無何有が来た日

Blaaaavaaaaa!!

観客は二人だが、喝采は一つ。
もともと血色の良い白衣の老人の頬は一層紅潮し、スタンディングオベーションで最大級の拍手を贈る。

「君ぃ! こんなことが予想出来たかね!? 母だ、神々の母が切り取られた! 我々が苦労して構築する筈だった仮想空間を、いともあっさり用意してくれるとは! 素晴らしい、実に素晴らしい成果ではないか、ねぇ!?」

同意を求めたところで、白衣の青年の返事は無い。
返事が無かろうと、老人は足早に歩み寄り、青年を見下ろしてオーバージェスチャーで熱弁をふるう。

「粗悪品が瞬時に分解回収された、のみならず! 神々が決して手出し出来ぬ人間を消滅させる手段をも、母は得たのだよ! 母を切り取った者……えーっと、天原理央、か。本質に極めて近い状態で強大無比な神を切り取ってくれた上、理想的な形で贄となり、」

正二十面体のうちの一つは、20枚の正三角形に、やはり今しがたのどこかの惨事をあらゆる角度から映し出している。

「しかも、脳内に無尽蔵の死せる者を飼っていた。母は彼女ごと死せる者を取り込んでしまったが、使いこなすことは出来ぬ。完璧だ。我々の作業がもう一つ減ったのだよ、“切除”のための基礎データを収集せずに済む。この結果を招いたのが、人間の母の愛、という辺りが何とも皮肉ではないか」

人形か何かだと思うことにしてもはや諦めているのか、青年の無反応には構わず、再び正二十面体群を仰いだ老人は、無邪気な笑顔になった。

「いつの世も、逸材とは石ころのように無造作に道端に転がっているものなのだ、ねぇ」


草叢に尻餅をついたまま、佳月はただ震えている。
差し迫った危機と屍の大群は消えたが、周囲は未だ黒い霧に覆われていた。
動かなくなった理央に、再びよろよろと這い寄る。

「お……かあ、さん……おかあさ、ん……お、かあさ」

初めて触れる死者の頬は、冷たかった。
理央の下の草を濡らしている血が、佳月の手や膝につく。

「ぁ……あ、ぁああ、ぁぁあぁあああぁああああああああ、」

涙と動悸と過呼吸で滅茶苦茶になった叫びが号泣に変わろうとした時。

霧が、急激に収斂した。
現れた時とは違い、理央の全身を包むようにして一旦留まった、かと思うと吸い込まれるように掻き消える。

息を呑んで硬直している佳月の前で、理央、だったものが瞼を開いた。
ゆらり、と上体を起こして座り、佳月を見やる。

「帰宅します」
「……おかあ、さん……?」

眼、表情、声、全ては理央のままだった。
が、佳月は後ずさる。

「ちが……う。ちがう、おかあさんじゃない、おかあさんだけどおかあさんじゃない……いつも、おかあさん、いってたもん……いきてるもの、しんじゃったら、いきかえらない、って……でんち、いれかえられない、って! そ、そんなにちがでて……さっきまで、つめたくて……」

それを聞いた理央(だったもの)は、佳月が怯えている理由を「地面と衣服に飛び散っている血」と判断したらしい。
立ち上がってから、先ずは衣服へ、次いで地面へ、と視線を移すと、血痕全体が何かに弾かれたように霧散した。
しかし、その配慮は人間というものを理解しておらず、佳月の恐怖を煽ったに過ぎなかった。

「やっぱり……おかあさん、じゃない……よね? おかあさん、そんなこと、できないもん……おかあさん、そんな……、」

まだ少しずつ後ずさっていた佳月が止まり、震えながら小さく叫んだ。

「そんなおめめ、してないもん!」

理央(だったもの)は、何か考え込むように黙って立っていた。
考え込んで黙る時、理央ならば小首を傾げたり口元に手を当てたり、と他人よりは少なく目立たないがとにかく何らかの仕草が無意識に出る。
だが、この理央(だったもの)には一切の動きが無かった。
やがて、佳月を真っ直ぐ見つめ、ぽつりぽつりと呟く。

「原因不明。解析不能。天原理央である、と、認識されません」
「え……? な、に、いってるの……?」
「天原理央は、天原唯一及び天原佳月が、今まで通りの生活を維持することを願いました」
「え……あ、あの……お、おかあさん、は……?」
「この脳からは喪われました」
「わ、か……んない……やっぱり、しんじゃった、の……? じゃあ、いましゃべってるの、だれ……」
無何有むかう

眼、表情、声、やはり全ては理央のままだった。
が、佳月は凍りつく。

「死に際して天原理央が切り取り、無何有と命名された、神です」
「かっ……みさ、ま……???」
「しかし、天原佳月は、無何有を天原理央として認識しません。これでは、天原理央が願った『今まで通りの生活の維持』が実現出来ません」
「そ、そんなの……あたりまえでしょ!? おかあさん、しんじゃったんでしょ!? いままでどおりなんて、むりだよ!!」
「しかし、天原唯一は、天原理央の死を知りません」

理央(だったもの)――無何有と名乗るものが言わんとすることに気付き、佳月は愕然とした。

「な、に、いってる……の。そ、そんなにちがったら、お、おとうさんだって、きづく……に、きまってるじゃない……」
「天原佳月に認識されなかった原因は、人間全般及び天原理央固有の言動パターンを無何有が取得しきれていなかったため、と推察されます。間もなく、優先順位の高い項目の学習が完了します。無何有が天原理央として行動することは、可能です」
「だ……だます、の……?」
「事実と異なる虚偽を語る。と、事実を語らない。とは異なります」
「おんなじだよ! むかうさんが、おかあさんのふりする、ってことでしょ!? こんなこと、ないしょにしちゃだめでしょ!?」
「事実を語らない。が、天原理央の願いです」

無何有は立ち上がる。
そして、一旦動きを止めて考え込み、襲撃時のまま放り出されていたスーパーの袋を拾い上げ、また一旦動きを止めて考え込み、先に立って歩き出した。
恐怖よりも取り残されることに怯えた佳月は、弾かれたように立ち上がり、半泣きのまま、縺れる足取りで小走りに無何有を追った。


ふっ、と室内がやや暗くなる。

「おや。妙だね。アレを捕捉出来なくなった」

正二十面体群の一つを仰いでいた老人は呟いた。
今しがたまで無何有と佳月を映していたそれが、暗転している。

「あそこに入っていったからか? ごく普通の民家のようだったが、立地や材質など何らかの理由で、コレとの相性が悪いのかね? ……まぁ、宜しい。人間の振りをせねばならぬならば、引きこもりっ放しということはあるまい。データ収集は、外出するまで気長に待つとしようか、ねぇ」

興奮の後の疲労感で小さく息を吐いて顔を下ろしたその先に、場違いな品があった。


天原唯一の帰宅時刻に大きな誤差は無い。
酒の席は必要最低限、ギャンブルも浮気も眼中に無い、書店での予約取り置きなどが無ければ飛ぶように真っ直ぐ帰ってくる。

佳月の手やズボンに附着していた理央の血を、無何有は帰宅後、先ほどと同様に消滅させた。
茫然自失の佳月は、その後ずっと、リビングのソファで膝を抱えて蹲っている。
無何有はといえば、本当に“学習”したらしく、理央が遺した夕食の下拵えを調理し始めていた。
いつもは待ち遠しいインターホンが鳴り、佳月はびくりと顔を上げる。

いつもの軽快な出迎えではなく、足取り重く玄関へ向かう。
既に、無何有が鍵とチェーンを開けていた。

「ただいまぁー」
「お帰りなさい。お疲れ様です」
「いやぁ弁当美味かったよ。あ、豊雲次長がレシピ教えてくれってさ」

理央の行動パターンをなぞる無何有に、佳月も恐る恐る合わせる。

「お、おかえりなさ……い」

機嫌良く靴を脱ぎかけた唯一が、軽く鼻を鳴らし、動きを止めて不審そうに佳月を見下ろした。

「お前、怪我でもしてんのか?」
「え……」

スーツのジャケットを脱いで理央に手渡すいつもの動作をしながら、佳月を覗き込む。
平静を装うとすればするほど、佳月の頭には血が上り、経験したことの無い眩暈と耳鳴りに襲われた。

――天原理央は、天原唯一と天原佳月が、今まで通りの生活を維持することを願いました。

(おかあさんのこと……いわないほうが、いいの……?)

混乱する佳月に、理央の幻影が問う。

――誰も見ていない時に、誰かのものを壊したり失くしたりしても、その人に謝れますか?

(っ……! だめだよ! いわなきゃ……おとうさんにいわなきゃ!!)

