疑似神経

(天原唯一。33歳。市立鞜賀見高校卒業後、鞜賀見市役所入職。広報課、市民課証明係、水道局出向を経て、再び市民課へ。現、戸籍係、同、係長……?)

それは、鞜賀見市役所の人事課の管理データの中にあった。
外部から遮断されたネットワークであろうとも、万全のセキュリティであろうとも、那由多にとっては壁も鍵も無いに等しい。
あらゆるコンピュータは、電気の供給無しでは動作しないのだ。
インターネット回線のみならず、電話回線や電気系統や電波など、凡そ人間がエネルギーや情報を運ぶために用いている電子的手段を、那由多は自らの神経同然に扱える。

那由多の一部を市役所のイントラネットに侵入させ、赤い屋根の家の地番からデータを吸い上げてみた、のだが。
住民票の記載事項の内容が入手出来れば良い、程度のつもりが、記載事項に関連するワードを那由多が自動的に取得してきたせいで、思いのほか詳細な個人情報をあっさりと拾い上げてしまった。

(帰国子女という以外、これといって変わった点は見当たらないな。こういう経歴の人が、仮に何かを強く願ったとして、那由多のような性質のフラグメントを切り取ってくる可能性があるんだろうか)

見やすいようにパソコンのモニターに投影したデータをスクロールしながら、真二は困惑する。

(でも、今のところ、ファウンダーまたはビリーバーと思われるのは、彼だけだ。……ん、25歳にて結婚。これは……あの女性か。旧姓、饗島……)

別の部署に所属していた理央のデータも残っていたが、彼らの個人情報は大して情報の意味を持たない、と判断した真二はそれ以上の閲覧を打ち切って那由多に問い掛けた。

(君と母が何の制約も無く戦ったら、間違いなく君が消えるよな?)
(ウン。100%、なゆた、壊レル)
(今なら、あちら側には、抜け殻着用というハンデがある。その上で戦ったとしたら?)
(ソンナ怖イコト、シタクナイ)
(ハンデがあっても駄目なほど力の差があるのか……ん? 『怖い』? 『したくない』? 君には感情が無いんじゃなかったか?)
(ウン。無イ。デモ、怖イ。なゆた、壊レルコト、怖イ)
(ああ、自己保存を脅かす危険を、そう表現してるだけか)

朝という現実は、真二にも等しくやって来る。
出勤の時刻が近付いていた。
問い掛けの形の思考を中断し、真二は壁に掛けたスーツを手にしながら決断する。

(フラグメント同士をぶつけるのは避けたい。となると、やっぱり……ファウンダー側をどうにかするしかない、か)

よく理解したばかりだったというのに、真二らしくもなく、完全に失念していた。
昨夜「僕の眼で直接確認するのも重要」と考えたことを。


呼び出しを受けて車で迎えに来た母は、当然だが終始不機嫌で、当然ではないがさほど叱り飛ばしはしなかった。
息子が補導されかけたことよりも、パチンコ店か不倫相手宅かは不明だが、警察からの呼び出しとあっては急いで帰らなければならなくなったことのほうが腹立たしかったのであろう。

(昨日は散々な目に遭った……)

一限目が始まる前から、心身共に疲労困憊の陽向は、自席で机に突っ伏していた。
内心の独白ではない。
興味深そうに教室を見回している、傍らに浮遊する裁へ向けた愚痴混じりの抗議だった。

(大体、母ってのは、お前達を分解したり回収したりするんだろ? お前達より強いってことじゃないの?)
(そうだ)
(なら、いきなり立ち向かったって、勝てないんじゃないの?)
(そうだ)

突っ伏したまま呆気に取られ、次いでがばっと起き上がって裁を睨みつける。

(どうするつもりだったんだよ!?)
(私は、正なる義だ。理不尽な分解回収など認めぬ。私が正しき側なのだから、力量差があろうと勝てる筈だ)
(お、お前、本気で馬鹿……)

