青い屋根の家


(……俺の部屋って、こんなに臭かったっけ?)

常陸陽向ひたちひなたは、滅茶苦茶に散らかっている自室のドアを開けたところで立ち止まり、考えるとはなしに考える。

(何の臭いだよコレ。さすがにマズいな。ちょっとは片付けなきゃ)

普段ならば夕方には着ていない制服を脱ぎ、ベッドの上に放った。

ごく一般的な高校二年生男子。
成績は平均点、体力や運動能力は平均値、生活環境も平均的、外見的には良い意味でも悪い意味でも人目を惹かない。
特徴の無い短めの髪を、特に深い動機は無く、少しは目立ちたいからせめて茶髪にでもしてみるか、と染めてみた行動さえ一般的だと言えた。
突出した部分が一つも無く、かといってそれがコンプレックスだったり逆に向上心を持ったりすることも無い。

という、強いて言えば「あまりにも普通であることが特徴」の陽向は、物心ついた頃から今まで、ひっそりと悩み続けていた。

才色兼備で幼馴染みで同じ高校に通う同級生の美少女が、今までずっと慕ってきている。
などという現象はアニメやゲームの中にしか存在しない都市伝説に等しい、筈なのだが。
陽向のどこをどう好きなのか、山都美麗やまとみれいはがんがん追い回してくる。

陽向は、美麗が苦手だ。
何故苦手と感じるのか分からないが、出来れば自分からは近付きたくない。
周囲の誰もが羨むこの関係に於いて、記憶を幼稚園時代まで遡ってみても、陽向は「世話を焼くのが好きな近所の女の子」以上の感情を持ったことが無かった。
むしろ、美麗の妹の美咲みさきは気になる。
恋愛感情とまではいかないが、容貌が非常によく似ている姉妹でも、殆ど話したことのない美咲のほうがどういうわけか好感が持てた。

とはいえ、今夜ばかりは、美麗に会いに行かないわけにはいかなかった。

(美麗、ショックだよな。お父さんっ子だったもんな)

急死、と聞いて最初に連想したのは一連の事件だったが、美麗の父親については関連性は無いらしい。
駅のホームから転落し、轢死だったという。
通夜にて、遺体の状態が状態なため棺の窓が開けられることはなく、陽向は直接別れを告げることは出来なかった。
いつも快活な美麗は泣き崩れ、母親と美咲は放心したように座っていた。

(あ、ヤバ。また、ぼーっとしてた。宿題やんなきゃ。晩飯……は、後でいっか。食欲無いし)

棺越しでも「そこに死んだ人が居る」と考えただけで胃痛や吐き気が起こり、耐えられなくなって早々に退席してきた。
そして、ぼんやりと帰宅して、ぼんやりと玄関先で自分に塩を振り、ぼんやりと自室へ向かい、ぼんやりとドアの前で立っていたのだった。
どのみち今夜も、家族は居ない。
残業と休日出勤に励む割には出世出来ず家ではほぼ無言の父も、パチンコと浮気でぎりぎり精神の安定を保っている母も、そんな両親に反発して友人の家を渡り歩いている反抗期真っ盛りの姉も。
ダイニングテーブルに置かれていた「遅くなります」という母の書き置きとカップ麺を思い出しながら、とりあえず窮屈な制服を着替えることにする。

ベルトを緩めようと下を向いた時、コミックスしか並んでいない本棚に目が留まった。
陽向の膝の辺りの段に、特撮ヒーローのフィギュアが数体並んでいる。

ごく一般的な量の漫画を読む程度、という趣味的にも特筆すべき点の無い陽向だが、幼い頃から“ヒーロー”への強い憧れがあった。
といっても、この歳にもなると学校にも塾にも同好の士はおらず、そもそも仲間が欲しいでもなく、グッズを大量にコレクションするほどテレビ画面の向こう側に執着があるでもなく、美麗を含めて他人に公言したことは無い。
それに、ヒーロー像に憧れはあっても「そうなりたい」のとは違う。
やりがいのあること尊敬されること、つらいこと面倒なこと、秤にかけたら陽向は「大変そうなことはしたくない」派だった。

