人固有一死 或重於泰山 或輕於鴻毛

理央は実によく働く。

佳月、唯一、の順に送り出した後、全く手を止めることなく家事を片付けていく。
テレビも観ない、休憩もしない、間食どころか平日は昼食すら摂らない。

理央の“家事”は、少々変わっている。
料理は、唯一のような超絶技巧があるわけではないが、その分一つ一つの工程を丁寧に。
掃除や洗濯は、業者のようなきめ細かさで。
そこまではまだ「家事に熱心な奥様」の域かもしれないが、晴れていれば庭の雑草を抜いて生け垣や植木を剪定し、最後に裏庭を通って家をぐるっと一周する。

その巡回で側溝などのコンクリート部分に剥がれを見つけたら、即座にセメント袋を出してきて、補修。
ベランダで布団を干している時に屋根瓦の割れを見つけたら、即座にパテとガルバニウム鋼板を出してきて、補修。
玄関のドアを閉めようとして金属部分に傷みを見つけたら、即座に板金鏝と溶接棒を出してきて、補修。

全ての時計は毎日時刻合わせをして、電池を入れ替えても動作が怪しい場合は、工具をフルセット出してきてオーバーホールをし始めたりもする。
一般的に主婦が単独で行わないような作業のほうがむしろ向いているらしく、迅速に全てを“在るべき状態”に戻していく。

きっかり一時間置きに換気扇の下で煙草を一本吸う以外は、宅配便や回覧板や連絡網の電話などが無い限り、基本的に誰と話すことも無く、黙々と働いている。
佳月が学校から帰ってくる頃には夕食の下拵えまでが完了していて、佳月のおやつに同席して一杯だけ紅茶を飲む。


少し遡って、昼。
自席で弁当の蓋を開けた唯一は、ほんの少し眼を丸くした。
それから、微かに苦笑する。

「あら。可愛い。お子さんのと間違えて持ってきた……んじゃなさそうね、いつものお弁当箱だし」

上席の豊雲次長が、物珍しげに席を立って覗き込みに来た。
誰もが見知っているキャラ弁の代表格が三匹、背景も細かく凝った弁当箱の中からこちらを見ている。

「いい歳した男にそういうのをわざと持たせるのって、普通に考えて嫌がらせよね。奥さん怒らせた? 喧嘩でもした? もうすぐ離婚?」
「嬉しそうに言わないで下さい、幸多こうだじゃあるまいし。朝、ちょっと拗ねてただけです。ウチは喧嘩したこと無いんですよ、今まで一度も。嫁さん、人のこと責められない性格だし。俺は俺で、不満の持ちようも無いし」
「毎日よく飽きもせず惚気られるわね。何年間新婚さんなのよ」
「そりゃ勿論、死が二人を分かつまでですよ。あまりにも喧嘩しないから、結婚前に言ったんです。『喧嘩のきっかけ作ってくれ』って」

――本当ですね? 分かりました。あなたが忘れた頃に、試してみます。

(残念だったな。忘れるわけねぇだろ。いつやるのかなぁ、ってずっと待ってたんだよ。けど、やっぱ……コレで喧嘩にはなんねぇなぁ)

自席に戻って自分の弁当箱を開ける次長が訊く。

「ああ、じゃあソレがそうなのね。帰ったら頑張って喧嘩してね。レシピ教えてくれる?」
「あ、帰ったら聞いときます。御家族にですか?」
「ううん、自分用。子供達は学食だし、夫は別居中だし」
「またですか……嫁さんに聞かなくても、俺、多分同じの作れますよ。明日にでも差し入れしましょうか」
「奥さんからならともかく、子持ち男の手作り弁当はちょっと遠慮しとく。ねー彼女役所に返してくれない? ほんと勿体無いわー、君の三倍の性能だったのに」
「ほんと勿体無いですよねぇ俺には。けど返しません」
「勿体無いって自覚あるのに追い掛け回してたの? 出世頭持っていっちゃったんだから、三倍働きなさいよ」
「えー。息子で出世払い出来ませんか。単純計算で、嫁さんたす俺わる2、イコール俺の二倍の性能に育つ予定ですが」
「その頃には私、定年じゃない」
「市長になればいいでしょう」
「君、将来、そんな市で働きたい?」
「いえそれはちょっと遠慮しときます」