クラスメイト達の視線を感じて慌てて前を向いたが、どうしようもない脱力感で両手で頭を抱えた。

(もうちょっと考えてから動こうよ。お前、多分、剣振り回すことしか出来ないんだろ? 相手の性質とか得意不得意とか、そうだ、あっち側の人間のことも全然知らないじゃないか)

振り回され続けて漸く、真二と同じ地点からスタートする下地が陽向にも出来てきた。
しかし、裁は聞き容れない。

(ファウンダーなどどうでも良い。敵性のフラグメントが居れば排除するだけだ)

暫し思考が停止した後、頭を抱えていた両手を机に下ろしながら、陽向は微妙な表情でゆっくりと裁を振り返った。

(ごめんもういっぺん言って)
(ファウンダーなどどうでも良い。敵性のフラグメントが居れば排除するだけだ)
(ファウンダー? フラグ……? 何それ?)
(今更、何を言っている。我々フラグメントを切り取った人間がファウンダーだ)
(そんな用語、初耳だよ!?)

互いに頭の中が疑問符でいっぱいになっている顔を見合わせていると、教室の扉が開いた。
そこに居るべきではない者が、弁当の包みを手にして、笑顔で立っている。

(え!? 美麗!? 喪は明けてな、いん、じゃ……)

登校してきている美麗、美麗の後ろに居る者、に陽向は自分の眼を疑い、内心の独白さえ掻き消えた。
いつもならば真っ直ぐ陽向の席に突進してくる美麗もまた、教室へ二歩踏み込んだ地点で立ち止まっている。

互いの背後を凝視する二人は、同時に訊いた。

「「ソレ……何?」」


約26日周期で、理央は二日間ほど体調を崩す。
その間は、無理に家事をしようとする理央を無理に休ませ、唯一が自分で弁当を作って出勤する。
結婚前から何となくそういう習慣になり、市役所の食堂からは長年足が遠退いていたが、今朝は弁当を作る気持ちにはなれなかった。

「喋ってねぇと死ぬ」と開き直っているような唯一が、午前中、業務上必要最小限の言葉しか発しなかった。
周囲から心配されたり気味悪がられたりした唯一は今、独りでセルフサービスのレーンの前に並んでいる。
その姿を目敏く見つけた同期の幸多貴臣たかおみが、明るい茶色の眼を更に明るく輝かせて、この上なく爽やかな笑顔で近付いてきた。

「あっれー? めっずらしいねー? 今日は弁当作ってもらえなかったの? 饗島さん怒らせた? 喧嘩でもした? もうすぐ離婚?」
「……っせぇなぁ。あいつのこと旧姓で呼ぶなっつってんだろ、未練がましい」

貴臣をちらりと見やっただけで静かに呟き、トレイを清算口までスライドさせる、が別に本気で怒ってはいない。
大嫌いな唯一を見つけると嬉しそうにやって来る貴臣、大嫌いな貴臣がやって来ると不機嫌そうに喋り始める唯一、という構図はいつものことだった。

自治体や勤務区分にもよるだろうが、少なくとも鞜賀見市の本庁は、職員の服装の自由度が高い。
事務吏員は通常、ジャケットだけの制服を、窓口当番の時だけ私服の上に羽織る。
技術職と現業職には作業服や安全靴などが与えられるものの、庁内でデスクワークをしている分には、何を着ていようが何も言われない。
女性職員は、民間企業の社員と同じくらいか、極端に地味か、の二派に分かれるが、男性職員が自由度高過ぎて無法地帯である。
堅気の職種には見えないセンスの服装、今から自宅でごろごろするかのようなラフな服装、今からどこかへ踊りに行くとしか思えない華美な服装。
更には茶髪に長髪にスキンヘッドにソフトモヒカンに総髭、等、特に若い男性職員だけ並べたら一見何の職場か分からない。
スーツ一式着用で仕事している男性職員は、中間管理職辺りであっても少数派だった。