とはいえ、今夜ばかりは、ヒーローについて考えた時に自動的に附随してくる“理不尽”や“不条理”にどうしても思考が向かってしまう。
テレビ画面のこちら側に、ヒーローは居ない。
誰もが知っているそんな当然の事実に、義憤と呼ぶにはささやか過ぎるが、陽向はいつも反発する。

(いい人だったのに。あんな優しい人が死んで、ヤバい殺人犯はまだあっちこっちうろついてるとか、絶対間違ってる)

愛娘が自宅に引き摺ってくる男、などといえば世の父親の敵である筈だが、美麗の父は常に、陽向に過剰なまでに親切にしてくれた。
何の気無しにフィギュアの一つに触れようとして身体を曲げると、圧迫された腹から吐き気が立ち上ってきた。

(あ、また、気持ち悪、)

と思ったのとほぼ同時に、指先がフィギュアに触れた。

今や家族の誰も入りたがらない散らかり放題のその部屋は、青白い光に塗り潰された。


「……へ……? な、何、こ、コレ……ぇぇえ?」

時間にすれば一秒も経っていないであろう、部屋そのものの状態は先ほどと変わってはいない。
ただ。
見知らぬ女が立っていた。

立っている、という表現は正確ではないかもしれない。
前時代的なデザインの靴の爪先は、床から20pほど浮いている。

自分が腰を抜かしてへたり込んでいることにも気付かず、陽向は茫然とそれを見上げていた。

一つに束ねられて肩に波打つ銀の髪、うっすらと青みがかった銀の瞳、細身を覆う銀と茶の服。
いや、“服”と呼んで良いものかどうか陽向には分からない。
革のような質感の軽鎧、としか言いようがなかった。

「ぁ……ゎ……た、助け……」
「私を定義せよ」

厳しい顔立ちに相応しい凛とした声が、唐突に命じた。

「は……はいぃ?」
「ひたち、ひなか。私を名付けよ」
「あ、ああああの、いきなり何……」
「私は、正なる義を司る者。私に名を与えよ」
「正なる義……って、正義ってこと……?」
「そうだ」

(なっ何このオバケ!? 俺、霊感とか無い筈なんだけど!? さっきもちゃんと塩振ったよ!? な、名前さえあげれば消える、のかな!? じゃあ適当に、)

「正なる義に関する周知の名、意味を持たぬ名、意味を成さぬ音声の羅列、等は命名の失敗と見做す」
「えええええっ!? し、失敗したらどうなるの!?」
「私の在り方が限定的なものとなる。在り方すら成さぬ場合は、お前の存在を貰い受ける」
「ど、どういうこと……し……死ぬの!?」
「そうだ」
「うわぁあぁぁああっ!!」

(そんなのすぐ思いつかない! じ、辞書……辞書ぉっ!!)

正なる義とは何か、の問いへの答えと全く同じ口調の返事に恐怖を覚え、転がるように学習机へ走った。
まずいことに、陽向の机は、部屋の中で最も壊滅的な散らかり方をしている。
しかし今日は、使い込まれていない国語辞典だけが、机の端の目立つ場所に置かれていた。

(ラッキー、いつもなら埋まってるんだけど! えっと、『せ』、『せ』はどこだ『せ』……)