佳月が宿題をする間と、家族が寝静まってから朝まで。
作った余暇の時間を全て、理央はプログラミングに充てる。

市内全域の小中学校や幼稚園は、事件現場に近い地域では休校休園、遠い地域でも保護者同伴での集団登下校になっている。
自分の部屋があっても理央の部屋に入り浸る佳月は、理央の迎えで帰宅した後、今日も宿題を持参していた。
佳月は部屋中央のローテーブルで、理央は部屋の隅のデスクで、それぞれ自分の作業をする。

「きょう、しゅくだいおおいよー。まとめのもんだい、よっつともわかんない。おしえてー」

キーボードを打つ手を止めた理央は、身体はノートパソコンのほうを向いたまま、理央から見て左下の床にぺたりと座っている佳月を見た。
それから、椅子を回して右手を伸ばし、算数ドリルを受け取る。
上から下へざっと眺めてから前のページをぱらぱらとめくると、元のページに戻して佳月に返した。

「四天王ですね」
「えっ、つよいの?」
「強そうに見えるけど、あなたはその前のページをちゃんと倒してきてるので大丈夫です」

あまりに唐突だが、この二人にとっては日常会話だった。

「でも、いちもんめからわかんないよ?」

パソコンに向き直ってスクリプトを書きながら、理央が淡々とヒントを出す。

「18ページのどこかに、問題1の部下が居ます。三人組でした」
「えーっと。えーっとー。あ。いた! これとおんなじときかたなんだね? ……やったー、いちもんめ、たおした! じゃあ、にもんめ。どんなひと?」
「問題1は我ら四天王の中でも最弱。……って言ってます」
「なにそれ、はらたつー。……やったー、たおしたよ。さんもんめは?」
「女性ってことで。守護してた騎士はもう居ません。19ページで倒しました」
「おんなのひとかー、ちょっとたおしたくないなー。えーっと。えーっとー。19ページとおんなじときかた……たおした。ごめんねー。よんもんめー」
「一番強い人は紳士的だったりしますよね」

この年齢の子供には未だ論理的思考が望めないのは当然なのだが、それにしても佳月は“生きていないもの”について系統立てて考えることが苦手、というよりも不可能であるらしい。
佳月は生きているもののことしか理解出来ない、と気付いた頃から、理央はごく自然に、全てを擬人化して語るようになっていた。
宿題に限らず、石のような無機物も、建物や道具のような人工物も、草花のような語らない生物も、風や音といった現象も、時には文字や概念まで、全てに人格を与えて教える。

「やったー、ぜんぶおわっ……あれ? あれー? ……ああーつぎのページまでがしゅくだいだった! なにこれわかんないー」
「第二形態ですね。ラスボスは大抵、変形して強くなるものです」

テーブルに突っ伏して頭を抱えていた佳月は、ふと立ち上がり、理央の手元を覗き込んだ。

「ねー。ぼく、いつ、こういうのできるようになる?」
「算数の敵を一つずつ倒していって経験値が貯まれば、出来るようになりますよ」
「いまつくってるのは?」
「日本語化パッチ」
「なにそれ?」

デスクと理央の隙間に、佳月が無断でむりむりと入ってきて、理央の膝に座った。
理央の作品は、ツールやゲームや他の作者のパッチなど、全て自サイトで無料配布している。
小さな身体に右腕を回して支えてやりながら、理央が説明した。

「ソフトとかアプリとかって知ってますか?」
「うん。このまえ、パソコンのじゅぎょうでちょっときいた。パソコンのなかでつかう、おどうぐでしょ?」
「そう、それ。売ってるのもあるんですが、タダで配ってる人もたくさん居ます」
「フリーなんとか、ってやつ?」
「そう、フリーソフト。でね、外国の人が作ったソフトの場合、ボタンや説明が全部英語で書いてあったら、英語読めない人は使いにくいでしょう?」