「もしかして、饗島さん体調崩してる? お見舞いに行っていい? っていうか行くね」
「来なくていいっつーか来んな。あと人の話聞け何年待ってても旧姓には戻んねぇよ」

夏にはクールビズが推奨されるが、唯一はそもそも一年中ネクタイをしない。
仕事始めや仕事納め、他の自治体と顔を合わせる会議、等でのみ、嘗て貴臣が選んで押しつけたネクタイを渋々締める。
寒がりなので、冬はフリース裏地のトレーナーなどを着込み、中でも理央の手編みのセーターを気に入っていてヘヴィに着回す。
ラフ組の中でも群を抜いてアバウトな唯一、とは対照的に。
窓口業務が無い部署でありながら、貴臣は常に、セミオーダーの三つ揃えをきっちりと着込んでいる。

「あれ? やけに少ないね。食欲無いの? お前が体調悪くなるわけないから精神的な原因だよねやっぱり喧嘩でもした? もうすぐ離婚?」

親子丼定食(にプラス50円の大盛)に単品2皿を乗せた唯一のトレイを見て、貴臣が怪訝そうに訊く。
貴臣のトレイはといえば、「御自由にお使い下さい」のふりかけを大量にまぶしたライス(サイズ小)以外には、見事に揚げ物しか乗っていない。

「ただのダイエットだ。お前はもうちょいバランス考えて食えそんでとっとと席に戻れ」
「それがさー、朝からちょっと気が重くて。あんまり席に戻りたくないんだよ」

唯一は決して生真面目ではないが、14年間変わることなく軽薄なままの貴臣に比べれば遥かに真面目そうに見える。
いつ会っても飄々とした、今も大して気が重そうには見えない貴臣は、長テーブルの空席に座った唯一の右隣にトレイを置いて座った。
パイプ椅子同士の間隔が狭い食堂で唯一の左隣に座ってしまうと、左利きの唯一と右利きの貴臣では、箸の可動域が狭くなって互いに食べにくい。
唯一だけが「いただきます」を言った後、二人は同時に箸を手にする。
意外にも、二人とも、食べ方がごく自然に綺麗だった。

「夜中に、俺んとこにお客さん来たらしくてさ。アルバム見て帰ってったっぽい。あ、ソース取って」

特に深刻そうでもなく言いながら、貴臣は揚げ物を飲み込み続ける。
ぴくり、と唯一の箸が止まった。
長テーブルに常時置かれている丸トレイからソースを取り、それを手渡してやりながら、初めてまともに貴臣のほうを見る。

「足跡でも残ってたのか?」

「現実の幸多貴臣の家に誰かが不法侵入した」という文意ではないことを唯一が理解した、ことを貴臣は理解した。
別に、全庁的に、またはこの二人の間に、暗号が存在するわけではない。
貴臣の単語のセレクトから唯一はそう理解し、貴臣もまた話が即座に通じたことを理解していた。

「無いよ。鍵を抉じ開けた形跡も、何か盗ってった形跡も」
「んなもんに、どうやって気付いたんだよ」

フリードリンクの薄くてぬるい緑茶を一口啜ってから、貴臣もまた唯一のほうを見て、世間話のように答える。

「栞が3ヶ所折れてた」
「……あっそ」

混んだ食堂では、連れとの会話に熱中する者、独りで来ていてさっさと食べ終わりたい者、各々が各々の事情に集中している。
二人の会話には、誰も気を留めず、誰かが加わってくることも無かった。
二人と親しい者であっても、容姿的に突出している二人が並んでいるところへわざわざ自分から割り込みたくはないし、そもそも会話のテンポについていけない。
二人の会話に平気で混ざり込んでくるといえば同期の斎藤紘騎さいとうひろきくらいだが、今年4月から唯一と入れ替わるように水道局へ異動になっていた。

「お前んとこの誰か、って可能性は?」
「無いよ。ほら、俺んとこって、道路に繋がってないだろ? なのに、お客さんは外から来てる」
「……何でそう言い切れる?」
「もし俺んとこの誰かが夜中にこっそり見たくなったんだとしたら、ドア、棚、アルバム、の順番に触るよね? でも、」