狼狽のあまり辞書も上手く捲れなくなっていた陽向の視線が、ふと一つの文字の上に留まった。
『せ』を探し出す前にあった、『さ』の初めのほうの項目。

「急げ。時間が無い」

その口調が相変わらず平静だったため、陽向は気付いていない。
うっかり背を向けてしまっていた相手の輪郭と周囲の空気が、奇妙に膨張しかけていることに。

「……さい」
「何?」
「『さい』。裁く、って書く『さい』」
「……お前にとっての正なる義とは、裁くことなのか?」
「そ、……そうだよ」

怯えながら振り向いた陽向が見たのは、先ほどと変わらない、女の姿だった。

「極めて偏った解釈ではあるが……良かろう。私は、裁。お前の、神」


「おやおや。今度は上手くいったか」

白衣の老人は、小さく拍手をして嬉しそうに笑った。

ところで、延々と独りで喋り続けているように見えるが、そもそもの初めから、室内にはもう一人居た。
喋ったり歩き回ったりと忙しない老人から少し離れた椅子に、白衣の青年が座っている。
が、呼吸と瞬きで辛うじて生きていることが判別出来るのみで、無精髭が目立つ血色の悪い顔はやや俯き、空ろな眼をどこへも向けようとしない。
安物の事務用の回転椅子すら軋まないほど身動きしない青年は、室内の他の備品と同じく、単なるオブジェと化している。

そして、青年の無反応に対しては、老人も無反応だった。
返事を求めるでもなく、正二十面体群を見上げたまま、喜びの言葉を続ける。

「粗悪品続きでどうしようと思っていたが、ねぇ」


制服の上着を脱いだだけの姿で、陽向はぐったりとベッドに突っ伏している。
裁に生命を奪われたわけではない。気力を奪われただけだった。

(消えない。何で? 早くどっか行って)
(あ、もし夢なんだったら、会話進めたら早く醒めるかな)

どういう理屈なのか不明だが、早く心穏やかに休みたい陽向は、とりあえず無難な言葉を掛けてみた。

「あの……さぁ。何しに来たの……」
「お前の願いを叶えるためだ」
「……何でも叶うの? リスク無しで?」

人間ならば殆どの者が心惹かれるであろう科白に、思わず顔だけ裁のほうへ向ける。
床(の辛うじて物が散乱していない隙間)に片膝を立てて座っている裁は、やはり床から少し浮いていた。

「正なる義に関する願いしか守護せぬ」
「そんな限定的な。抽象的過ぎるし。そんなのあるわけないよ。そういうのを必要としてる人のとこに行けばいいだろ、俺のとこじゃなくて。ほんと、何しに来たの……」

もともと語彙が豊富なほうではなく、しかも気持ちが落ちていて頭が回転しない陽向は、同じ問いを繰り返すしかない。
しかし、それへの返事は、予想外過ぎるせいでやや会話が前進するものだった。

「お前が切り取ったからだ」
「……切り取る? 何を?」
「お前が、私を、    から切り取った」
「え? ごめん、聞き取れなかった。何から切り取ったって?」
「    から」

裁のきりりと厳しげな面持ちからは、ふざけている様子は感じられない。
裁はきちんと何かを発声している、その音声も陽向の耳に届いている、しかしそこだけ陽向の脳で処理出来ない単語か概念であるかのように、裁の科白からすっぽりと抜け落ちていた。

「我々は、全てそこから切り取られる。神々、魔物、真理、呼ばれ方は様々だが、全て同質の存在だ」
「そこ……ってことは、どっかの場所?」
「場所のみを指すわけではないが、その解釈は大筋で正しい。我々は行きたい処へ行けるわけではなく、我々を望んでそこから切り取った人間の処へしか行けぬ」
「で……でも、ね? 俺、別のもっと現実的なお願い叶えてくれそうなカミサマならともかく、ほんっとーにそんなカミサマには用は無いし。召喚の儀式みたいなのもしてないし。いつどうやって切り取ったのか分かんないんだけど?」
「召喚の……儀式? ああ、人外の現出を願う人間が執り行う、一連の作業か。莫迦莫迦しい。誰が定めたか知らぬが、そのような非科学的な行為で我々を喚び出せる筈がなかろう」
「非科学的な奴が何言ってんの!?」