くるん、と首だけ振り返って、佳月は不思議そうに理央を見上げた。

「おとうさん、よめるよ?」
「お父さんみたいに何ヶ国語も喋れるマルチリンガルは、特に日本人では少ないんですよ」
「えっ!? おとなはみんな、どこのことばでもよめるんじゃないの!? じゃあ、おかあさんは?」
「受験英語までの読み書きくらいなら。喋るほうは全然」
「おかあさんは、だいがく、いったんでしょ?」
「大学行ったからって、別の言語をあんなに何でもかんでも読めて書けて喋れるようになるわけじゃありません。でも、便利なモノは皆が手軽に使えたほうがいいでしょう? だから、ソフトに嵌め込むだけで日本語バージョンにしてくれる部品を作ってるんです」
「つくるの、たのしい?」
「ええ」
「うるの?」
「いえ。タダであげてます」
「つくるのたいへんそうなのに? なんで、つくってるの?」
「うーん。ただの趣味です。お絵描きや手芸も嫌いじゃないけど、こっちのほうが作りやすいし、」

佳月の質問には、唯一もだが理央も、どんな内容だろうと極力はぐらかさず真摯な回答に努めようとする。
佳月から視線を逸らし、どこをということもなく前を見ながら、理央は呟くように答えた。

「この中は、平和で安全で……ああ、生きてるなぁ、って……思うから」


出来れば外出は避けたいが、買い置きの食材や作り置きの食料も底をついてきていた。

「そろそろお買い物に行ってきますが……第二形態は自力で解くの難しそうですね。教えるの、帰ってからでもいいですか?」
「あ、じゃあ、ぼくもいくー」

いつもならば迷わず許可するが、ニュースが頭を掠め、理央は一瞬躊躇した。

「今、小さい子が外を出歩くのは……」
「わるいひと、いるんでしょ? おるすばん、こわいよ」

(……確かに。万一、報道されてる通りの凶悪犯に押し入られたらひとたまりもない)
(いざという時に私じゃ何の役にも立たないけど、保護者がついてるほうが少しはマシかも)

「それもそうですね。じゃ、行きましょう」
「はーい」

理央の膝から下りて先に部屋を出ようとした佳月が、服の裾を、反対側の隅の棚に置かれているドールハウスに引っ掛けた。
よく見かける市販品よりもややグレードが高い。
他には見事に本しか無い理央の部屋で、ウサギ型の人形が三匹住んでいるこの精緻な家だけが異質な存在だった。

「あっ……ちょっとたおれた! ご、ごめんなさい……」

理央が中を覗いて確認すると、家具が全体的に少しずれ、ダイニングチェア一脚とウサギ一匹が倒れている。

「大丈夫、何も壊れてません。中身がズレただけです。ミニチュアは並べ直すのに時間が掛かるから、ごはんの後にでもゆっくり直しますよ」

たとえ何かが壊れていたとしても、理央は怒りはしないのであろう。
佳月の頭をさくさくっと撫でながら褒める。

「ちゃんと、すぐに、ごめんなさいが言えました。立派です」
「えへ」
「誰も見ていない時に、誰かのものを壊したり失くしたりしても、その人に謝れますか?」
「うん」
「謝っただけじゃ済まないモノもあるけど……先ずは、自分のしたことを伝えないとね。わざと、は絶対駄目ですが、わざと、じゃなくても。そういうことがあったら、後でお父さんかお母さんにも教えて下さい」
「はいっ」

佳月の背をそっと右手で押してやり、理央は一緒に部屋を出た。


「おっかいものー。おっかいものー。わるいひとなんて、おとうさんがぜんぶやっつけてくれたらいいのにねー。おとうさん、つよいんでしょ?」
「……強いっていう一言で片付けるにはまぁちょっと非常識なレベルですが……もともと強くはなかった、って昔言ってました。きっと、心が強いから強くなれたんでしょうね」

世間的には使い古された言葉だが、繋いだ理央の右手を機嫌良く振り回しながら歩いている佳月には、未だ理解しにくい話だった。

「こころって、つよくなるの? どうやって?」
「鍛えるんですよ。身体の他のところと同じ。心だって、身体の一部だから」
「そんなのむずかしいよー。こころ、そとにだせないもん。おとうさん、すごいねー」
「ですね。あれで、お片付けさえきちんと出来たら完璧ですよね」
「おとうさんのおへや、ドアしまらなくなったよ。どうするの?」
「どうしましょうね。あの世まで持っていくって言ってたけど、古墳でも造る気なんでしょうか。絶好の盗掘スポットになりますね」
「こふんよりピラミッドがいいなー。なか、めいろみたいになってるんでしょ、たのしそう」
「よく知ってますね。まぁ、今でも充分ダンジョンですけど」
「はいるな、っていうけど、はいれないよね」
「お掃除、出来ないんですよね」
「こないだもねー、」

――このまえかしてくれたまんがのつづき、かしてー。
――え? ……あ、ごめん。アレ、次の巻から先が一番奥の地層にあるから、今すぐには出せねぇ。
――えー。なんで、おなじごほんでなかまわけしとかないの。せいりせいとん、っておかあさんがいつもいってるでしょー。
――俺の財の総量はとうに俺の認識を超えてるんだよ!