「お…とう、さ……」
「おい、マジで顔色悪ぃぞ。どうした、」

佳月を注視していた視線がふと、ジャケットを受け取ろうと近付いて左手を差し出した無何有へ向いた。

「おとう……さん、あの……あのねっ!!」

唯一から表情が消えた。

ジャケットを手渡そうとしていた左手を降ろし、玄関先へぱさりと置く。
佳月から離れ、靴を脱ぎ、玄関マットへ一歩踏み出し。

次の瞬間には、左の拳が無何有の顔へ向けて振り抜かれていた。

反射的に、無何有が後ろへ一歩跳ぶ。
前例の無い唯一の豹変に、口を両手で覆った佳月は声さえ上げられずにいる。

「まさか、とは思ったが、」

佳月の記憶に、いや無何有が持つ理央の記憶にも存在しない、一度たりとも家族に向けられたことのない眼がそこに在った。

「てめぇ……誰だ?」


「こ、こんな目立つのが、ほんとに誰にも視えてないのか……」

車窓から斜めに射し込む夕陽を背にして、普通電車に揺られている陽向は、裁と周囲を交互に見やりながら、思わず呟く。
裁の厳しい面持ちがほんの少し崩れ、嘆かわしそうな表情になった。

「そう言ったではないか。深刻な馬鹿なのだな……」
「同情の目で見るなよ!」
「誰にも視えておらぬ相手に話し掛け続けていたら、どうなると思う?」
「え」

帰宅ラッシュとは反対方向の電車ではあるが、それなりに座席は埋まっている。
慌てて周囲を見回すと、乗客達は一様に、目を合わせないように俯いたり顔を背けたりした。

「ヤバっ……」

思わず両手で口を押さえた陽向の頭の中に突然、裁の声が響く。

(常に声を出す必要は無い。話し掛ける時と同じ要領で、私へ向けて呼び掛けてみろ)
(え。……あ、ああ、なるほど、これでも会話は出来るんだな。って……これだと、俺の考えてることが全部筒抜けになったりしない?)
(しない。呼び掛けの形になっておらぬ思念まで読み取るという機能は、私には無い。あったとしても、そこまでお前に興味は無い)
(はいはいそうですかー……まぁ、これで、お前は誰からも気付かれずに……)
(いや、私を認識する可能性のある者は、存在する)
(そ、それマズいだろ! どんな奴に!?)

声に出さなければ良い、というものではなく、誰かが傍に居るかのような目線の動きや表情の変化をする陽向は現在、不審者以外の何者でもない。
気味悪さに耐えかねて、そっと隣の車両へ移っていく乗客も居た。

(大まかに分けると……第一に、何らかの神を切り取った人間。第二に、誰かが切り取った神の、謂わば信徒となった人間。第三に、神自身。そういう者達には、私が視える筈だ)
(何でそういうことが起こるんだよ)
(神々は、協調し、或いは敵対する。神とその民は、他の神々との関わり方を決断せねばならぬ。そのために、どのような形の神であれ、他の神とその民に認識される)
(そ、そう……って、そんなにざくざくカミサマが来てるわけ? 何だってまた、いきなりそんなこと……に)

視線を落とした陽向は、今まで気付かなかった物に気付く。
瀟洒な意匠だがかなり大振りの剣の鞘が、裁の腰から提げられている。

(お前、そんなの持ってたっけ?)
(初めから持っていたが)
(そんな……筈は……)

陽向の部屋に現れた時、確実に、裁は剣など提げてはいなかった。
いつから持っていたのか、と陽向が曖昧な記憶を遡ろうとしているうちに、電車は目的の駅に滑り込んだ。


「……誰、とは?」

想定外の状況に、無何有が反応出来ずにいる。

「理央じゃねぇ。じゃあ誰なんだ、って訊いてんだよ」
「……何故、そう断言するのですか」
「煙草の匂い」

今や佳月の眼にも分かるほど、唯一は静かに殺気立っていた。

「佳月から血の臭いがする。けど、佳月はいつもの佳月だ、何か別のもんって感じじゃねぇ。要するに、朝から今までの間に、俺がいきなりカプグラ妄想になっちまったとかじゃねぇわけだ。てめぇは違う。朝から今までの間に、突然禁煙したのか?」

無何有は、理央の記憶を走査してみる。

(煙草……摂取していなかった時期……妊娠中、及び授乳期間中……のみ)

更に遡った記憶には。
別の時間、別の場所、別の表情、別の口調で、唯一の全く同じ言葉が存在した。

――煙草の匂い。

(嗅覚が突出しているのか? 確かに、肉体は全てを復元したが、外的要素を付加していなかった)

体内の残留物質から、化学構造を解析する。

(これが、その物質……成分。摂取量。燃焼速度。時間帯。場所。燃焼後の物質の移動方向……)

それらの情報を空気中で三次元的に組み立て始めると同時に、唯一がぎくりと硬直する。
佳月には何の変化も感じ取れなかったが、唯一は敏感に嗅ぎ取っていた。

「……それだ、その匂い……てめぇ、誰……いや、何だ!?」
「匂いだけを根拠に攻撃してきたのですか」
「攻撃、ね。理央なら知ってる、俺が家族を殴るわけねぇだろ」

無何有は記憶を巻き戻し、先ほどまで立っていた地点を計測する。
突き出された時のまま宙に静止している拳は、無何有が回避しなかったと仮定した場合、鼻先2pほどの場所にあった。

「何で、よけた?」
「自然な反射行動です」
「違う」

拳を下ろし、唯一が胸元で握り直す。

「本気で振り切ったら見えねぇだろうから速度落としたんだが、理央なら……もし見えてたら、反応出来ねぇ。俺が直接見ただけでも三回だ、危ねぇ目に遭わされそうな時の理央は、自然な反射行動として……動けなくなる。それからな、理央が差し出すのは、いつも必ず……右手だ。強い癖なんだろうと思うが、左手のほうが相手に近かろうが、右手を出す。右手に何か持ってたら左手に持ち替えてでも、な。左手で何かを受け取ろうとしたなんてのは一度も見たことねぇ」

直立したまま、無何有は視線だけで左肘を探った。

(……幼少期の負傷に伴う長期間の固定。機能が回復した後も、無意識の行動の際、右腕よりも先に動かされることはない……か。それらを司る脳をも復元したにもかかわらず、天原理央の自我が脳を支配していないというだけで、これほど大きく行動が変化するのか)

「それだけですか」
「……あと一つ、言わなきゃ駄目なのか?」

ぎり、と唯一は奥歯を噛む。
幼い息子の手前圧し殺していた激昂の、爆発が近付いていた。

「てめぇが誰か、いや化け物的な何かか、んなこたぁ知ったこっちゃねぇが、理央のフリしてぇんなら……その眼、どうにかしろ。虫唾が走る。確かに、理央は表情らしい表情が顔に出ねぇよ。はたから見りゃ、何考えてんのか分かんねぇかもな。けど、感情はあるんだよ」

意味が汲み取れない無何有は、再度、記憶を走査してみる。
古い記憶の割に鮮明な、該当する言葉が存在した。

――お前、眼ぇ、スゲぇ表情豊かだしな。

「なぁ。俺は、くたばった奴をたくさん見てきた。死に方はそりゃ様々だが、最期は同じ……その眼だ。俺の理央は、そんな死人の眼はしてねぇんだよ!!」


部屋の片隅の棚のそのまた片隅に、忘れ去られていたらしきチェス盤。
老人はそれを気紛れに手に取り、埃をざっと払ってから、にこやかに青年へ差し出してみせる。

「暇潰しに。一局、どうかね?」

視点が一点から動くこと無く座っていた青年は、初めて顔を上げ、気怠げに老人とチェス盤を見やった。
やがて、ぎしり、と椅子を回転させて老人のほうを向く、がいつまでも席を立たない。
つまり、チェスくらいならばする気はあるが老人のところまでの数歩を移動する気は無い、ということだった。
老人は仕方なく、事務用の重いローテーブルを、息を切らしながら青年の前に運ばなければならなかった。


“死”という言葉に、佳月は劇的に反応した。
かたかたと小刻みに震えながら、無何有のほうへふらりと一歩後ずさる。
佳月の怯えを察した唯一が、緊張は張り詰めたままだが穏やかさを取り戻した声で、落ち着かせるように呼び掛けた。

「佳月……何が何だか分かんねぇが、とにかくそれは理央じゃねぇ。理央はどうしたのか、ちょっとこいつに訊く必要がある。さ、大丈夫だから、こっちへ……」
「だ、だめ、だめだよ……おとうさん、コレ……わるいモノじゃない、の……」
「……は?」

佳月に差し伸べた左手がぴくりと止まる。

「こ……この、なかに、は……ぼくのきょうだいが、はいってるの!」
「……はぁ!?」


陽はとっくに落ちている。
堤防越しの家々の灯りだけが頼りの薄暗い河原を、裁を伴った陽向が小走りで往く。

「この辺で間違いないのか?」
「間違いない。が、完全に気配を見失った」
「駄目じゃん……なぁ、もう帰ろうよ」

肩を落としてペースを落とした陽向へ、不意に厳しく張り詰めた裁の声が飛んだ。

「今、何を踏んだ?」
「ん? あ、コレ?」

陽向が気付かずに踏み潰して通り過ぎていたのは、枯れ草の間に落ちていた、ボックスタイプの煙草の空き箱だった。
裁は屈み込み、華奢な色白の手を空き箱へ伸ばす。
その指先が触れると、指先と空き箱が微かに揺らいだ、ように陽向には見えた。