身体に力は入らないままだが、思わず声には少しだけ力が戻った。
陽向の様子には全く頓着せず、裁はずんずん話を進めていく。

「先ほど、リスクが無いか、と問うたな。名または贄を受け取って存在が確定した神に関して、人間側に身体上のリスクは無い。あるとすれば、神の側だけだ」
「……贄、って?」
「命名に失敗すると、切り取った者を贄とする。例外的に、切り取られる前に贄を含んでいれば、名も贄も必要ではない。どちらの場合も、切り取られた後に名付けられたり新たな贄を求めたりすることはあるが、地上に存在すること自体は可能だ。主に、人間が“邪神”だの“悪霊”だのと呼んでいるな」
「えっと……要するに、生け贄?」
「生きているに越したことは無いが、死せる者が贄となる場合もある」
「死んでる人が生け贄になる……ってよく分かんないよ……」

裁の説明は、お世辞にも上手とは言えなかった。
陽向の理解も、お世辞にも速いとも正確とも言えなかった。
二人の会話は、話題が掘り下げられずすぐに別の話題に移ってしまい、相互理解出来ないまま続く。

「で、お前のほうには、どんなリスクがあるの」
「神は数多存在する。一神教の民族であっても、神話や伝承を持つだろう? 特に、お前達の民族は……どうやら、神的な存在を極めて多く有しているようだな」
「……あ、そうかもね。そういう国だから。鞜賀見市にそういう伝説が多いかどうかは知らないけど」
「多ければ、利害が生じる。強ければ、優位性を求める。人間の社会と同じだ」
「……喧嘩もするってこと?」
「そうだ。他の神々よりも優って、人心を得ねばならぬ。贄には劣るが、信仰は我々の力を増す」
「分かるような分かんないような。信仰でカミサマが強くなる、っていう話はよく聞くけど、どういうシステムなの、それ」

ここに至って、裁は漸く、話が通じにくいことを嘆いた。

「……残念だ……お前、馬鹿なのだな?」
「はぁー!? そうだよ!? そうだけど! 初対面の人外に言われたくないよ!!」

裁は、宙で胡坐の姿勢に座り直し、陽向を真っ直ぐ見据える。

「神々の母は、人間だからだ」

簡潔に、噛み砕くようにゆっくりと、大真面目に説明した、つもりのようだが簡潔過ぎて陽向にはさっぱり分からない。

「えっと。俺カミサマ信じてるわけじゃないけど、多くの場合は、人間の母がカミサマ、ってことになってるんだよ」
「その通りだが」
「ええっ!? それ否定しないの!? お前、今、カミサマの母が人間って言ったよね!?」
「そうだ。何故、確認する?」
「……お前、矛盾したこと言ってるの気付いてないの?」
「矛盾などしておらぬ」
「だったら、もうちょっと分かりやすく説明してよ」

裁は、落胆混じりの不本意そうな面持ちになった。

「切り取られた際、私という存在は、お前の思考体系によって翻訳されている。今ここに居る私は、切り取られる前に持っていた知識も、お前を通過した時に得た知識も、お前が理解出来るようにしか説明出来ぬ」
「……つまり……お前も馬鹿ってこと?」
「……」

ぴくっ、と裁の眉が吊り上がった、と見るや、陽向は後ろの襟首を掴まれてベッドから引き摺り落とされた。

「いったぁーーーっ! 正直に質問しただけだろ!?」
「正直が必ずしも善であるとは限らぬ! 婉曲表現や社交辞令を覚えろ!」
「お前だって失礼だよ!?」
「私は良いのだ神だからな!」
「何それムカつくー! 俺はお前のお母さんなんだろ!?」

近寄り難さがやや減った口調と表情で、怒声とまではいかないが裁は初めて感情らしい感情を見せていた。
が、それもすぐに消えて元の、いや更に険しい面持ちになって低く呟く。

「……母が、来た」
「え、また母かよ? どの母?」
「母は、母だ。神々の根源。神々の……宿敵」

単語の一つ一つが、陽向の脳内では結びつかない。
陽向の襟首から手を放し、というよりも陽向を放り捨てるようにして、遠くを見据えた裁は宙で立ち上がった。

「斃さねばならない」
「待てよおい! お前、母って言ったよな!?」
「くどいぞ。それがどうした」
「斃す、って……殺すってこと!? ど、どんなお母さんだか知らないけど、そんなの駄目に決まってるだろっ……」
「人間のようなことを言うな。母には、我々のような自我が無い。神々は母から生まれるが、母には神々を産む意図は無い。そして、神々を滅ぼす」