「っていってたー」
「……財宝で床が抜ける前に、何とかしたいですね……」

二人が往くのは、陽が傾きかけた帰り道。
明日からまた極力買い物に出なくても済むように、普段よりもやや重い袋を提げていた。

「なんで、おとうさんとけっこんしちゃったの?」
「しちゃった、ってそんな取り返しのつかないことみたいに言われても」
「だって、おとうさんとけっこんしちゃったから、ぼくがおかあさんとけっこんできないじゃない」
「それは残念でした。お母さん以外で、お嫁さん探して下さい」

細い川の上の橋を渡りきる。
理央だけならばそのまま直進するが、佳月が居ると必ずと言って良いほど雑草繁る河原へ駈け下りていくので、理央も重い袋を提げたまま寄り道せざるを得ない。

「なんで、おとうさんとけっこんしちゃったの?」
「やけに食い下がりますね」
「だって、おとうさん、おかたづけできないじゃない。おかあさんは、おそうじすきなのに」
「きちんと整った状態が好きなだけであって、お掃除やお片付け自体が好きなわけじゃないですよ」
「えっ!? きょう、さくぶんに、『おかあさんはおそうじがだいすきです』ってかいちゃったよ」
「それは出来れば書き直して欲しいですね。『すきじゃないけどわりとがんばっています』とかでよろしく」
「すきじゃないのに、ぴかぴかにしてるの? おそうじしなくても、しなないよ?」
「質問の内容がお父さんと全く同じですね。うーん。お掃除やお片付けの必要性について大雑把に説明すると2時間くらい掛かるんですが、簡単に言うと……おうちは誰もが気分良く過ごせたほうがいいでしょう? あなたも、お父さんも、あなた達のお客様も」

快適に暮らす、という話の中から理央というものが抜け落ちていることには、幼い佳月も、理央自身も、全く気付いていなかった。

「そっかー。まいにち、ありがとー。でね、なんで、おとうさんと」
「勿論、好きだから。です」
「でも、おとうさんがさいしょに『すき』っていったとき、おかあさんは『きらい』ってこたえたんでしょ? おとうさんがいってたよ」

その場面が脳裏を掠め、理央は微かに眼を細めた。
この場に唯一が居れば「何呆れてんだよ」と言ったに違いない。

「……まさか子供に語り継ぐとは……」
「きらいから、すきになったの?」
「いえ。初めから好きで、ずっと好きです」
「じゃあ、なんできらいなんていったの。おかあさん、ひとに、そういうこといわないじゃない」
「……ツッコミどころがお父さんと全く同じですね。何で、って言われても……幸せになってもらいたかったから、かな……」
「おとうさん、しあわせそうだよ? ほかのひととけっこんしてたら、やだよ。ぼくも、おかあさんがおかあさんなのがいいよ」
「……ですね」

夕刻の河原に、人々の姿は無い。
いつもならば子供達の声で賑わっているが、どこの家も外出は控えさせているのだろう。

「おかあさんいがいでおよめさんさがすって、どこいけばいいの? しやくしょ?」
「市役所は、婚活するところじゃなくて婚姻届を出すところです」
「でも、おかあさんも、しやくしょにいたんでしょ?」
「ああ、そういうこと。結果的には職場結婚になったけど、同じ部署になったことは一度も無かったし、初めて会ったのはお母さんが就職する前でしたよ」
「どこで?」
「道で。困ってたところを助けてくれて、お名前訊く前にどっか行ってしまいました」
「なにそれかっこいい」
「二回目は、市役所の窓口で。いきなりお食事に誘われました。つまり、勤務時間内のナンパです」
「なにそれかっこわるい」
「就職した後は……毎日のようにお昼ごはんに呼びに来て。休日はお出掛けに呼びに来て。そのうち、晩ごはん作りに来るようになって。最終的に、高熱を出して寝込んだ日から、」