「間違いない。母は、ここへ降りた。……どこへ行った? この地点から、何故か母の気配が極めて微弱になっている」
「無理して追うことないだろ。お前に襲い掛かってきたわけでもないんだし」
「早くも、一柱が母に分解回収された」
「……へ?」

“はしら”が神などの数助詞であることなど陽向は知らない上、知っていたとしても会話中に文脈を無視して突然出てくれば誰でも即座には理解しづらい。
裁の頭の中では話が一繋がりになっているのだろうが、起と結だけを語るので、長年の友ならばともかく初対面から2時間ほどの陽向にとっては説明不足も甚だしかった。
しかも、訊き返すと、裁が苛立ちや憐みの眼を向けてくるのが腹立たしい。

「その一柱は、本来、私が滅するべき者だった。私が切り取られた時、最初に認識してはいたが、それよりも優先して倒すべき母の気配を感じたため、対処を後回しにした。まさか、母に先んじて分解されるとは」
「よ、よく分かんないけど、お前の敵を消してくれたんなら、いい奴なんじゃ……」
「本気で馬鹿なのか。敵の敵が味方とは限らぬのだぞ。ここで分解された一柱は、性質上、私でなくば滅せぬ者だった。正直、お前に切り取られたような脆弱な私では、互角に渡り合えれば良いほうだった。それが……いとも容易く分解され、回収された……」

悔しげな裁に何を共感すれば良いか分からないので、とりあえず理解出来なかった箇所を質問してみる。

「えっとー……そいつは、何でお前が斃さなきゃいけなかったの? 何で母とかいう奴に分解されたの?」
「在るべき姿ではなかったからだ」
「どんなふうなら在るべき姿なのか分かんないけど、じゃあ、お前は?」
「自分では認識出来ぬが、恐らく、在るべき姿から大筋では外れてはおらぬ」
「なら、分解されないんじゃない?」
「違う。分解された一柱は、在るべき姿ではないから、世界の均衡を著しく欠くから、“早急に”回収されただけであろう。在るべき姿の場合、寿命が尽きたら回収される」
「何だ、寿命まで生きられるんなら別にいいだろ。っていうか、お前ら寿命なんてあるんだ」
「無い」
「あぁぁもぉぉどういうこと!? お前、どの話も矛盾し過ぎでわけ分かんないよ!?」

煙草の空き箱から離れて立ち上がった裁の視線がふと、草叢に打ち捨てられてだいぶ日にちの経っているらしき週刊漫画雑誌の上に留まった。

「お前は、永遠に続く神話、というものを見たことがあるか?」
「え? ……ああ、そりゃあるよ、大昔から今まで残ってる神話なんて世界中にいくらでも、」
「それは違う、完結した神話が後世へ語り継がれているだけだ。そうではなく。半永久的に、新たな行動を、神々が続けている神話を見たことがあるか」

裁が見ているものに気付き、陽向は漸く、腑に落ちる。

「あ。つまり、最初に神話を書いた人が死んじゃっても、別の誰かが続編を書き続けてる、みたいな?」
「非常に通俗的な譬えだが、そうだ」
「そういう意味なら、神話を題材にしたフィクションとか、いっぱいあるよ」
「それも違う、確かに不特定多数が目にするであろうが、一過性の大衆娯楽だ。特定の民族や文化圏の共通認識にまで至りはせぬ」

裁の眼に、僅かに悲哀が灯った。

「寿命など無い神は、本来ならば永遠に行動し続ける筈だ。しかし、神を誰も行動させなくなった時点で、その神は死ぬ。または、神を殺すことを誰かが決定し、記述し、それが歴史的に定着した場合も、その神は死ぬ。死ぬ、というよりは、今なお生き続けていながら死んでいる。神々の寿命とは、人間の記述のことなのだ」
「わ、分かった……ような分かんないような。だってお前、神話の登場人物じゃなくて、勝手に動き回って喋りまくってるだろ?」
「だからこそ、急いでいる」

この言葉から滲む焦燥は、初めて陽向に向けられたものではなかった。
切迫感に、陽向は思わず押し黙る。

「書物ならば、記述した者が死して何年経とうとも、誰もが記述通りに読むことが出来る。口伝ならば、変質はするが原典から大筋では外れぬ。だが、言動が可能な容を持ってしまった私は、お前が記述した存在に過ぎぬ。今お前が不慮の事故などで急死でもすれば私は誰にも認識されなくなる、つまり役割を果たせぬまま存在だけしている存在となるため、分解回収の対象になってしまう。お前が今すぐ信徒を得られるならば別だが、残念ながら今のお前にそのような度量があるとは思えぬ」

遠くを見やり一歩進んだ、ということは陽向にもその方角へ進め、と暗に言っているも同じだった。

「自我を得た時点で、私にも存続したい欲求、人間の言う生存本能が生じている。お前が信徒を得るよりも確実に、私が当座生き永らえる方法は、切り取られてきた母を斃すことなのだ。……ああ、途切れ途切れだが、母の気配は続いているな。時間は掛かるが、一つ一つ辿ってゆこう」
「……あー……うん。分かった……お前がすっごく必死だっていうのはよく分かったから一応付き合うけど……その必死な理由がさ、俺が今すぐ死んじゃったとしてもお前が生き残るため、っていうのが、何だかなー……」


無何有にすら想定外だった。
状況把握が追いつかず、足に佳月に抱きつかれたまま、人形のように立ち竦んでいる。

思考が再起動し、無何有は空ろな眼で唯一を見る。
無何有の輪郭が不意に揺らいだ。

肝の据わった唯一といえど、怪異に遭遇した経験など無い。
さすがに一瞬、怒りよりも驚きと呆れが優ってしまった。

「……え。何。待って。てめぇマジで化け物的な何かなの!? ちょっ……何する気だ!?」
「言語による説明は、二度の翻訳を経るため、正確さを欠きます。現在の精神状態にあって、口頭での説明は完全な伝達を為さない、と判断しました」

輪郭の一部から立ち昇る、触手のような黒い靄。
それはところどころに、音があったとすればぱちぱちと鳴りそうな黒い電光を纏っている。

「情報を共有します」
「待て待てぇっ! 共有って……そ、ソレ、俺の頭に突っ込もうとか思ってるか!?」
「はい」

先ほどの唯一の拳と同じほどに速く、しかし拳とは違って空気を切る音も無く、数本の靄が針状に伸びて真っ直ぐ唯一へ向かった。

「っざけんなぁ! どう見てもヤベぇだろそれ! んなもんに入り込まれてたまるかよ!!」

再び頭に血が上ったように見えるが、両手の裏拳はそれとは無関係に、冷静かつ的確に全ての靄を払い除ける。
殴打で払い除けるのとは違い、唯一の手首が触れた途端、靄は文字通り霧散した。

(打ち消された? 拒絶の意思だけで? あり得ない。名と有機体に封じられたとはいえ、この力を?)
(そうか。これは……天敵。これがその実物か。しかし、納得させねば進展は無い)
(……ここからならば、あそこへ行ける)

しゅるり、と全ての靄が無何有へ収斂した。
目先の脅威が去ったからといって唯一は油断してはいなかった、ただ別の脅威が来ることに備えて意識を切り替えようとしただけだった。

唯一の腰、ベルトループにつけているホルダーの中の、スマートフォン。
前触れもなく、そこから黒い靄が巻き起こる。

無何有が自身の一部を送り込んだのは、理央がワイドパンツのポケットに入れていた、スマートフォン。
唯一の内部へ、靄が侵入した。


「神話も伝説も数多あれど、その神々に用は無い。今なお生き続けていながら、歴史の上に虫ピンで留められてしまっている神々には、ねぇ」

オープニング、老人の白はウィーン布局へ。

「我々が欲しいのは、もっと自由な神。親たる人間を踏み越え、人間の親たるべく、自由意思と自由行動を持つ神」

猫背気味の姿勢を崩さず、無言無表情の青年は右腕だけ伸ばして黒を進める。

「故に、この土地でなければならなかった」

基本的なオープンゲーム、しかも定跡通りの序盤で、老人は既に熟考に入る。

「おやおや、そう来るのかね。……で、だ。神の支配下にない国、というものが先ず少ない。現在進行形の信仰対象以外にも、伝承に過ぎぬ神々ですら、我々の作業の妨げになる」

白、キングズ・ギャンビットへ方針転換。

「で、あるからして。一つの大きな信仰に束縛されていない民族。一定水準の文明があり、経済的教育的格差が少ない国。その中でも、充分なサンプルが採れる人口と、出来るだけ“白い”土地。……と消去法で選んだ割には、鞜賀見市というファームは感動的な豊饒の大地だった、ねぇ」


頭痛、と言うには足りない、ずたずたに引き裂くような感覚が頭蓋の内側を暴走する。
無何有には攻撃の意思など無い。
それでも、通常の思考とは掛け離れたレベルの伝達発火が瞬時に大量に生じた脳神経系では、気絶寸前の激痛が噴出していた。