この時だけ箸を止めて考え込むように遠くを見やった貴臣だったが、軽い語り口は変わらない。

「1時23分に、道路に繋がってない家に入ってきて、電気点けて、棚の扉にもアルバムの表紙にも触らずに中身だけ見て、1分間だけ居て、電気消して、道路じゃないどっかから帰ってった。なんてこと、俺んとこの誰にも不可能だよ。どんなお客さんだったんだろうねー」
「手品師」

素っ気無く答えて食べ続ける唯一の、眼だけが険しくなってきていた。

「夜中に家が寝惚けて起きたか、今お前が寝惚けてるか、じゃねぇのか」
「家は勝手に起きないようにしてあるよ。俺のほうはちょっと自信無かったから、先ずはお前に訊いてみた」
「何で俺に訊くんだ。先ずはお前んとこの誰かに相談しろよ」
「だって、もし俺が寝惚けてて勘違いしてるんだったら、恥ずかしいだろ? あー、そういえば。佳月君とじゅーきちゃん、元気?」
「佳月は元気だが、……ごちそうさま。その話は、また後でな」

唯一だけが「ごちそうさま」を言った後、二人は同時に席を立つ。
乱雑に詰め込まれている返却口にトレイを押し込みながら、貴臣は世間話の口調のままで、今度は本当にただの世間話をし始めた。

「王子、ちゃんとごはん食べてるかなー。ウチの水道局って確か、食堂無かったよね?」
「心配しなくても、どうせ周囲から甘やかされまくって、何か強制的に食わされてるだろうよ」

単品でも目立つこの二人は、セットになると誰よりも人目を惹く。
そして、庁内全体を見回しても誰よりも仲が悪いであろう二人は、顔を合わせると誰よりも長話になる。


学校の屋上、という場所はよくフィクションで描写される恰好の舞台だが、残念ながら現実では殆どの場合、安全面から封鎖されていて許可無く立ち入ることは出来ない。
陽向と美麗は、屋上へ続く階段を上りきった踊り場で、並んで座って膝に弁当を置いていた。
離れたクラスから美麗が毎日弁当を陽向に届けに来ることも、二人がいつもここで弁当を広げることも、誰もが知っているが誰も話題にはせず、ましてやここへ来ることは無い。
二人で過ごしているところに割り込んで話し掛けたりしようものならば、教師でさえ女王の逆鱗に触れるのは確実だった。
お蔭で、陽向は友人が極端に少ない。

いつもならば内心そのことを嘆きつつ押しつけられた弁当を渋々平らげる陽向だが、今日は落ち着かなさげにちらちらと美麗の斜め後ろを見やりながら、上の空で弁当を突つく。

「そ、ソレさ……通夜の時には居なかった……よな?」
「居たわよ? 陽向のほうこそ、お通夜の時にはそんなの居なかったじゃない」
「う……うん。あの後、すぐ……出てきた」

美麗の背後に居る、それは。
花のような女だった。
波打つ長い蜂蜜色の髪、伏し目がちな金色がかった緋色の瞳。
露出が皆無のふわりとした純白のドレスの裾から覗いている爪先は、裁と同じく、地面からやや浮いている。
澄みきった白い肌も裁と同じだが、裁とは対極にある、優しい印象の美だった。
大輪の花である点では美麗と同じだが、美麗とは対極にある、淡く穏やかな印象の美だった。

正直言って、陽向は、美麗よりも裁よりも、控えめに微笑んで静かに漂っているこれのほうが遥かに好感が持てた。
が、そんなことは間違っても口には出せない。

「俺のほうのは、カミサマ、って言い張ってるんだけど……ソレも、カミサマ……なわけ?」
「うん!」

何の躊躇いも無く、美麗が快活に答える。
普段から明るいが、この特殊な状況に一段と浮き立っているらしく、過剰に快活だった。

「何の……カミサマ?」
「愛!」
「……あ、い?」

毎日押し切られて手作り弁当(自体は美味しい)を受け取り、仕方なくここに座って仕方なくその場凌ぎの話題を探す。
陽向は今日も、二柱のフラグメント(と今朝いきなり裁が呼び始めた存在)を無視するわけにもいかずに無難な質問をした、だけだった。
が、漸くその話題に触れてもらえたことで、美麗のテンションはメーターを振り切る。