手を繋ぎに戻ってきた佳月を真っ直ぐ見て、理央は言う。

「住み着かれました」
「おかあさんちに?」
「ええ。ワンルームマンション、って知ってますか?」
「ワン。ルーム。いっこのおへや?」
「正解。独り暮らし専用だから、二人以上が住むことに向いた造りじゃないんですよ。そんなおうちにね、あのお父さんが住み着いたらどうなると思いますか?」
「かさばる」
「正解。すっごく狭くなりました。あと、今もだけど、すっごく喋るんです。それまでは、そのおうちでは殆ど音がしない生活をしてたから、」
「うるさくなった?」

並んで歩き出してからもずっと佳月を見ながら話していた理央は、幼い無邪気な問いに、古い無邪気な言葉を思い出した。

――社会が俺だけで出来てりゃ問題無ぇんだろ? だったら、俺だけ見とけよ。

見上げている佳月から眼を逸らし、沈みゆく夕陽の更に遠くを見やる。

「……いえ。……世界が変わりました」


理央と佳月が次の橋まで歩いてきた時、橋の下からも誰かが歩いてきていた。
成人の場合、平日のこの時刻にこの場所を、ジョギングやロードバイクで走る者ならばたまに見かけるが、スーツ姿の男が歩いていることは珍しい。
特に、外出を避けたい今は大人であっても河原にはおらず、二人が遭遇したのはその男だけだった。

距離が数mまで近付いたところで、男はふと足を止め、二人を交互にまじまじと見つめた。
その目元が、ぴりっ、と青筋立つ。
見ず知らずの相手が自分達の何を不快に感じたのか全く思い当たらないが、理央は立ち止まらずに進もうとした。
が、佳月と繋いでいる右手がぐっと後方へ置いていかれ、思わず佳月を振り返る。

「お嬢ちゃん。いいねぇ。お母さんとお買い物かい」

佳月は、立ち竦んでいた。
普段ならば見知らぬ者にでもにこやかに挨拶してすれ違うような佳月が、怯えた眼で黙り込み、男のほうを凝視している。

(いつもなら……女の子に間違われたら「ぼくはおとこのこです」って不機嫌になるのに)
(確かにあからさまに不審だけど……報道で言われてたような大型の凶器みたいなモノは持ってない。報道の影響で、知らない人に怯え過ぎてるのかも)

そう考えてみようとしたが、男は苛立った表情の口元にだけ無理に笑いを貼りつけ、更に不審さを煽る言葉を投げ掛けてきた。

「お嬢ちゃん。どうしたんだい。どこを、……何を、見てるんだい?」

男の質問、佳月の視線、と順に辿ってみて、理央も気付く。
最初からずっと、佳月は男を見てはいなかった。
男の傍らに、言われなければ気付かなかったほど薄いが、マーブル模様を成して渦巻く白い靄が蟠っている。

(……アレは?)

その靄を視認した途端、理央の全ての動作が停止した。

(……まずい。また、身体が……)
(身体が動かない、ということは……この人……は、)

冷え込んできた空気に晒されていながら、全身に脂汗が滲む。

(危険)


見るからに楽しげだった先ほどまでの佳月、蒼褪めて怯えきっている今の佳月、男にとってはどちらも不快であるようだった。
加えて、先ほどから今まで表情が全く変わらない理央に対しても、何らかの鬱憤を感じたらしい。
作り笑いさえ消え、男は二人を睨んだままぼそりと呟く。

「……ムカつく」

(こうなってしまったら、動けるようになるまで約15分……)

四たび理央を救ってきた唯一は、今、ここに居ない。
むしろ理央が、今、救うべきは。

とすっ、と理央の斜め後ろで軽い音がした。
意思に反して身体が動かなくなった時の理央は振り向くことも出来ないが、佳月が腰を抜かして座り込んでしまったことは分かる。

理央の中で、二つの光景が天秤にかけられた。

(私は……生きる)

“青いほう”の幻を初めて見た雨の夜と、

(私は……守る)

毎晩眠りにつく佳月の小さな手。

(なら、二つが並び立たない時は?)
(……決まってる)

「佳月。さっきの橋まで戻りなさい」

男を注視したまま、佳月に指示する。

「えっ……お、おかあさ」
「走って。全力で。絶対に振り返らずに。さ、立ちなさい」

普段は佳月にさえ「〜〜して下さい」を欠いた命令形で話すことなど無い理央の静かな言葉に気圧され、未だ立てないながらも佳月が後ずさった。
逃げようとしている気配を感じ、男は低く呟く。