裁はふと、陽向の背後の本棚、上から二段目、バネのついた安っぽいオブジェに眼を留めた。
それを軽く押して揺らしてみせる。

「私が母と呼んでいるモノは、こういう“こと”だ。この動きがいつか必ず止まるように、そしてコレ自体も破損や燃焼や劣化によっていつか形を失うように。生物の有機的活動も、物体の運動や化学的反応も、等しく無に帰す、事象。全てを均一化し均衡をとる、万物を安定した“無”の状態に保つ、事象そのもの」

この説明ならばほんの少しだけ陽向にも理解出来た、が「事象そのものがやって来る」という状況は理解出来ない。
精一杯頭を動かしている陽向の努力に斟酌せず、裁は独り言のように新たな爆弾を落とす。

「何らかの意思を以って滅ぼす、というよりは、分解と回収、という表現が近いかもしれぬな。いつか必ず、私も母に分解回収される。つまり、お前の神が滅ぶ、ということだ。リスクの話に戻るが、人間側に“身体上の”リスクは無い。但し、奉ずる神が滅べば、価値観の中心、即ち精神の根幹を永遠に失う。それによって直ちに死に至るわけではないとはいえ……希望も願望も存在しない生涯、というものを想像してみるがいい」
「え」

陽向の思考は、容量オーバーになった。
処理の追いつかない頭がヒートしているにもかかわらず、再び後ろの襟首を掴まれ、今度は立たされる。

「漸く自我を得たのだ、早々に分解回収されるつもりはない。早くしろ」
「……え。な、何を?」
「我々は、切り取った者から離れることは出来ぬ。お前に伴われねば、私は移動もままならぬ」
「ちょっ……俺もついてかなきゃなんないの!? そんな危ないことに!?」
「母を捕捉した。近い。お前がそこへ行くには、そうだな……地図はあるか」
「ち、地図!? え……えっと、ち、地図……」

急かされて慌てた陽向は思わず、最初に眼に飛び込んできた地図に駈け寄り、ばん、と壁ごと叩いて示してみせながら裁を振り返った。

「こ、コレ! 地図!」

小学生の時から貼りっ放しだがろくに見ることも無い、国名も国境もだいぶ変わってしまっている、色褪せた世界地図。
一瞬黙り込んだ裁は、次第に怒りの表情になっていった、かと思うといきなり陽向の前の襟首を掴んでぎりぎりと締め上げた。

「お前は……そんなワールドワイドな地図でいつも近所へ出掛けているとでもいうのか!?」
「ごっごめっごめんなさい苦しっ……そ、そうだ、ちょっとだけ待って」

裁の両手を引き剥がして咳き込みながら、陽向はズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。
マップ検索から自宅付近を表示し、裁に見せる。

「ほら、コレ、この辺の地図。ここが俺んちなんだけど」
「……もう少し広い範囲を表示することは出来るか」

少しずつ縮小していくと、低く鋭い指示が飛んできた。

「一回分戻ってくれ。……ここだ」

市の南部に位置する陽向宅、電車で8駅先の市役所、北部を流れる河川、が表示されている。
裁が指差したのは、市役所を挟んで対称になっているほど陽向宅から遠い、その川の岸の一点だった。

「はぁ!? 全然近くないよ!? 電車かバス乗ってかないと駄目だろここ!」
「ならば、案内しろ」
「今から!? 明日までに帰れないって!」
「構わぬ」
「俺は構うよ明日も学校あるんだよ!」