「綺麗でしょ? 恋華れんげっていうの。恋の華って書いて『れんげ』! ほら、恋華、御挨拶して」
「初めまして。美麗様のフラグメントです。以後、お見知りおきを」

声もふわりと柔らかく、ドレスの裾を摘まんだ淑女の一礼などという時代がかった大仰ささえも自然で優雅だった。
一瞬見惚れてから慌てて曖昧に会釈し、陽向は弁当を咀嚼する作業に戻る。

(美麗らしいといえばらしいか。って、それじゃ美麗は、すっごく切実に、愛情を願った……ってことか?)
(愛、か。本質は愛全般を司るフラグメントだったようだ、が、)

内心の独白だったのだが、中途半端に呼び掛けの形になっていたのか、裁の声が思考に割り込んできた。

(私と同じく、命名によって存在が狭義的に限定されたようだな。このフラグメントからは、恋に関する守護しか感じ取れぬ。今のところ敵性は感じられぬから、私にとってはどうでも良いが)
(恋限定のカミサマ? そういうの日本にもいっぱい居るけど、それじゃ駄目なのかな)
(我々は、土着信仰の神々とは異なる。願を掛けられ気紛れに叶えるのみの存在に非ず、もっと行動的、且つ積極的だ)
(美麗が今まで以上にアクティブになったら困るよ……)

声を出さない会話方式は、他の人間同様、美麗や恋華にも聞こえないらしい。
かなり鬱陶しそうに答えた愚痴がもしも聞こえていたならば、恐らく美麗のハイテンションは持続してはいない。

「陽向のは?」
「えっ、え、あ、うん……裁、っていうんだ。裁く、って書く『さい』」
「え。裁きのカミサマなの?」
「い、いや、正確には、正なる義……だってさ」
「えっと、正義のこと? 何でそんなのが陽向に?」
「俺にも分かんない……」

裁にも挨拶させるべきか迷っているうちに、5限目の予鈴が鳴った。


午後の始業時刻まで、15分ある。
食堂から出たところで貴臣を追い払って歩き出した唯一は、次第に足を速めた。

目指す先は、第一庁舎1階、市民課の自席近くにある、庁内電算システムの端末。

年度末と年度始めに次ぐ繁忙期の年末、窓口当番は対応に忙殺されている。
食堂や外食へ出払っている他の職員は、未だ殆どが戻ってきていない。
コンビニ組や弁当組、特に豊雲次長に見咎められることだけが心配だったが、豊雲次長を含む全員が歯磨きと化粧直しで席を外していて、唯一は安堵した。

――栞が3ヶ所折れてた。

(イベントログ)

住民基本台帳に管理者権限でログインし、手早く管理ツールを立ち上げる。
高速でスクロールする唯一の眼が、更に険しくなっていく。

――道路に繋がってない家に入ってきて、

(人事システムはスタンドアローンだ、外部どころか庁内のどのシステムにも繋がってねぇ)
(こっちは一応道路には繋がってる、が……CSだけだ。昨日の終業時から今日の始業時までにCSに接続した形跡は無ぇ)

――電気点けて、

(1時22分00秒、電源オン)

――棚の扉にもアルバムの表紙にも触らずに中身だけ見て、

(なのに、OSのオンオフ履歴が無ぇ。パス割ってログインした形跡も無ぇ。ファイルにだけ……アクセス履歴がある。が……何だこのIP……)

――1分間だけ居て、電気消して、道路じゃないどっかから帰ってった。

(1時23分00秒、電源オフ……こいつ、ネットを経由してねぇ。マジで足跡無しで3ヶ所触ってやがる……)

半ば放心しつつも、速やかに管理ツールを閉じてログアウトする。

――アルバム見て帰ってったっぽい。

(もし30万人分の個人情報が流出してたら大問題だ。けど、60秒で抜き取れるようなもんじゃねぇ。それに、人事には……職員のデータしか無ぇんだぞ。こいつ、何がしたかったんだ?)