「がぁっ……」

膨大な情報の渦。
無何有が地上に降り立つ直前の俯瞰図から、理央の内部を経て変換されて再び大気中へ出た360度の視界へ。
理央の身体を受け取った後は、理央の視界で。
それら全てが、音を、風を、匂いを、理央や無何有の思考をも伴って、唯一の中で濁流のように再生されている。

絶叫するや頭を抱えて玄関先に膝をついた唯一を、佳月は茫然と見つめていた。
思わず、無何有の足に取り縋って激しく揺さぶる。

「む、むかうさん……むかうさん! お、おおおとうさんに、なにしたの!?」
「出来事を見せただけです。しかし、人間の脳で瞬時に処理するには、情報量が多過ぎました」
「だ……だいじょうぶ、なの!? おとうさん、こわれないの!?」
「はい。順応を検知しました。すぐに収まります」

いつの間にか叫びは止まっている。
佳月が恐る恐る振り返ると、頭は未だ押さえたままだが激痛以上の衝撃で空白の表情になっている唯一が、膝をついたままそこに居た。

「……理央。……理央、が……理央が。理央が?」
「おと、う、さ……」

見た。見てしまった。理央自身が隠し通しておきたかった死を、伝聞ですらなく、直接、唯一の眼で。
自分の衝撃を思い出し、佳月が発作的に泣き出す。

「おとう、さん……ごめ……なさ、い……ごめん、な……さい……ご、めんなさい!!」

その後は言葉にならない。
唯一の前に蹲って叫ぶように号泣し続ける佳月に、唯一は緩やかに両手を下ろしてから、放心の表情のまま訊いた。

「……何で、謝る?」
「だっ、だって……ぼくが! ぼくの、せい……ぼ、ぼくがっ……かわに、いったからっ……」

佳月の嗚咽だけが響くやや長い沈黙の後、唯一が、未だ上の空のままだが静かにはっきりと答える。

「お前は何も悪いことしてねぇだろ。お前を庇ったわけじゃねぇ……って、理央も言ったんだろ……?」
「ちがう……ちがうよ! それ、うそだもん! おかあさん、うそつくの、へただもん! ぼく、いなかったら、おかあさん、しななかった……ぼく、いたのに、まもってあげられなかった!」
「……そっか。お前には……まだ、早かったな。重かったな……」

ゆらり、と前のめりに揺れるようにして、唯一は佳月を抱きしめた。

「ごめん。ごめんな。俺があんなこと言ったせいだな……お前はまだ、守られるほうで……だから、理央も……お前のために、そいつを寄越したんだろ……? 怖かったよな。つらかったよな。お前が無事に帰ってきてくれて……良かった……」

しゃくり上げる佳月を落ち着かせようとするように更に強く抱きしめていた唯一は、廊下の向こうの匂いを感じたらしく、ふと力を緩めた。

「……飯の支度……したのか」
「はい。来た時には既に、仕上げのみの段階になっていました」
「……そっか。佳月に……飯、食わせてやってくれ」
「む……むりだよ、ぼく……ごはん、たべられない……」
「駄目だ。それは……駄目だ」

佳月の両肩に両手を置き、ぐっと力を籠めて佳月の眼を見つめる。

「どんなに悲しくても……生きなきゃなんねぇんだよ。特に、お前は……今、身体のほうまで弱らせちゃ駄目だ。理央が……用意していってくれたんだろ?」
「……うん。うん、わかった……おとうさん、は……?」
「え? ……いや、俺は、」

一瞬躊躇ったが、先ほど視せられた情報が含んでいた理央の思考を思い出し、唯一は眼を伏せて呟いた。

「……そうだな。いつも通り、俺も食うよ。いつも通りに……」


犬の遠吠えしか聞こえない、閑静な住宅地。

(……どう見ても一般家庭なんだが……、)

未だ早い夜の底、赤い屋根の家を見渡せる電柱の陰に佇んでいるのは、若いが年齢不詳の男だった。
中肉中背、華奢ではないまでもがっしりとしてはいない。
服装は普通、というか普通よりも無頓着そうな特徴の無いスーツと靴に、さすがに冷え込むのでマフラーと手袋をしている程度。
やや長めの髪もまた、ファッションやポリシーというよりはカットしに行っていないだけ、といった無造作無頓着な印象だった。

しかし、細いシルバーフレームの眼鏡をかけたその面立ちは。
理と知の優った、穏やかだが強く他人の印象に焼きつくものだった。

(本当に、ここに、君の母、というのが居るのか?)
(居ル)

彼の思考は、独白ではなかった。
宙空から、無機的で無感情な、それでいて妙に幼い声が答える。

(その母とやらは今、何をしてる?)
(解析完了。ゴハン)

よく知っている日常的な単語が、想定外の場面で事務的に告げられ、彼は一瞬思考が止まった。

(……ごめん、何だって?)
(ゴハン。時間帯ヲ考慮スルニ、夕食、夕飯、夕餉、晩餐、晩飯、晩ゴハン、ト言ウベキダッタ?)
(いや表現の問題じゃないよ! 君達には食事が必要無いって話じゃなかったか?)
(不要。デモ、母、外側ニ、人間、着用シテル。外側ヲ維持スルタメニ、水分ト栄養素ノ摂取、必要)
(な、なるほど……って、人間を着用? 母というのは君と同じ姿じゃないのか? あ、それと、ここには他に誰か居るか?)

素人目にも明らかに改造しているスポーツタイプでありながら後部座席にチャイルドシートが設置されている車、400tのバイク、古びた三輪車、真新しい子供用自転車や所謂ママチャリ、等が置かれている駐車スペースを見た彼は、嫌な予感がして訊く。

(母、現在、人間ノ成体ノ女性体ノ形、シテル。他ニハ、人間、二ツ。男性体、及ビ、幼体、一ツズツ、居ル)
(……えっと。視覚を共有してくれ)
(ウン)

彼に、何かがじわりと浸透した。
たちまち、ダイニングと思しき室内が、実際に彼の眼が映している瞼の裏とは無関係に脳内に映し出される。
彼は途方に暮れた。

(いつもより視界が悪いな。どうしたんだ?)
(コノ中、視エニクイ。音、聞コエナイ。コノ建造物、邪魔)
(君でも建物の中がスキャンしづらいことがあるのか。いや、そんなことより……これ、ただの家族団欒の光景じゃないか。困ったな。こんなところに押し入ったら犯罪だ。さて、どうするか……)

彼の困惑をよそに、声は淡々と事実のみを報告し続ける。

(別ノふらぐめんと、来ル)
(何? どのフラグメントが?)
(弱イ、ふらぐめんと)

一瞬考えを巡らせ、彼は納得して頷いた。

(ああ、アレのことか。僕には関わってきそうもないから後回しにしてたが、やっぱり……目指すものは同じなのか。母の……、)

曲がり角から現れて駈けてくる、中学生か高校生くらいの少年、とその斜め後ろを浮遊している銀髪の女。

(破壊)


犬の遠吠えしか聞こえない、閑静な住宅地。

「……どう見ても一般家庭なんだけど……、」

裁が拾い集めた気配を辿って辿り着いた陽向は、生け垣越しに赤い屋根の家を見上げながら困惑気味に裁へ問い掛けた。
思念での会話方式に疲れたのか、周囲にひとけが無いことに油断して、小声ではあるが声を出している。

「ほんとに、ここに、お前の母、ってのが居るの?」
「居る」


(驚いた。ヒトの形をしてる)

彼の小さな感嘆を質問と解釈したのか、宙空の声が答える。

(人型ノふらぐめんとノホウガ、多イ)
(そうなのか? それなら、どうして君は形が無いんだ?)
(切リ取ラレタ次元、違ウ)

声の説明を聞きながら、彼は“フラグメント”と表現された裁のほうを見た。

(アレ、一ツ下ノ次元カラ、切リ取ラレタ。ヒトノホウヲ向イテル、ふらぐめんと)
(ヒトのほうを向く?)
(ヒトニノミ関係スル、ふらぐめんと。感情、関係、成功、道具、人工ノ場、誕生ヤ成長ヤ健康ヤ死、等、司ル)

彼が瀬度鉄成や常陸陽向と同じく“神を切り取った者”であるならば、

(切リ取ッタふぁうんだーノ脳内デ翻訳サレタ時、生物ノ姿、主ニ人型ヲ成ス。何故ナラ、人間、人型ノホウガ、意思疎通ヤ感情移入、シヤスイ)
(ああ、なるほど理解した。ということは、君は?)
(ヒトノホウヲ向イテナイ、ふらぐめんと。事象、司ル、マタハ事象ソノモノ。デモ、人間、事象ニモ、恩恵ヤ厄災、見出スコト、アル)
(事象ねぇ。うーん。例えば、山の神、火の神、みたいなのは恩恵と厄災の両面を持ってるよな?)
(ソウ。ソレ、代表格。人間ヲ守ラナケレバナラナイ、マタハ守リタイ、トハ考エナイ。人間ヲ害シナケレバナラナイ、マタハ害シタイ、トハ考エナイ)