裁の身勝手さに憤る陽向を宥めようとしたのか、裁は、さも素晴らしい思いつきであるかのように提案した。

「そうだ。タクシーで行けば、明日までに帰れるぞ」
「図々し過ぎるわーっ! タクシーの存在は今すぐ忘れろ!!」


瀬度鉄成は困り果てていた。
泥酔の末の覚醒夢か何かかと思っていたが、違ったらしい。

自転車で巡回中の警察官に職務質問されそうになり、頭に血が上って、気が付けば怪物に「殺せ」と命じていた。
酒を買おうと思ったら、いつの間にか財布を落としていたらしく、誰のせいでもないにもかかわらず頭に血が上って、気が付けば怪物に「殺せ」と命じていた。
酒一瓶と売上金を奪って夜道を歩いていたら、中高生らしき少年にじろじろ見られたため、やはり頭に血が上って、気が付けば怪物に「殺せ」と命じていた。

凡庸な人間が突然手にした、絶大な力。
しかし、一昼夜のうちに感情の赴くままに殺人を繰り返しておきながら、臆病で神経質な鉄成にとって、いくら従順とはいえ常にこんな怪物が傍らに居て二日経っても消えない、ということが耐え難い。
昼下がりの堤防、冷気に枯れた薄い草叢に膝を抱えて座っている鉄成は、ぼうっと眺めていた川面から眼を逸らし、同じ姿勢で隣に座っている怪物を恐る恐る見上げて訊いた。

「なぁ。お前、何が出来るんだ?」
「こ……、」

単純な問いにも、怪物はかなり考え込む。
それから、鉄成のほうを見やって、ぽつぽつと答えた。

「壊す、と、殺す。だけ」
「……それだけ?」

溜め息をつき、鉄成は再び、傾き始めた陽射しに煌く穏やかな川面に視線を戻す。
返事をする時以外は、怪物もまた、鉄成と同じ方向を向き、鉄成と同じ姿勢で大人しくしていた。

(参ったな。そりゃ、こいつの力があれば、欲しい物は手に入る、気に入らない奴は殺せる。だけど、それだけじゃ……足りない)
(こいつだけで世界が征服出来るか? 出来ない。例えば、警官隊に囲まれたら? いくらこいつが強くたって、俺を狙われたら終わりだ。こいつそのものだって、無敵じゃなかったら? 一斉射撃に耐えられる、っていうような保証は無い)
(いや、俺は別に世界を滅ぼしたいわけじゃない。そんなことしたらラクして暮らせなくなるじゃないか。だったら……破壊しか出来ないこいつをどう使う? ムカつく会社の連中を皆殺しにするか? ……って、)
(しまった、とっくに一人死んじまってる! 俺が無断欠勤してたら、さすがに誰でも関連付けて考えるよな。マズいな。どれぐらい捜査進んでるのかな、ニュースニュース、……って、)
(しまった、コレ、警察に居所バレるじゃないか! 電源切っとかないと……って、あ、良かった、とっくに充電切れてた)

慌てて取り出したスマートフォンを、慌ててポケットに戻す。
行き当たりばったりに行動しているため、全てが後手後手だった。

(ってことはつまり、俺には帰る場所が無くなったのか……ま、いいや。その気になりゃ何でも手に入る。今のところは、飯と酒と、快適に寝られる場所さえあればいい)
(そうだな、じゃあ、当分はホテル暮らしだ。今はあの酒屋の金がある、金が無くなったらまた適当にどっかに押し入ろう)
(あ。それに……あいつらも連れ戻せる。あいつら今どこに住んでるんだ? 実家を脅せば吐くかもな)

自分に「帰る場所が無くなった」ことを理解しているにもかかわらず誰かを「連れ戻せる」という発想に至る、という典型的な思考的視野狭窄の類だった。

(幸い、こいつは誰にも視えてない……って、そうだ……そういえば!)