「おい」

独り言ではない、二人への呼び掛けでもない。

「う?」

どこからか、返事らしきものが聞こえた。

「あいつら、殺せ」
「う。分かった」

ごく普通に見える男がごく普通の口調で、異常でしかない言葉を発した、その直後に今度ははっきりと返事があった。

理央から鮮血が迸った。


何かが貫通したかのように、しかし何かが刺さったままであるかのように。
腹と背から噴き出した血が、草叢へ零れ落ちる。

痛みに慣れ過ぎ。
痛みの際に声を上げないことを自分に強いてきた理央は。
痛みと無縁な11年間を経てさえ、自然な反応である叫び声を上げられなかった。
痛みを遥かに超えた、確実に死に至るこの傷であれば尚更、本来は喋ることも出来ない。

「佳、月」

それでも、なお。

「逃、げて」
「ぇ……ぁ……だ、めだ、ょ……ぉ、かぁさ」
「逃げ、なさ、い」

内腑を灼く激痛から出てくるのは、佳月への言葉だった。
今の理央には、佳月が逃げるための時間を稼ぐ意志しか無い。

「愚図愚図するな。ガキが逃げる」
「う」

という会話が聞こえ、ずるっ、と激痛の奥で何かが動いた。
自分に刺さっている何かが自分から引き抜かれようとしている感覚に、理央は。

「佳月! 逃げなさい!!」

普段から大声を出せない筈だった。
動けなくなった時は指先さえ動かない筈だった。
今の理央は、精一杯の叫び、生きている人間の眼の光、捕食者を“逃がさない”意志、で出来ていた。
正面の白い靄を、そこから透けて見えている男を、怒りの瞳が射通す。

「逃 がさ ない」

指先が動いた、それはいつもよりも早かった。
身体を曲げ、軋む両腕を強引に動かし、不可視の凶器を掴む。
これを引き抜かせるわけにはいかない。

「逃 が さな い …… !!」

枯れた声が空気を震わせた、途端。
理央のダウンジャケットの内ポケットから、黒い霧が噴出した。


瞬き一つの間に、黒い霧は螺旋を描いて拡散した。
理央と佳月、男と白い靄、頭上高くと足下一面、全てを取り囲んで渦巻いている。

今まさに行われようとしている殺人、という非日常をも遥かに凌駕した、非現実。
茫然とする三人のうち、最初に我に返ったのは、意識が遠のきかけている理央だった。

(何……コレ)(あちらから……じゃなく、こちらから、出てきた……)

いつの間にか、白い靄は無くなっていた。
代わりに、神話のような怪物、自分に突き立てられた大剣、を歪む視覚が認識する。

(何……コレ)

凶器を逃がさない一心で掴んでいた両手は、諸刃で血塗れになっていた。

(逃がさない……)

自分のではなく佳月の、明日のために。
刃の食い込んだ両手に更に力を込めると、黒い霧の一部が数ヶ所千切れ、帯状に伸びて理央に向かってきた。
それらが半透明の黒蛇のように理央の両腕に巻きつく、と。

風化で朽ち落ちる過程を早送りしたかの如く、大剣は霧散した。
怪物が、怪物らしからぬ恐怖を露わにして、覚束ない足取りで後ずさる。

怪物の腕力と貫通した大剣に支えられていた理央は、その場に崩れ落ちて膝をついた。
両腕に巻きついていた霧がほどけて収束し、理央を包むように旋回し始める。

眼を凝らしてみれば、それは黒一色ではなかった。
視界を横切り続ける、緑の鱗のような、膨大な0と1。
よく見知ったその文字列に、理央は半ば無意識に右手を延ばす。

(コレ……思考、してる……思考、が、ある……!?)