自席に戻ると、周囲を確認してから、人事課の課長補佐席の内線番号を探した。

「もしもーし。俺だ。……じゅーきちゃんのとこにも来てたぞ。お前んとこより1分早く、手品師が」


授業前の、ざわざわと活気ある廊下。
印象に全く残らない陽向が独りで歩いても、何も起こらない。
「山都美麗に追い回されている常陸陽向」という周知の事実を付加してみてさえ、誰の前を通り過ぎても振り向かれることは無い。
空気のようなそんな自分の特性を残念に思うこともあるが、気楽でもあった。
が、空の弁当の包みを二つ大事そうに抱えた美麗が心から楽しげに並んで歩いている、となると反応が違う。

「今、まだ喪中だろ? 何で学校に?」

誰もが振り返り、通り過ぎた後には密やかなざわめきが漣立つ。
自分に似合わない金粉を撒き散らしながら歩いているかのような気の重さから、俯きがちに自分の教室を目指す陽向はまた無理矢理話題を探した、だけだった。
それへ、美麗が明るくはきはきと答える。

「喪中って、すること無いし。陽向のことが心配だし。陽向って、私が居ないと何も出来ないでしょ」

陽向は言葉を失った。

(何も出来ないわけだろ。俺が何していようが誰と居ようが、美麗が割り込んでくるだけじゃないか。それに……、)

といういつもの憤懣の底から、別の、見慣れない寒々しさが浮かんでくる。

(亡くなったの、お父さんなんだぞ。パパ、パパ、ってあんなにべったりだったのに、放ったらかしにしてくるなんて……)

これこそが美麗を“苦手”と感じる、いつも美麗に付き纏っている違和感だったのだ、ということに陽向は初めて気付いた。
陽向への異常な執着と、陽向以外への異常な無関心。

美麗は、人当たりは良い。
陽向が見る限り、高飛車な言動で周囲を従えているわけではないし、周囲への陰口を言うでもない。
そんな低次元なことをするまでもなく、誰もが自然に、媚び、諂い、阿り、一挙手一投足に注視し、どの角度から見ても完璧な存在の美麗を快適に過ごさせようと心を砕いてくれる。
どこへ行っても、まさに女王だった。
しかし、今分かりやすい形で現れただけで、思い返してみれば昔から美麗の言動全てにこの病理の断片が潜んでいた、ように感じられる。

それが裏表があるだの猫を被っているだのではなく美麗の“自然体”なのだ、と、はっきり文章として思い浮かんだわけではないが、陽向はうっすらと思い至った。
しかも、その執着が、よりによって自分に向けられ続けている。
一層俯いてやや足を速めた陽向の内心に気付くことも無く、自分の教室の前に着いた美麗は、うきうきと弾んだ声で耳打ちした。

「ね、コレ、私達にしか憑いてないよね」
「え!? あ、あー、うん。そう……みたいだね」

立て続けに慌ただしかったことで気が回らなくなっていた周囲を、ざっと見回してみる。
人外は、確かに陽向と美麗の傍にしか居ない。
裁と恋華は、互いに言葉を交わすことも無く、滑るように背後をついてきていた。

上擦った声の陽向の返事に満足したらしき美麗は、陽向から一歩離れ、後ろで手を組んで胸を張り、曇りの無い朗らかな笑顔を見せる。

「私達、特別だね!」


それは、佳月も唯一も帰宅して、夕食になった時だった。
理央の記憶を参照して無何有が作った料理は、完璧に理央の味を再現していた、が二人とも理央の味には感じられない。
一口一口を砂を噛むようにして飲み込んでいたが、佳月がそっと箸を置き、思い詰めた顔を伏せたまま切り出した。

「……あ、あのね……むかうさん」
「はい」

昨夜と今朝の食事時は、誰も一言も発さなかった。
佳月が最初に話し始める、しかも無何有に話し掛ける、とは予想していなかった唯一が、箸を止めはしないが一瞬小さな驚きの眼を佳月に向ける。
それが予想出来ていたらしき佳月は、唯一も無何有も見ずにぽつぽつと言う。