不意に、恐怖に襲われ、怪物をがばっと見上げる。
本来ならば、最初の恐怖が去った後すぐに考えるべき恐怖である筈だった。

「な、なぁ。お前みたいなのって、他にも居るのか?」
「い……、」

先ほどと同様に考え考えしながら、怪物は鉄成を見やって答える。

「居る。来る」

(そうだよ、俺のとこに突然こんなもんが来ちまったほどだ、もっと……特別な奴だったら? もっととんでもないもんが来ちまうんじゃないか!?)

「おっお前、どうして俺のところに来たんだ!? 他にはどんな奴が居るんだ!?」
「……どう、……?」

鉄成を見つめたまま、怪物は首を傾げて黙り込んだ。
訊きたいことが次々と湧き出てきたのに、口からは溜め息しか出ない。

(やっぱり駄目か。答えが単純明快な場合はちゃんと返事出来るんだけどな。理由を語る、みたいな複雑な内容の返事は出来ないし。質問の意味さえ理解してないかも。これが一番困るんだよなー)
(仕方ない。とりあえず、目的地は決まったんだ。時間はいくらでもある。久し振りに……のんびり歩くかー)

少し晴れやかな気持ちになって立ち上がる。
ズボンの尻についた草を払い、川面を眺めながら大きく伸びをすると、怪物もまた、同じ動作をした。


犯人がこんな有り様なので、非公開ながらも警察には初期段階からマークされていた。
刑部司おさべつかさは、若々しい眉を険しく顰め、改めてデスクの上の資料の山に目を通す。

最初の被害者のうち一人だけ連れの居なかった客。

(若ぇ会社員が独りで居酒屋に行く、なんてこたぁあんまり無ぇ。一方で、同僚一名が無断欠勤で連絡取れず)

続いて、重要参考人。

(瀬度鉄成。38歳。DVにて係争中。こいつが容疑者の最有力候補だ、って見解に異論は無ぇ)

居酒屋は、大通りから一筋小路へ入った区画にある。
鉄成が居酒屋へ向かった形跡は発見出来なかったが、その逆、つまり大通りから商店街へそして駅へ、しかし電車には乗らず徒歩で駅ビル反対側の大通りへ、と各所の防犯カメラの解析結果では鉄成の姿が確認出来た。

(死亡推定時刻から1時間以内に、現場から遠ざかるみてぇにこんなに近辺をうろついてる)
(むしろ、こいつが犯人じゃねぇ、ってほうが無理がある。他の誰かが犯人だったとしたら、あんだけ容赦無くばっさばっさ斬り倒しといて、狭い店内からこいつだけ取り逃がすのは不自然だ。が……)
(凶器が、な。こんな傷口、見たこと無ぇぞ)

鑑識からの資料には、傷口から推定される、凶器の種類やサイズの記載がある。
そこから導き出されるのは、大剣、としか言いようのない代物だった。

(いくら自棄っぱちになってたって、こんな非常識な凶器を振り回すか? そもそも、どこで買ってどうやって持ち歩くんだ。万一どっかの店で見かけたとしても、よーしコレ使って無差別大量殺人するぞーとは普通考えねぇよ)
(初日は全員が即死ってのも異常だ、熟練し過ぎてる。DV野郎ってのを付け足してみても……いや、付け足したらもっと違和感あるな。家ん中で女子供にしか暴力振るえねぇような、この非力そうな普通の会社員が、そんな化け物とは考えにくい)

ドアがノックされる。
入室してきた年配の巡査部長が、足を揃えて敬礼した。

「失礼致します。本部長、会見の準備が整いました」
「……了解。原稿と質疑応答集を」
「は。こちらです」

言葉が口から出る時は、キャリア然とした風貌に似つかわしい語調になる。
非常事態下の管轄の長という重さに愚痴も溜め息一つすらも零さず、立ち上がった刑部は、手渡される紙の束ではなく前だけを見て、先導が開けたドアへ向かった。

(鞜賀見市で全国ニューストップの事件なんざ、10年振りか。あれ以降、鞜賀見じゃ目立った凶悪犯罪は無かったってのに。俺が戻ってくるなりこれかよ。ったく、鞜賀見の化け物は……一人で充分だっての)