彼の理解力とこの声の主の性能は、彼らとその神を遥かに上回っていた。

(デモ、人間、事象ノ活動デ、恩恵マタハ厄災アルト、事象自体、祀リ始メル。デモ、人間、事象ト意思疎通、出来ナイ。ダカラ、命名シ、人型ノ姿、上書キスル。ソレニヨリ、事象モふらぐめんとトシテ定義サレ、存在ガ確定シ、存在ガ限定サレル。具体例、前者、所謂“和魂”、“御利益ノアル神様”。後者、“荒魂”、“禍津神”、“崇リ神”)
(分かる気がするよ。人間は何でもかんでも人間に都合良く解釈することで繁栄してきたからね。ということは、同一の事象であっても、ファウンダーが違えば全く別のフラグメントが切り取られる可能性もあるわけだ。恩恵だけ、厄災だけ、両面保持したまま……待て、それなら、どうして君は僕の願いを具体的に叶えようとしてくれてるんだ? 人型じゃないってことは、君は限りなく事象そのものに近いんだろ?)
(しんじガ切リ取ッタノガ、利便性、及ビ汎用性、特化シタ部分ダッタカラ)
(そうなのか? どうしてそんなことに……いや、その話は保留しよう、彼らが動く。って……彼ら、何をしようとしてるんだ? 不審者にしか見えないぞ、大丈夫なのか?)


「行くぞ」

常に少し浮遊してはいるが高くは飛べないのか、裁はインターホンを無視して門扉を乗り越えようとした。
陽向は、慌てて裁の衣服の裾を掴んで引き留める。
最初の印象通りそれは布ではなく革の感触だったが、そんなことよりも陽向はこの人外に“触れることが出来る”と初めて知って驚いた。
そして、更にそんなことよりも切羽詰まった懸念に、小声に抑えるのも忘れて問い詰める。

「ま、待ってよ何する気!?」
「決まっているだろう。母を斃す」

ここまで来て何を言っているのか、という憤りも露わに、肩越しに顔だけ振り返った裁は言い切った。
しかし、何を言っているのか、という憤りは、理由は違えど陽向も同じだった。

「駄目に決まってるだろ!」
「人間のようなことを言うな、と言った筈だ」
「そうじゃなくて! 今、鞜賀見市は事件でぴりぴりしてるんだよ。斃すってつまり、押し入るつもりなんだよな? こんなとこ誰かに見られたら俺、速攻で通報されちゃうよ!?」

そして、通報されるまでもなかった。

「ちょっと、君」
「え……っ」
「ニュースを知らないわけじゃないだろう? 早く帰りなさい」
「え、えっと、あの、……」

何しろ陽向は、裁を引き留める手ごと門扉の上に身を乗り出していた。
口籠る陽向に、自転車で巡回中だった警察官は不審の眼を向ける。

「……君、何をしてたのかね。家はどこ?」


(ほら、やっぱり補導された)

彼のすぐ目の前を、陽向を引き摺るように連行していく警察官が通り過ぎる。
陽向も、警察官も、そして少し後ろを浮遊する裁も、電柱脇に佇む彼には一瞥もくれない。

そもそもの初めから、彼の全身を覆うように、半透明、直方体、深緑の膜がうっすらと揺らいでいた。
その膜を右手の甲で軽く叩くような仕草をしながら、彼が宙空に問う。

(お巡りさんのほうはともかく、この“箱”、他のフラグメントやファウンダーにとっては、内部に干渉出来ないだけで内部を視ることは出来てしまう、って言ってたよな? その割には彼ら、僕達に全く気付いてなかったじゃないか)
(すきゃん完了。思考的視野狭窄ノ傾向、検知。アレ、ドチラモ、認識力、弱イ。標準的ナふらぐめんとヤふぁうんだーカラハ、多分、コノ箱ノ中、丸見エ)
(呆れたな、そこまで弱いのか。一体、何のフラグメントだったんだ)

視覚を共有したままの彼の眼に、実際に見ている門扉と、門扉のところどころに纏わりついて揺れ始めた緑色の帯が、重なって視えた。
門扉に触れた彼らの痕跡、人間でいえば指紋や皮脂といった遺留物を解析しているらしい。

(解析完了。義。正ナル義、司ル、ふらぐめんと。断罪ニ特化)
(……つまり、正義と裁き? 随分と限定的な性質だな)
(定義ヲ限定サレタふらぐめんと、ふぁうんだートびりーばーニトッテハ、具体性ト利便性、向上スル。ふらぐめんとノ中デハ、弱者トナル)
(なるほど。願いをピンポイントで叶えてくれる、っていうのは、それしか取り柄が無い、ってことなんだな)

2秒考え込んだ彼は、決定を宙空へ伝えた。

(先を越されるのは別に構わない。敵は誰が消してくれてもいい、手間が省ける、が……那由多なゆた。彼らを追跡出来るか?)
(しんじ連レテ追ウコト、出来ナイ。なゆたダケナラ、なゆたノ一部、千切ッテ、追エル)
(それじゃ、頼む。ああそうだ、僕が駅に着くまで、箱はこのままにしていってくれ。出来れば家に帰るまで箱の中に居たいけど、無賃乗車はしたくない)
(行ッテキマス)

箱の外の空間が一瞬揺らぎ、薄い靄のようなものが湧き起こって、陽向達が去った方角へ飛んでいく。
ふぅ、と小さく息を吐くと、彼は駅へ向かって歩き出した。

(それにしても、正義、ね。それが本当なら僕にとっても悪い存在じゃないし、綺麗なフラグメントなんだが、どうしてあんなに……生理的に受け付けない印象だったんだろうな)


佳月を自室に連れていったが、ベッドに潜り込んで頭から布団を被った佳月が「おやすみなさい」と言ったきり喋らないので、無何有はリビングへ戻ってきた。

「……これで良かったのか」
「はい」

リビングと間続きのダイニングでは、食後からずっと、唯一が席を立たずに同じ姿勢で留まっている。

「俺らのほうは……良くねぇよ」

ダイニングテーブルに両肘をついて指を組んだ両手に額を押し当てたまま、無何有を見ようとはしない。
もともと低めの声が更に圧し殺され、憤りがひっそりと燻っていた。

「何があったのかは……さっきので分かった。何でああなったのかは……訊きてぇことが山ほどある。けど、今日は……俺は……そろそろ駄目だ。……一つだけ、教えろ」

理央の死の直後、無何有が最も新しい傷と衣服の裂け目を塞ぎ、大量の血痕をも消し去った場面が、唯一の脳裏をよぎる。

「あんなこと出来るてめぇが……何で、理央を救えなかった?」
「無何有が、無機物を司るからです」

理央の声で語られる理央ではない言葉ほど、唯一にとって耳障りな音は無いであろう。
それでも、見たくない現実を厳しく把握すべく、聞きたくない声に耳を傾ける。

「この肉体を再起動させることが出来たのは、この肉体が生命活動を停止していたからです。無何有は、0から1へ、1から0へ、の変換は可能ですが、1から1への変換、即ち、治癒などが不可能です。新しい1が必ずしも古い1と同一であるとは限らないからです。在り方が常に変化している有機体は、無何有が統べることは不可能です」
「……納得出来そうで出来ねぇ。0から1が可能、ってのは、蘇生や誕生と同じじゃねぇのか」
「再起動は、人間の概念での“蘇生”とは異なります。肉体が再び活動可能になるだけです。記憶は全て残っていますが、自我は消失しています。有機物でも無機物でもない自我は、無何有には復元出来ません。自我の創造を伴う誕生もまた、無何有には不可能です」

希望は潰えた。
深い、深い溜め息をつき、独り言を洩らす。

「『きょうだい』……か。混乱してて咄嗟にとはいえ、上手ぇこと言ったもんだな。確かに、てめぇは理央が生み出した。佳月から見りゃ妹か弟なのかもしんねぇ。けど……」

少しだけ顔を上げた唯一は、自分の左手薬指が視界に入り、一段と険しい眼になった。

「コレ、」

肘をついたまま、圧し殺した声のまま、無何有を見ないまま、左手の甲を無何有に見せるように向ける。

「外せ。ソレは、てめぇが着けといていいもんじゃねぇ」
「はい」

不満や疑問を口にするでもなく、無何有は機械的に指示に従った。
視線は唯一に据えたまま自分の左手薬指の結婚指輪を外し、先ほどの左手を開いて待っている唯一に手渡そうとする。
その際、無何有の指先が、唯一の掌に触れた。