「むかうさんは、ね……おかあさんじゃ、ないよね」
「はい」
「だ、だからね……、」

この躊躇い方は何か苦情を言いたいのだろうか、と唯一は訝しんだが、

「『かあさん』、って……よんでいい? あ、あのね、あだな、みたいなものだよ! 『むかうさん』、って、いいにくいの」

予想外過ぎて絶句した。

「はい」

無何有が事務的に答え、唯一は俯いて再び食事を飲み込み始める。
二人の承認が得られたことで、少しだけほっとしたように、その後は「ごちそうさまでした」までずっと無言で、佳月は食事を続けた。

唯一は理解した。
終始無言で、遣り場の無い思いに打ち沈む。

(佳月……俺の前でこいつの名前を出したり、ましてや「おかあさん」と呼んだりするわけにはいかねぇ……って思ったのか)
(けど、佳月がこいつと一緒に外に出りゃ、人目がある。喋る時に人称を避け続けんのは不自然だし……佳月に精神的に負担が掛かり過ぎる)
(「かあさん」は確かに無理の無ぇ範囲内だ、けどそう呼ぶには先ず俺の許可が要る、って……思い詰めてたのか)
(理央とは別の呼び方をしなきゃ、って……今日一日、ずっと考えてたのか)
(こいつを毛嫌いしてる俺のために。強引な言い訳まで捻り出して)
(……駄目だな、俺は。佳月のほうがよっぽど大人じゃねぇか)

灯りの下に毎日溢れていた会話は、未だ戻らない。
家族の行動をなぞるだけの夜がまた一つ、終わった。


毎晩熟睡する唯一が、珍しく深夜に目覚めた。

(喉……乾いたな)

寝室から階段へ向かう廊下で、理央の部屋の前を通る。
ドアの隙間から灯りが洩れていた。
照明の光ではなく、明らかにパソコンのみ点けている光だった。

思わず立ち止まり、そんなつもりは無かったがつい癖でドアをノックする。
ノックへの返事、というものは学習の優先順位が低い反応だったのか、「はい」という声は理央よりもやや遅かった。

ドアを開けると、予想通り、無何有がデスクのノートパソコンの前に座っている。
湧き立った苛立ちを抑え、ドアノブを握ったままの唯一は低く言った。

「理央の真似事はすんな」

唯一の苛立ちが理解出来ず、無何有は椅子を半回転させて唯一を見やった。

「佳月に対してだけ、理央に似せて接してやってくれればいい。それは、てめぇには必要無ぇ作業だよな?」
「いいえ。必要でした。天原理央が何故コレに傾倒していたか、理解しました」

微かに眼を瞠った唯一から視線を外さず、無何有はパソコンのキーボードに右手を乗せてみせる。

「コレは、神々の神経に酷似しています」
「……神経? そんなもんあんのか?」
「人間に理解出来るよう語るならば、神経です。嘗て、一人の人間が切り取り、脳での翻訳を経て手動で再構築した、神経のみの存在であるフラグメント。今やこのシナプスによる伝達系統は地表を覆い、この次元での疑似神経として機能し始めています」

唐突に割り込んできた単語を、唯一は聞き咎めた。

(フラグメント? ……“断片”?)

「このフラグメントのファウンダーは既に存在しませんが、ビリーバーが即時に大量に発生しました。それにより、コレは今もなお存在し、ビリーバーの上書きを経つつ進化しています。即ち、コレは半永久的に行動し続けるフラグメントです」

(“発見者”、……“信者”……)

単語の意味が分かりはしても、単語同士が結びつかない。
これがもしも、“神”、“開祖”、“信者”、の意の単語がこの順番で語られたのであったならばまだしも理解出来た。が、

「そして、ここには、完全な静謐が在ります。膨大で雑多な情報を含んでいながら整然と流れる、正誤の余地の無い、完全な世界。受容体からの外部刺激によって、即ち人間が使役することによって病む場合もあるが治療法が確実に存在している、安全な世界」