高速で、放射状に、前に翳した右手を中心として、黒と緑は理央の後ろへ流れていく。
その暴走が止んだ、先には。

何も無かった。
理央が視たのは、一面の黒。
いや、人間の視覚がそれを黒と認識しているだけで、実際は黒さえ存在していないのかもしれない。
にもかかわらず、そこには“思考”が存在した。

思わず語り掛ける。

「あなたは……何、ですか」
「    。    、    、    」

意外にも、返事があった。
途切れがちな意識を懸命に引き戻しながら、理央は訊き続ける。

「あの人達も……そう、なんですか」
「    、    。    」
「そう、ですか……この、傷……治せます、か」
「    。    、    。    」
「そう、ですか……私、あと、どれくらい、で……死にます、か」
「    」
「そう、ですか……なら、傷を、壊死させ、て、下さい……出来れば、痛覚、も、全て……」
「    。    、    。    、    」
「……定……義?」
「    。    、    」
「名、前……?」

思考しか無い存在から、名を要求された。
理央は、その見たままの姿を言葉にする。

「分かり、ました……あなたの、名は、」


未だ茫然自失から回復していない瀬度鉄成の前で、理央を覆っていた黒い霧が再び拡散した。
蹲ったままだが、刺される前と同じ無表情と無感動さで、理央が何かに語り掛ける。

「あの人達について教えて下さい」

鉄成と怪物に、黒から分離した緑が、帯を成して纏わりついた。
渦巻く緑に包囲されても、鉄成は別段、身体上の異状は感じない。
が、自分が行使する怪物を上回る怪異と、出血が止まっている上に痛みを感じていない様子の理央に、鉄成は竦み上がる。

「……瀬度鉄成。そうですか……奥様と娘さんは、あなたから……逃げきれたんですね」

理央の表情の中で僅かに動くことが出来る目元だけが、微かに綻んだ。

「……良かった」

そのあまりの穏やかさに、鉄成の恐怖は破裂した。

「何だ!? 何だコレはぁっ!?」

怪物の背に取り縋り、半狂乱で叫ぶ。

「ヘラクレス……お、おい、ヘラクレス! こっ、コレ何だ!? あいつ、お前と同じような奴なのか!? コレはあいつの能力か何かか!?」

怪物もまた、震えていた。
もともとたどたどしい言葉が一層聞き取りづらくなる。

「ち、がう。あいつ、鉄成と同じモノ。コレ、俺と同じモノ。コレ、能力ではない。コレ……、本体」

膝をついて宙を仰ぎ見た怪物が言う「コレ」「本体」とは、紛れもなく“霧そのもの”を指していた。

「お……同じ!? コレがお前と同じ!? 違う……違い過ぎるじゃないかぁっ!?」

残り時間の僅かな理央は、鉄成の狼狽など意に介さず、淡々と続ける。

「それで八つ当たりで無差別殺人ですか。そんなモノさえ喚び出さなければ、普通に生き続けていられたんでしょうけどね……報道に違和感がありました。最初の事件では、全員が即死している。でも、その後のかたがたは……病院に搬送されてから亡くなるまでに、だいぶ時間が掛かっていました」

その言葉は、鉄成に別の恐怖を喚び起こした。
鉄成にとって暴力とは、以前は相手を怯えさせ従わせて満足を得る手段だったが、怪物を手に入れてからは誰をも等しく一撃で断ち切る圧倒感に酔っていた。
それが、実際には完遂出来ていなかった、という。

(莫迦な! あいつも、あいつもあいつもあいつも、すぐ死んだんじゃなかったのか!?)

「あなたは今『殺せ』と命じた。普通に考えて、即死を意味したんですよね? 確かに私はもうすぐ死にますが……その子は、どうしてあなたの命令を守りきれていないんですか? 最初とその後の殺人の間に、何があったんですか?」

怪物の背にしがみついていた鉄成の靴の先が、重く硬い感触の物体に当たった。
思わず下を向くと、そこには怪物の両足がある。
そういえば、居酒屋の血溜まりの中で、最初に見たのはこの両足だった。

(何……だ、コレ)

今まで怪物を極力見ないようにしてきた鉄成は、この瞬間まで気付いていなかった。
大樹の枝にも似たその両の足首に、古代の罪人のような、鉄球の付いた足枷が嵌っている。

(こんなモノ……初めは付いてなかったじゃないか!)