「触るな」

肘をついたまま、圧し殺した声のまま、無何有を見ないまま、唯一は今日で最も深い怒りを垣間見せた。

「理央じゃねぇ奴が、理央の身体で俺に触るな。……そこに入りたくて入ったわけじゃねぇんだろうに、申し訳無ぇけどな」
「いいえ。無何有には、自我が存在しません。従って、感情が存在しません。感情的な言動というものは未だ理解の外にあるため、謝罪等には反応出来ません」
「……そう言ってくれるとちょっと気が楽になる。自我が無ぇって言う割に、ちゃんとモノ考えながら喋ってんのが気になるけどよ」
「無何有は、無機の世界そのものです。思考は、全ての無機なる存在、即ち、別の場所が行っています。そこでは、自我と思考は、必ずしも一つの体系に組み込まれてはいません。この肉体を経た際に、人間が理解し得る伝達方法に翻訳されているだけです」
「……そっか。やっぱ、どう好意的に考えようとしても……てめぇの存在を受け容れるこたぁ出来ねぇな」

感情的な言動が理解出来ない、と言うだけあって、無何有は最後に質問する。

「無何有だけで良いのですか」

指輪のことを訊いている、と唯一は即座に理解した。
理央の指輪をそっと握りながら、左手をテーブルの上に戻して自分の指輪を見つめる。

「ん? ……ああ、俺か? ……外すわけねぇだろ。俺は、一生……理央のもんだから。あ、それと……明日から、弁当……要らねぇ」
「はい」

ドアが閉まり、理央と同じ足音が遠ざかっていく。
掌を開いた唯一は、暫くの間、理央の指輪を見つめていた。

(……動けたな。自分の時は動けなかったのに。最後の最後に……動けた、な)

視せられた映像の断片、過去の断片、入り混じって脳裏に舞い散る。

――私……誰かを助けられる……ほど、強くなれなかった……から、

(強ぇよ。もともと強ぇんだよ。って、前にも言っただろ。守ってくれたんだな。俺らの……佳月を)

限界が来た。

(ほっせぇ指……だな……)


(しゅくだい……おわってなかった)

寝つけないまま涙が涸れかけてきた頃、布団の中で丸まっていた佳月は思い出した。

(……やれない。そんなのやるきもちにならない)
(……だめ。いつも、おかあさんも、おとうさんも、“ぎむ”っていうの、ちゃんとやらなきゃいけない、っていってる)
(やらなきゃ……)

義務感だけでよろよろとベッドを這い出て、上の空で算数ドリルを開く。
普通に解けなかった問題が、今の精神状態で解ける筈もなかった。

(……どうしよう。わかんない)
(むかうさんなら……おしえてくれるかな。おかあさんとおんなじように)
(……だめ。おんなじかもしれないけど……おんなじじゃないもん)

ドリルを両手で持つと、胸に抱き抱えるようにして自室のドアのほうを見やる。
今日の佳月を支えてくれた唯一のことは、いつもと変わらず頼もしく思えたが、同時に疑問もあった。

(おとうさんなら……おしえてくれるかな)
(おとうさん……へいきなの? おかあさん、しんじゃったところ、みたんでしょ……なのに、へいきなの?)
(むかうさんがきたから、へいきなの? でも……むかうさん、おかあさんじゃないよ)

――心が強いから強くなれたんでしょうね。

(おとうさんは……つよいね。ぼく、むりだよ……そんなにきゅうに、つよくなれな、い)

音を立てないようにドアを開け、音を立てないように裸足で廊下を歩き。
ダイニングへのドアの前まで来て、両手でドリルを抱えたまま、佳月は息を呑んで立ち竦んだ。

そのドアは、格子状の上半分に透明ガラスが嵌っている。
そこから見える唯一は、佳月がダイニングを出る時に見た位置から動いていなかった。

歯を食い縛り、瞼を固く閉じ。
肘をついて組んだ両手に額を押し当て、微かに震え続け。
号泣でも嗚咽でもなく、恐らくは佳月の耳に届かないように声を殺しながら。

 リビングで、キッチンで、庭で、街で道で公園で雑木林で、知らないこと初めて見るもの何でも教えてくれる父。
 せがめばいつでも肩車をして、高く遠い未知の視界を見せてくれる父。
 一緒に下らない遊びをしては、一緒に母に呆れられる父。
 反面、ルールとマナーとエチケットに厳しく、理解するまで実践してみせながら根気強く説明する父。
 仕事帰りに美味しいものを手に入れてきては、必ず三等分にする父。
 そうしなければ、ではなく、そうしたいから、そのように接してくれる父。

それら全ての場面が、佳月の小さな頭の中で激しく切り替わりながら現れては流れていく。
それら全ての場面に、唯一の涙、というものが見当たらない。

作文に書いたばかりだった。

――『おとうさんは、なんでもしっていてやさしくておもしろくてかっこいいです。おかあさんのことが、』

(へいきな)(へいきなわけない)

――『だいすきです。』

爪先で駈けるように自室へ戻り、ドアは閉めず、ドリルをランドセルの傍へ投げ出す。
飛び込むようにベッドの中へ戻り、布団の中で丸まって号泣する。

(あんなに)(あんなにだいすきだったのに)(なかよしだったのに)
(ぼくが)(ぼくのせい)(おとうさんから)(おかあさん、とった)
(いない)(おかあさんいない)(たすけて)(だれかたすけて)(おかあさん)(おとうさん)(おかあさん)(おとうさん)

心で叫び続けていても、涙が湧き続けていても。
唯一と同じように、唯一の耳に届かないように、疲れ果てて眠る瞬間まで、佳月は無自覚に声を殺したままだった。


老人は攻撃型の速攻を好むようだが、青年は迎え撃たずに受け流し、盤面はキングズ・ギャンビット・ディクラインドへ変化。

「だが、鞜賀見に住まう人間ならば誰もが神を切り取ってくる、とは限らぬ。少数とはいえクラシカルな神や新興宗教などを信奉する人間も居るし、そうそう、この国では仏の信仰も未だ根強いんだったかな?」

二人のプレイスタイルは対照的だった。
老人が楽しげだが慎重に一手進めると、青年はすぐさま、しかし緩慢に右手を伸ばして一手進める。
老人の次の一手までは、細長い身体を持て余すように背を丸めて両手を膝に置き、微動だにせずぼんやりとチェス盤を眺めている。
その静けさと反応速度と無感情な応戦は、血の通わないチェスAIとの対局とさほど変わらなかった。

「特定の神に祈らぬ者、にもかかわらず己の手に余る願いを祈る者。そういった人間に試薬が充分に浸み込んでいさえすれば、あとは感情の爆発を待つだけだ。スイッチは喜怒哀楽どれでも良いが、マイナスの感情の噴出のほうが作用しやすいようだ、ねぇ」


理央の部屋に籠った無何有は、ドアの前で人形のように立ったまま、自己診断を開始する。

(天原理央の言動を完全に模倣出来ない。予測演算が完璧には機能していない)
(有機体の中に居ることが原因か)
(少なくとも肉体の寿命まではここに留まらねばならない以上、能力が限定的なままであってはならない)
(方法は必ず有る。この肉体であっても、本来の能力を発揮出来る方法を模索せねばならない)

いつも通りに部屋の主が居るにもかかわらず温度を全く感じさせない室内を見回した無何有は、椅子と人形が倒れているドールハウスに眼を留めた。
最も新しい記憶が検索に引っ掛かる。

(天原理央は、コレを元の配置に戻す予定だった。ならば、戻さねばならない)

先ず椅子を元の位置に立て、次に人形を手に取った無何有は、その検索結果に関連する比較的古い記憶を見つけ、

(……しかし。コレは、ここに在ってはならない)

何故そう判断したのか無何有自身にも分からないが、ドールハウスから離れると、デスクの抽斗を開けて人形をしまい込んだ。


警察にて陽向が尋問されていた頃。
尋問の一部始終を、那由多の切れ端がリアルタイム送信してくる。
瞼を閉じてそれを観察しながら、高原真二たかはらしんじは自宅自室のデスクの前に座っていた。
デスクに右肘をつき、蟀谷を押さえ、表情は次第にぴりぴりと険しくなってきている。

(ああっ苛々するっ! あんな不審な行動をするなら、見咎められた場合の言い訳を事前に用意しておくべきじゃないか! いや、前もって考えておかなかったとしてもだ、この子はアドリブが利かないのか!? ほら何でもいいから早く言うんだ、僕なら即座に20通りは思いつくぞ。これに懲りたら、次からはもっと慎重に行動しなさい)

見ず知らずの陽向を心配し過ぎである。
根が過分に善良なのであろう。
最終的に「家出を試みた」という言い訳で片が付いたらしく、警察から家人へ連絡が行った辺りで、真二は疲れ果てて受信を切断した。
気持ちを切り替えて椅子をくるりと半回転させ、部屋中央辺りを眺めながら、もっと重要な疑問を投げ掛けてみる。

(母、というのは当然、君と同じ次元から切り取られてきたんだよな?)
(ソウ。厳密ニハ、ソコカラハ、母シカ切リ取レナイ。なゆた、母カラ切リ取ラレタ)
(何度聞いてもそれがよく分からないんだが。君のほうが先にこちらに来てるだろう? ……まぁ、それも保留するとしよう、)

自室、といっても防音が整っているわけでもない民家なので、階下の母親の耳を気にして、思念での会話方式を続行している。

(母は、いずれ君を分解回収する。そうだったな?)
(ウン)
(それなら、消さなければならない。……いくつか教えてくれ)
(ウン)

