【断片02/20】出逢い・二度目

あまり混んでいない平日の、終業間際の市民課証明係前。
筆記台で住民異動届の記入を済ませ、饗島理央は窓口へ提出する。
無言で受け取った男性職員が、書類をしげしげと眺め、やがてぽつりと呟いた。

「年上とは思わなかったなぁ」

職員の記入欄に必要事項を書き込みながら、天原唯一は椅子を回して別の用紙を取る。

「てっきり未成年かと思ってた」
「お役人とは思いませんでした。この市役所、大丈夫なんですか」

普段市民に接する時のきちんとした言葉遣いではなくくだけてはいるが、場を弁えている唯一は、笑顔になるでもなく声を弾ませるでもなく、淡々と事務処理をしながら会話を続けた。
理央もまた、話題は馬鹿げているが、窓口越しの市民と職員という立場を崩すことはない。

「それ以外の何だと思ったんだよ。誰がどう見ても、360度100%、パーフェクトな役人じゃねぇか」
「誰がどう見ても、オタクな生物兵器でした」
「余計な形容詞増やすなよ。何でオタク?」
「コアなマニアしか行かなさそうな書店のロゴの袋、持っておられました。しかも、ぱんぱんに膨らんでました」
「それを知ってるって時点で同類だな」
「普通の本屋さんだと思って迷い込んだだけです、新居の近所の下見中に。就職してからだと、ゆっくり見て回れないかもしれないので」
「ああ、内定もらってお引っ越しってわけね。そりゃおめでと。この辺の会社?」
「この辺っていうか……ここです」

席を立ってローキャビネットを漁っていた唯一は、思わず肩越しに振り返り、カウンターの向こうの変わらぬ無表情を見つめた。
それから書類を仕上げ、指ではなくその書類で、フロア奥のソファを指し示す。

「もうすぐ終業だからさ。時間あるなら、ちょっと待っててくんねぇか。この辺の飯屋、何軒かオススメ教えるから」


「晩飯には早いけどいいか?」
「はい」

小料理屋のドアを開け、理央を先に通す。

「二名様ですね。お煙草はお吸いになられますか?」
「うん」
「テーブルとカウンターがございますが」
「それならカウンターで」
「あちらのお席へどうぞ」

(あ、良かった。テーブル席だったら向かい合って座らなきゃいけないところだった。よく知らない人が正面に居るの苦手)

ざっとテーブルを眺めた理央は、内心少し緊張が解けた。
カウンターの、一列上ではなく角になっている席へ向かいながら、後ろを歩いている唯一が愚痴る。

「あれさえなけりゃ、いい店なんだけどなぁ。どの店員も、毎回なんだよなぁ」
「……ああ、確かに気になりますね」
「お、分かってくれる?」
「『お吸いになりますか』じゃないと、ってことですよね? または『吸われますか』」
「うんうん。二重敬語ってすっげぇ気になるんだよ。あーすっきりした、ここ来る時は大抵一人だから言える相手が居なくて」

角席の椅子を引いて理央を座らせてから、隣ではなく斜め前の椅子に座る。
首元のボタン一つを緩めながら、メニューを理央の前に広げて置く。
注文後、唯一はごそごそとベルト脇のホルダーを探った。

「ケータイ、持ってる?」
「はい」
「番号とメアド教えて」
「……何故ですか?」
「いや、俺はさっき個人情報見ちまったわけだけど、その記憶を元に電話しちゃ駄目だろ、職務規定的に」
「そうじゃなくて。電話やメール、する予定があるんですか?」
「あるよ。飯食いに行こー、って声掛けてぇ時に困るじゃねぇか」

右手で頬杖をつきながら左手で差し出すスマートフォン。
唯一が初めて見せた、無防備な笑顔。
その眼をじっと見つめ返して逡巡した理央は、やがてバッグからスマートフォンを取り出して番号を交換した。

「まだらに常識的なかたですね」
「いや全体的に常識的だよ?」
「全体的に常識的な公務員は、勤務中に市民を食事に誘ったりしないと思います」
「うん、それ俺も思ったけど、いずれ同僚になるんだったら一ヶ月ほどフライングしてもオッケーかなぁ、って」
「……私も、さっき職員証を見たわけですが、直接聞いてもいないのにお名前を呼ぶのは失礼かなと思っていたところでした」
「あー! ヤベぇ、名乗りもせずに引き摺ってきちまった。失礼致しました、あまはらただかず。よろしく」
「あえしまりおです。先日は、本当に有難うございました」
「礼は二回も言わねぇの。結局、大通りに放ったらかしてきたわけだし」
「でも、あのままだったらカラスにつつかれていたわけですし」