理央はもう、鉄成も怪物も見てはいない。
新聞でも読むかのように、霧の中の緑に視線を走らせている。

「ああ、なるほど……命名に失敗したんですね。強そうだからヘラクレス、というのは安直でした。それに、通念上、ヘラクレスといえば剣よりも棍棒……シャムロック型のメイスです。あなたは、力を象徴する既存の名前、しかもその子に適さない名前をつけた。本来の能力が発揮出来ていません」

発声器官を持たない霧が、唐突に音を発した。

「 s」 「そ」 「k hi 」 「粗悪 品」
  「o」 「を」 「w 」 「 を」  「を 」
 「k 」 「 かい」 「s y」   「回 収 」
   「s」 「す」 「 r」 「る 」 「sur」    「 する」

霧のあちこちが小さく波打って四方から疎らに聞こえてきた宣言と同時に。
抗う気力も無く打ち拉がれている怪物が、先ほどの大剣と同様に。

朽ちる、朽ち落ちていく。
鉄成は我知らず叫んだ。

「待てっ、待ってくれ! 駄目だ、返してく……れ?」

怪物の断片を掻き集めようとするかのように手を伸ばす、が何かに足を引き戻された。
反射的に足下を見やり、悲鳴になり損ねた空気を喉から漏らす。

霧に覆われてしまっている地面から、人間の手首が一本、伸びていた。
その手が、がっしりと鉄成の足首を掴んでいる。
と思ういとまも無く。

手首が、次いで頭が、更に這い出るように上半身が。
何人も、何十人も、何百人も。
黒い地面から、人間が続々と湧き出てくる。
いや、彼らを“人間”と呼べるかどうかは定かではない。

一様に、明らかに、彼らには生きている人間の特徴が無かった。
土気色の肌、何も映していない眼、中にはそれすら判別不能なほど焼け焦げた者や腐り落ちた者も居る。
その割には奇妙に俊敏だが、一度死した神経系は生きていた時の運動系を再現出来ないのか、襲い来るというよりも滑稽に踊っているかのようだった。
そして、これほどの人数にもかかわらず、一切の音がしない。
怪異ではあるが匂いなどは無い霧とは違い、屍にしか見えない彼らは、悪夢でしかない静寂の中、血と死の臭いを風のように纏っている。

今や幾千幾万にも見える屍の宴に、鉄成は呑み込まれる。
生きながら紙屑のように引き千切られ轢き潰される断末魔が木霊し、不意に掻き消えた。


「……出来れば、人間のほうは回収しないで欲しかったんですけど。人間は、人間が裁かないといけないんです」

屍の大群が蜃気楼のように消え去った辺りを見つめ、理央が不本意そうにぽつりと呟く。
霧もまた不本意であるかのように、緑を集めて理央の前に高速で流し始めた。

「            、    。    」
「え。あなたじゃないんですか。じゃあ一体、今のは、……」

問い質す時間は残っていない。
そっと、死が傍らに立った気配がした。

視界は黒と緑に覆われたままだが、かさっ、と背後で草が擦れる音がした。

「ぉ、おか……おか、ぁさ……ん……」

(佳月……は、無事)
(……良かった)

再び、目元が静かに綻んだ。

(こんな顔、佳月には見せられない)

もう膝をついていることも出来ず、ぐらりと横倒しになる直前、右手の袖で口元の血を拭う。

「ぉ、かあさ……おかぁさん!」

佳月が這うように近寄ってくる気配を感じ、安堵の中で瞼を閉じようとした時。
迂闊にも、思い出してしまった。
穏やかな死を前にしていながら痛烈な悔恨を喚び起こす、温かい追憶。
あれはまさに、『嫌い』と告げた翌朝ではなかったか。

――毎日同じとこに帰れれば、それでいい。

(帰れない)(唯一さんが、帰れない)
(教えてない)(佳月に、まだ全部、教えてない)

顔を空へ向け、霧へ途切れ途切れに語り掛ける。

「折角……来てくれた、ところ申し訳ない、んですが……それ、ちょっと、後回しにして、下さい……先に……やってもらわなきゃ、いけないこと、が……」

視界の端に、涙でぐしゃぐしゃに濡れた佳月の悲愴な顔が入ってきた。

「お母さん……は、別に、あなたを庇った、わけじゃない、んですよ……びっくりして、動けなかった、だけ、だから……そんな顔、しない、で……」

残り時間の中で為すべきことは全て為した。
もう何も考えられない。

(疲れたなぁ……ああ、そうだ……最期に、)

ワイドパンツのポケットを探り、家を出る前から入れっ放しにしていた煙草を取り出した。
ボックスタイプの蓋を開けてみて、呟く。

「……あ。……ついてない日、だなぁ……」

黒が渦巻く空にうっすらと透けて見える、雲。
それを見上げたままの理央の手から、空箱が滑り落ちた。