残っていたレシートが何とか電話番号を読める程度に復元出来たため、そこから店舗を探し出し。
幸運なことに予約キャンセル分の同一商品が一つだけあり。
覚束ない足取りで元来た道を引き返し、赤い屋根の家の前に立ち。

ここで初めてその疑問が浮かび、真二は呆れた。
真二の個人情報を知らない唯一からは、そのまま逃げてしまうことも出来た筈だ。
誰にも見咎められない状況下での無賃乗車さえしない真二であれば、弁償しに来たこと自体は不思議ではない。
「そのまま逃げてしまう」という選択肢すら思い浮かばなかった自分に呆れていた。

同時に、唯一にも呆れる。

(どうして彼は……あんなに喋り続けてたんだろう)

これは純粋に「危害を加えようとしている相手とだらだら喋りまくっていた人間」への呆れであって、理由を知りたいわけではない。
そして、理央以外がその理由を知る機会は、永遠に無い。

「お。マジで弁償するとは思わなかった。悪ぃな」

びくびくしながらインターホンを押したが、玄関から出てきたのは、つい先ほど何があったのか完全に忘れているようにしか見えない態度の唯一だった。
分厚い包帯を巻きつけているその左手に、真二は驚く。

「そんな大怪我だったんですか!?」
「いや、こんなん掠り傷でさえねぇんだけど。俺のガキ、過保護なんだよ」

本当に平然と答えた唯一に対し、真二のほうは、子供の話が出たことでまた気持ちが沈んだ。
門扉越しに、俯きがちに、新しい袋を手渡そうとする。

「い、いえ……僕のほうこそ、申し訳ございま」
「ケータイ、持ってる?」

唯一の話は時々、予想出来ない方向へ、助走無しで飛ぶ。
理央や貴臣など、唯一対応ドライバを内蔵して生まれてきたごく少数の人間は、唯一という特殊なデバイスを最初から理解出来るが、真二の脳には未だドライバがインストールされていない。

「え? は、はい……」
「番号かメアド、教えろ」
「何故ですか!?」

一瞬、唯一の眼が翳った、ように見えた。
但し、声や口調は変わらない。

「お前、フラグメントとかいうもんについて詳しいようだから、お互いに都合がつく時に色々質問してぇんだよ。ほんとはウチのに訊くべきなんだが……アレとは出来るだけ会話したくなくてな。あ、そうだ、このくそ忙しい時期に仕事増やしたくねぇから、役所のシステムに潜り込んだ跡、今日中にセルフサービスで消しといてくれ」
「……はい。分かりました……」

スマートフォンを出して番号交換に応じる。
この時も、「拒否する」という選択肢が思い浮かばなかった。


そしてそのことをまた呆れ悔やみ反省しながら、真二は足取り重く駅を目指す。
その足が、はたと止まった。

(そういえば……彼は、フラグメントのことを……一貫して、徹底して、名前で呼ばなかったな。意識的に固有名詞を避けてるみたいに)
(あれほど喋る人が……妻の抜け殻を着用してるほど身近に居るフラグメントと、『会話したく』ない?)
(それに、フラグメントについて、本当に殆ど何も知らないらしい……)

――最初っから、俺かガキか、の二択しか考えてなかった。
――原則的に、認識してくれた奴が生きてなきゃなんねぇんだろ?

(『原則的に』……まさか、)

かなり歩いてきて、赤い屋根の家は既に見えない。
それでも、今来た道を振り返らずにはいられなかった。

(最初に除外した、抜け殻の主が……ファウンダー……!?)