訊き返す間も無く無何有が説明を続けたし、そもそも今は用語について一つ一つ訊き返したい気分でもない。

「このフラグメントを使役すると、その外側で受容体同士、即ち人間同士で損傷を与え合う場合がありますが、このフラグメントの中こそ、完全と静謐を求める天原理央の理想郷です。しかし、人間はこの中へ入ることは出来ません。故に、無何有が切り取られました。無何有の内部では、受容体同士の損傷は生じないからです」

無何有と長々と話し込みたくはないのだが、その言葉は微妙に唯一を落ち込ませ、思わず呟いた。

「……静謐、か。そういや、理央は騒々しいのは苦手だが……俺のことも、やっぱ煩ぇのかな」
「いいえ。天原理央の中に、そういった記憶は存在しません。天原理央には静寂への志向性がありますが、天原唯一に関しては例外であった、と解析します」
「そりゃどうも。カミサマってのは気休めも言うのか?」
「気休め、という単語のニュアンスが解析不能です、が……天原理央は常に、静寂の中に在りつつ、天原唯一が言葉を発することを待っていた、と解析します。音を好まない天原理央がただ一つ希求した、音です。逆説的には、天原唯一の声を待つからこそ、それを更にクリアに聞くために静寂への傾倒が一層増した、と解析します」

唯一は再び眼を瞠る。
こんな話の流れになるとは思ってもいなかった。
唯一が知りようのなかった理央の内面が、理央の声で客観的に語られ続けている。

「天原理央は、自発的な言動が極めて少ない。ストローク先の他者からのフィードバックのノイズが大きく、精神面で摩耗するからです。天原理央は、人間の中でも特に、他者が発する微弱なノイズを増幅して感知する傾向にあります」
「ああ……確かに。仕事辞めてからはだいぶマシになったようだが、顔色とか言葉の行間とか、空気読み過ぎて疲れ果ててることは多いな」
「しかし、天原唯一のフィードバックには、ノイズが無い。性格的に対極に在りながら、性質的に相似形である。天原理央の感想を引用するならば、『鏡のような』です。言葉のみならず、天原唯一の行動や存在自体からも、『クリアである』という類似の感想を得ています。故に、天原理央は、無自覚に、この静謐の世界を生ける者の世界へ持ち出そうとした、と解析します」

無何有の言葉が唯一の頭の中で分解され、年月の砂に埋もれていたあまり重要ではない記憶の断片を組み込んで、組み立て直された。

――俺、最初から断られたのって初めてだなー。
――何だ。ちゃんと、待っててくれてんのか。そりゃ嬉しいな。

「……理央。相変わらず……徹底的に受け身なんだなぁ……」

会っていない時は思い出したくもない、出来れば会いたくもない、貴臣との会話。
理央との蕾が咲き綻び始めた頃の、理央の中に灯が灯っていなかった頃の。

「鏡、か。俺、理央に言ったこと無ぇのに……同じこと思っててくれる、ってのは嬉しいな。……だが、」

不意に湧き出てきた鬱憤が、一瞬穏やかになった唯一の声を元に戻してしまう。

「それ以上、理央が考えたが理央が言わなかったこと、ってのは話すな。そりゃ、てめぇが解説してくれりゃ普通なら望みようもねぇ客観性があるし、すっげぇ知りてぇが、理央の言葉以外で俺がそれを知っちゃいけねぇんだよ。てめぇが語っていい内容じゃねぇ」
「はい」

相変わらず機械的だが、機械的であることは確実に「はい」を遵守することでもある。
命令を受け取った無何有は、椅子を回してパソコンに向き直り、最初の質問に答えた。

「この作業を完了することは、天原理央の当面の目標でした。無何有は、天原理央の知識から予測演算された通りに、作業を完了させねばなりません。無何有が、天原理央とコレを理解する上で、必要な作業です」
「……そっか。じゃあ、いい。好きにしろ。ただ、どんなに理央の知識を使って完成させたとしても……ソレは、理央の作品、ってことにはなんねぇな」

終始握ったままだったドアノブを引き、喉の渇きを忘れた唯一は寝室へ戻っていった。