陽向と裁もこの段階からスタートするべきであった。

(母は、さっきの人型のフラグメントとは違って、性質的には君と同じと思えばいいんだな? だとすると……不定形のフラグメントが人間に擬態するメリットとデメリットは?)
(厳密ニハ、擬態デハナク、死セル人間、再起動サセテ、ソレヲ着テル。古来ヨリ、偶発的ニ切リ取ラレタふらぐめんとガ、用イテキタ手法。今、便宜的二、“抜ケ殻ノ着用”、ト呼ブ)

陽向も真二も、したことといえば赤い屋根の家の前まで行っただけであり、どちらも傍目には徒労であったように見えるが、

(めりっと。抜ケ殻、トイウ有機体ヲ着用スルト、ふらぐめんとヲ持タナイ人間ニモ認識サレル。及ビ、抜ケ殻、トイウ独立シタ個人ヲ着用スルト、“対ノ原則”ヲ離レテ、単独行動、出来ル)
(ああそうか、フラグメントが視えない人間でも、人間の抜け殻を見ることは可能だな。抜け殻に入っただけで対の原則まで無視出来るっていうのは意外だけど、人間社会ではそれだけ個人の独立性が重視されてるってことなのかもな)
(でめりっと。有機体デ覆ワレルコトニヨリ、本来ノ能力、発揮出来ナイ。無機ノふらぐめんとノ場合、抜ケ殻二入ッテイルダケデ摩耗スル。所謂、“窮屈”、“怠イ”、“疲レル”、“シンドイ”)
(なるほど、絶えず重装の鎧を着ているようなものか。つまり、母は……君以上の力がありながら、そんな苦労をしてまで敢えて人間の振りをする必要があるわけだ)

陽向が本当に徒労だったのに対して、真二は多くの収穫を得ていた。

(一つの仮定をする。あの女性の姿は、誰かの抜け殻じゃなくて、母が作った容れ物、というケースは想定出来るか?)
(試行完了。不可能。母、無カラ有機体、作ルコト、出来ナイ)
(ふむ。じゃあ、別の仮定をする。あの女性がファウンダーだったとして、彼女の中身に母が取って替わる、というのはどういうケースが想定出来る?)
(試行完了。ふぁうんだーノ中身、母ノ贄ニナッタ)
(君達の場合、贄っていうのは、身体ごとばりばり食べるんじゃないんだな)
(ソウ。中身、自我、存在、食ベル)
(つまり、死ぬのと同じだ。ファウンダー不在の状態でフラグメントが好き勝手に動いていない、というのは変じゃないか?)

椅子に深く座り直し、両膝に両肘をついて指を組み、新たな仮定を提示する。

(例えば、ね。今、僕が死んだとする。僕の遺体を、君がさっき言った“再起動”状態にして、君が着用することは可能だな?)
(可能)
(そうなった時、君は誰と行動する?)
(現時点デ、びりーばー、居ナイ。しんじノ自我、消失シタラ、なゆたノ在リ方二従ッテ、なゆたダケデ行動スル)
(人間から見れば、暴走だな)
(ソウ。ダカラ、着用可能ダケド、着用シナイ。なゆた、抜ケ殻ヲ着用スルコト、めりっと、無イ)

一旦呼び掛けを中断し、真二は即座に推論を組み上げた。

(やっぱりな。着用されてる女性は、普通に考えてあの家庭の母親だろう。仮に彼女がファウンダーだったとすると、彼女の自我が喪われてなお、那由多と同じ性質のフラグメントがあの家に居続ける理由が無い)
(無機のフラグメントをまるで家族のように縛りつけておくには、残る二人のどちらかがファウンダーかビリーバーでなければ辻褄が合わないんだが……子供のほうは、どう見ても幼稚園児か小学校低学年だった)
(那由多は、どこに居ようとフラグメントを観測出来る、がフラグメントしか観測出来ない。僕の眼で直接確認するのも重要、ということがよく分かった)

このことだけ考えている時間は無い。
勤務先から、仕事の続きを持ち帰っていた。
仕事に思考を切り替えるべく、真二は今日最後の呼び掛けで質問する。

(勿論、僕が早々と死ぬ、というのは困る。守りたい人達を守れない、少なくとも彼らの寿命までは生きていたい。それでももし僕が急死した場合、ビリーバー無しで彼らを守っていくことは出来るか?)
(試行完了。可能。但シ、しんじガ、なゆたノ一部ヲ上書キスル必要、アル)
(上書き?)
(しんじ死亡以降ノ、なゆたノ行動ヲ制限スル条件、書キ加エル。マタハ、なゆたノ行動原理自体、書キ換エル。制限条件ヲ付加スルナラバ、限定ト解除、両方書キ込マナケレバ、なゆた、正常二動作シナイ。原則的二、しんじシカ、上書キ出来ナイ)
(死にかけてる時にそんなややこしいレジストリ改造が出来るわけないな。元気な今でさえ、そんな芸当が出来る自信は無い。僕はまだそこまで君を理解してないんだし)

様々な筆跡の紙の束をデスクに置いて準備しながら、真二は呼び掛けを打ち切って結論を導き出した。

(ということは、母親もファウンダーではないか。何らかの理由で死んだ母親の蘇生を、父親が願った、と考えるのが妥当か……?)

真二の推論の組み立てに、誤りは無かった。
単に、「天原理央という贄がイレギュラーであった」というだけなのだ。


「そうそう、路傍の石といえば、彼もだった、ねぇ」

ミドルゲーム、白によるスキュア。

「高原真二、那由多。こちらも、つくづく面白い。鞜賀見市には、巨大な宝石の原石が二個も、道端に転がっていたわけだ」

クイーンを失った黒は大きな痛手に見えるが、実際はエンドゲームに入ってから機能し始める変則的なサクリファイスとなっていた。

「この“受容体”であの民家の中を視られぬのは、母の……いや、命名されたんだったな、無何有のせいなのか建造物自体のせいなのか分からぬ、が。もともと無何有の一部であった那由多であれば、不完全ながらも内部が視られるのだな。まさかあんな便利な神が切り取られるとは想定外だった、ねぇ。少々失礼、喉が渇いた」

真二と那由多の言動は、思念の会話も含めて、正二十面体のうちの一つが受信し続けている。
それと盤面を交互に見ながら喋り続けていた老人は、チェスを中断して席を立ち、バーナーとビーカーで水を沸かし始めた。
その間も、青年は無言無表情で微動だにせず、盤面を見るともなく眺めている。

「事象そのものでありながら、切り取られる前に贄を受け取っているせいか、時折妙に人間的で幼く感じられるが……、」

沸騰する直前の湯に、目分量のインスタントコーヒー顆粒とスティックシュガー3本を入れる。

「無何有から、正反対の翻訳によって切り取られた、那由多。無何有の一部であるが故に、無何有に太刀打ち出来るとは思えぬがね。無何有の存在を無視して生きてゆきさえすれば、那由多はほぼ万能の存在として、高原真二に恩恵を齎し続けるだろう。無何有の一部であるが故に、高原真二が無何有を無視出来るとは思えぬがね。えーっと、混ぜる物は無いかな。スパーテルでも攪拌棒でも良いのだが、君、どこにあるか知らぬかね? ……ああ、コレで良いか」

立ったまま見回した範囲内には薬匙もガラスの棒も見当たらなかったので、手近にあった微生物培養用のコンラージ棒(滅菌済)でぐりぐり混ぜた。

「君も飲むかね? 飲むならば作るが……いや、そういえば君は紅茶派で猫舌だったか。それにしても、那由多とやらは常に、実に的確な表現をする。フラグメント、ファウンダー、ビリーバー。ヒトのほうを向く、向かない。箱。抜け殻の着用。対の原則。上書き。今後は……いや、最初まで遡って、これを我々の共通認識とすることにしようか、ねぇ」

クリーマー3個を注いで、甘党用のホットコーヒー完成。


洋菓子店のショーケースはいつも、宝石箱のようだ。

「わぁー! わぁーわぁー!」
「どれがいいと思う?」
「えっとー……おかあさんは、どれがいちばんすき?」
「うーん。レアチーズだけど、お前、苦手だろ」
「きょうはいいよー。おかあさんのおたんじょうびだもん」
「おー、かっけぇなお前。じゃ、アレでいいか?」

個別包装の焼き菓子やラッピング小物やパーティーグッズの陳列棚も、佳月の眼には夢の国に映る。

「ろうそく、いらないの?」
「山火事ケーキになっちまうだろ。食うとこ無くなるぞ」
「ふーってふきけすの、おかあさんにやってもらいたい」
「あー、ガキはそういうの重視するよなぁ。じゃ、一本だけ立ててやる」
「いっぽん。じみじゃない? ……アレは? すうじのかたちのろうそく、うってるよ?」
「あのな、女は二十歳から歳取んねぇの。数字のキャンドルなんぞ立てたら生々しくて失礼なんだよ」
「……ひいおばあちゃんも、としとらないの?」
「そうそう。未だに二十歳って言い張ってるだろ?」