最も冷え込む季節に、他愛のない話で囲む食事は温かい。
食後の皿が下げられると、唯一は、テーブル隅の灰皿を理央の前に滑らせた。

「食後に煙草無ぇとつれぇだろ。最近は吸える場所も減ってるし」
「……有難うございます。何故、私が吸うだろう、と?」
「煙草の匂い」
「匂いがつかないように気を遣っているつもりなんですが……」

バッグから煙草とライターを出した手元に、唯一が眼を留める。
どちらかというと女性向きの銘柄ではないボックスと、レディース用の細身タイプではない武骨なオイルライターだった。

「女の子にしちゃ珍しいな、そのセレクト」
「……お吸いにならないんですか?」
「いや、俺、いつもはあっちの席。禁煙したから」
「私のためだけにこちらの席に?」
「そだよ」
「それは……ありがとうございます。私も禁煙したいとは思ってるんですが、すぐ挫折するので。やめるのに時間掛かりましたか?」
「いや、やめるぞーって決めたら割とすっぱりやめられたなぁ。もう五年目だ。偉い?」
「ええ。素直に、意志が強いんだなぁと思います。……ところで、」

煙が唯一の正面に向かわないように注意を払いながら吐いていた理央は、灰皿で揉み消す煙草の先へ視線を移した。

「私のこと、年上って仰いましたよね」
「うん。いっこ上」
「私は今年23歳になるんですが」
「……あ」
「23ひく1ひく5は?」
「……」
「……」
「さぁっ、他にどっか見ときてぇとこあるか? サ店でも飲み屋でもいいぞ!」

引き算の問題は無視し、唯一は、理央が手を伸ばすよりも早く、テーブルの端の伝票を引ったくった。


「で、俺、敬語で話したほうがいい?」

市役所に面した大通り沿いには、街灯と店々の灯が灯り始めている。
市役所から駅までのお薦めを案内している唯一の一歩ほど左斜め後ろを、理央は歩いていた。

「どうしてですか?」
「お姉さんだから。一般常識的に」
「これから先輩になるかたです。そのままで構いませんっていうかむしろいきなり変えられたら落ち着きません」
「あ、それ、よく言われる。そんなに落ち着かねぇもんなの?」

どこか遠くを見て、唯一は足を止めた。
一歩分距離を置いたまま、理央も立ち止まる。

「俺の同期の連中、殆どが大卒か短大卒で、院卒なんて六つも年上だからさ。俺、最初のうち同期に丁寧に喋ってたんだけど。そのうち誰もが、気持ち悪ぃからやめてくれって言い出すんだよ。高校の先輩にも、そうだ親父の部下にも言われたなぁ」
「分かる気がします。素の状態のほうが分かりやすくていいです」
「そりゃどうも。で、も一つ訊きてぇんだけど、」

自然体の表情と口調で、唯一が左斜め後ろの理央を振り返った。

「何で、後ろ歩くの?」
「……癖みたいなものです」
「スっゲぇ喋りにくい。横、歩いてくれる? あと、車道側、歩かないでくれる?」


駅の改札まで理央を送った唯一は、そこから徒歩で帰れる自宅へ向かう。
その足取りが、ふと遅くなった。

――全体的に常識的な公務員は、勤務中に市民を食事に誘ったりしないと思います。

(全くだ。あり得ねぇ。幸多の野郎じゃあるめぇし、仕事中どころか今まで一度も、どんな美人だろうがナンパ紛いに呼び止めたりしたこと無かったってのに)

自分がしたことのない行動を自分が勝手に行っていたことに、自分を管理している筈の唯一は戸惑う。

(呼び止め……そうだ。俺、何で呼び止めた? いや、それは分かってる。呼び止めなかったら、あいつ、真っ直ぐ帰ってたから。用事が済んだら帰る、なんていう当たり前のことに……違和感があったから)
(違和感? 何に? ……いや、それも分かってる。眼だよ。最初に会った時とは違ってたからだよな。気になったのは……何で、あいつが早く帰りたがってたのか、だ)
(あの眼の奴は大勢知ってる。あの眼の奴は、早く帰りたがらねぇ)

いつの間にか、足は完全に止まっていた。
アスファルトの一点を見つめ、灯の灯った思いを自覚する。

(……そっか。だから、こいつを逃がしちゃ駄目だ、って思ったのか……)


(名前も知らない人なら、二度と会うことも無い人なら……って思ってたのに)
(知らない人……じゃなくなった)

3駅先で電車を降りて、改札を出て、未だ片付けが終わっていない新居へ向かって。
その地点で、理央も同じように立ち止まっていた。

(知らない人のままでいなきゃ、この人とは距離を置かなきゃ……って、窓口で思ったのに。どうして……待ったんだろう。ついていったんだろう。あんなにたくさん……話したんだろう)

アスファルトの一点を見つめ、仄昏い思いに沈む。

(これ以上、あの人と話し続けちゃいけない。これからは……出来るだけ、顔を合わさないようにしなきゃ……)