陽射しを揺らす街路樹の葉はいつも、宝石箱のようだ。

「ウチは、ケーキのひ、おおいねー。おともだち、そんなにしょっちゅうたべないっていってたよ」
「家庭によって違うだろうから、ウチは多いとかはあんまし言わねぇほうがいいが……まぁ、ウチは理央のための日が多いからな。誕生日、結婚記念日、雛祭り、母の日、クリスマス、ホワイトデー、勤労感謝の日。最近は、主婦休みの日ってのもあるよな」
「クリスマスは、おかあさんだけじゃなくって、ぼくにもくるよ? あ。ことしはねー、」
「待て待てっフライングし過ぎ! 半年も前からお願いしたらサンタさんが忘れちまうだろ、12月に入ってから叫べ」
「そっか。……そうだ、ことしはおてがみにする。じがいっぱいかけるようになったの、サンタさんにみてもらいたい」
「いいねぇ。誤字脱字象形文字が無ぇか、ちゃんと添削してやろう」

唯一と繋いでいる手を機嫌良く振り回しながら駐車場へ向かう佳月は、幸福しか知らない。

「ウチのおかあさんデー、おとうさんデーやぼくデーよりおおいよね?」
「そりゃ理央はむしろ俺らのほうを祝いたがるが……俺が勝手に増やしてんだよ。お前の誕生日にしてもな、勿論お前の日でもあるし、理央の日でもある」
「なんで?」
「難産だったんだよ。俺、立ち合ったけど……こんな痛みが無けりゃ人一人生まれて来ねぇのか、って思った。子供欲しいです産んで下さい、って簡単に言ってたのが申し訳無くてさ。まぁ、それとは別に、まだ欲しいんだけど」
「……ぼく、おかあさんを、いたくしたの?」
「すぱーんとラクに生まれることもあるらしいが、まぁ多くの場合は、赤ん坊一人につき一回痛ぇんだろうな。そりゃ勿論、産む前も産んだ後も女は色々大変なんだけど、俺は……あの立ち合いと、その後一週間ぐらい苦しんでた姿が忘れらんねぇ。お前も俺も、それぞれ一回ずつ、理央に痛ぇことしてる。けど、理央は、仕返ししたりはしねぇだろ?」
「うん。おかあさん、いつもやさしいよ」
「だよな。ひでぇ母親ならともかく、理央にはひたすら感謝すべきなわけよ」

美しい物、暖かい処、優しい人、しか知らない。

「あれ? おとうさんがいたくしたのは、おばあちゃんじゃないの?」
「うん、だから勿論、感謝してるよ。ただ、あっちは変に金余ってるせいか、昔っから物欲が乏しくてな。市販品で喜びそうなプレゼントのネタが尽きた。手作りの菓子とかこっちの家族写真とかはやたら欲しがるから、よく送ってる」
「じゃあ、おとうさんは、おかあさんに、いたいことしてないじゃない」
「お前が生まれる準備を最初にした時にな。あん時も確か、その後一週間ほど辛そうだった」
「いつ?」
「えーっと。結婚する約一年半前かな?」
「へぇー。あかちゃんうまれるのって、おじかんかかっていたくて、たいへんなんだね」
「そだよ。俺らには一生分かんねぇけどさ。だから、俺らは、理央を守ってやらなきゃなんねぇんだよ。一生、一つも痛みが無ぇように」
「うん。……うん。そうだね」

唯一の言葉はいつも、宝石箱のようだった。


それはどちらの、それともどちらも、深い傷が見せた夢だったのか。
夢をそのまま現実に持ってきていたかのようだった昨日までの道は断ち切られ、夢は覚めれば醒めて非情な現実が動き始める。

ドアが開き、白い猫のぬいぐるみをいつもよりも固く抱きしめた、パジャマ姿の佳月が現れた。

「……おはよ……ございます」
「……あ。ああ、おはよ」

唯一は結局、席を立たないままここで夜を明かしたらしかった。
二人ともよく眠れていない顔に泣き腫らした瞼だが、二人ともそのことについては触れない。
理央の行動を模倣する無何有、上の空で昨日までの行動をなぞる唯一と佳月、三人はばらばらに朝の支度を進める。

臨時の保護者同伴登下校が継続中のため、無何有は自分も外出する用意をし始めていた。
それに気付き、唯一が眼を合わせずに制止する。

「待て。てめぇは演技が下手過ぎる。他の保護者に怪しまれるのは確実だ。行きだけでも俺が連れてく。帰りは、出来るだけ誰とも喋らねぇようにしろ」
「はい」

それを聞き流しながら機械的に玄関に向かった佳月は、理央が昨日履いていた靴を見て、ぐっと歯を噛みしめ、

(おかあさん。いつもどおりにしなきゃいけない……んだよね? いつも……あさは、)

「いってきまーす」

(げんきにごあいさつしてた。わらってた)

振り返って手を振った、震える口元で笑った、玄関のドアを開けて一足先に外へ出て行った。
それを無感動に見送った無何有は、靴を履く唯一へ告げる。

「天原唯一及び天原佳月に、体温、心拍数、汗腺、脳内物質の分泌、の異変を検知しました。外出すべきではないと判断します」
「……あんなちっちぇえのが、無理して気張ってんだ。父親が凹んでる場合じゃねぇだろ。……じゃ。行ってくる」

むしろ唯一のほうが佳月よりも“大人”ではないのかもしれない。
無何有を振り返ることもなく、唯一は佳月の後を追った。


「おお、ドアが開い……うーむ。出てこない、ねぇ」

エンドゲームに入ってからというもの、老人の熟考が更に長くなったせいで、盤面はあまり動いていない。

「この国では、あの年頃の子供を持つ母親というのは、外で仕事をしておらずとも、ままともとかいうもののせいで頻繁に外に出ねばならぬのではないのかね?」

と愚痴を零しながら進めた白に、また青年が即座に黒を返す。
その後の動きが違った。
無言で立ち上がると、チェス盤を離れて、のそのそとだが真っ直ぐ、隣室へのドアへ向かう。

「おや、また寝てしまうのかね。こちらもあちらも、これからが面白い局面だというのに」

返事すらせずドアを閉めてしまった青年を見送り、老人は呆れ顔で軽く溜め息をつく。
チェス盤を見下ろして微かに苦笑すると、別の愚痴を零した。

「この続きは、明日か明後日くらいになるか、ねぇ」


(俺が気付きさえしなきゃ、それか気付いても気付いてねぇ振りしてりゃ、この先……佳月は幸せだったのか?)
(いや……んなわきゃねぇな。あん時、佳月は、自分から言おうとしてた。俺がその機会を奪っちまった)

理央が欠けても、日常は規則正しく織られていく。
今日からの道が無くなったならば、唯一が佳月に新しい道を造ってやらなければならない。

(あの日のこと覚えてんの、俺だけになっちまったのか。いや……もしかしたら、あのおっちゃんも覚えてるかもしんねぇな)
(プロポーズの言葉を覚えてんのが、俺と屋台の店主だけ……ってのは、寂しいもんだな)

喪失感を埋めようとして千々に乱れ飛ぶ思考が、埋もれた記憶を連鎖的に刺激して掘り返す。
不意に脳裏を過ぎったのは、とある数日間、仏壇の前で亡夫に話し掛けながら泣いていた祖母との会話。

――そんなに好きなら、遺影掛けてやれよ! 葬式から何年経ってる!?
――お仏壇の上なんかに写真掛けといたら毎日悲しいじゃないの!

(ああ……そっか。婆ちゃん。俺も今、分かった。痛み悲しみが引かねぇうちに写真なんぞ見るのは……つれぇよな)

冬の鈍い朝陽の下、集合場所の公園へ、唯一と佳月はどちらからともなく手を繋いで歩き出した。

(ましてや、アレは遺影どころじゃねぇ。ほんとは今頃、棺に入ってなきゃいけねぇ頃で……)
(そんなのが、死んだ日から家ん中歩き回ってる。俺らは……亡骸に取り縋って泣くことも弔って見送ることも出来ず、区切りが無ぇままずっと……理央の死を眺めて暮らしていかなきゃなんねぇ)
(理央。分かったか? あんなちっちぇえ佳月すら騙しきれなかったんだよ。この俺を……ずっとお前を見てきた俺を一生騙し通せるって、本気で思ったのか?)
(お前、まだそんなにも……自分のこと、モノみてぇに考えてんのか。いくらお前の記憶が詰まってるからって、人間ですらねぇ奴に操作を任せた抜け殻を寄越すってのは……ひでぇんじゃねぇか?)

全身が錆びたように重い。
しかし、唯一にとっては不幸なことに、現実は今回も、唯一が築き上げてきた自我を完全には打ち壊せなかった。
他人に誇ることもないその強靭さが、理央の幻を見つめたまま、明るい方角へ佳月の手を引いて進んでいこうとしている。

(あれほど……何回も言ったのに。お前も人間だ、って。ちゃんと頭数に入れてやれ、って……)