赤い屋根の家

一般的なサラリーマン家庭としては早めの夕食の後。
いつも通り、天原理央あまはらりおは三人分の食器を洗う。
ダイニングと間続きのリビングでは、携帯ゲーム機を手にした夫の唯一ただかずが、ソファに仰向けに寝転んでいる。
いくら均整の取れた身体でも、一般家屋の室内で183pの物体がだらだらしているとかなりの圧迫感なのだが、その光景は狭苦しさよりも奇妙さの印象が優った。
ただ寝転んでいるのではなく、両足を垂直に上げ、更に膝を直角に曲げている。
椅子から転げ落ちた瞬間の姿のようなその膝の上に、七歳になったばかりの佳月かづきがちょこんと座って、ぬいぐるみの白い猫と一緒に、漫画の単行本を読んでいた。

「ねーねー、おとうさん」
「んー?」
「“ほっかいどう”ってどこ?」
「日本の上に、でけぇ四角あるだろ。天気予報で見たことあるよな? 広いほうの海に向かって、何か喋ってるとこ」
「おかおのところ?」
「そう、それ。お前の好物いっぱい生産してくれてるとこだ、感謝しとけよ」
「そうなの? どんなの?」

普通ならばここで芋や乳製品や肉類などが挙げられるのであろうが、唯一はびしばしと激しくボタン操作をしながら列挙した。

「蕎麦。長芋。ウニ。イクラ。シャケにニシンにサンマにヒラメ。お前が菓子みてぇにばりばり食う漬け物も種類豊富」

都会の子供の好物としてはかなり特殊だ。
佳月は、酒呑みのような渋い味覚をしている。

「ふーん。おいしいところなんだね。どうやったら、おれいいえる?」
「いただきますとごちそうさまが毎回きちんと言えてりゃ、それでいい」

一緒にアニメを観た後のテレビは点けっ放しだが、二人とももう観てはいない。
互いに自分の手元から視線を逸らさず、父子は話し続ける。

「じゃあ、“ふじゅんいせいこうゆう”ってなに?」

佳月が読んでいるのは唯一所有の全年齢向けコミックスではあるが、小学一年生にこんな質問をされれば、一般的に親は返答に詰まるか本を取り上げるかする。
が、佳月の発言のソースを問い詰めることもなく、唯一はロード中になったゲーム画面を見たまま、相変わらず普通に説明した。

「年齢的に不適切な男女の付き合いのこと」
「なにしたらだめなの?」
「今のうちは、手ぇ繋ぐぐらいにしとけば大丈夫」
「まもらなかったら、けいさつにつかまる?」
「ケースバイケースだな。相手と自分の歳、それによって引っ掛かってくる法律や条例、あとは、運」

佳月が、本を自分の膝に下ろして、不安げに訊いた。

「……ぼく、けいさつにつかまる?」
「何やらかしたんだよお前」

どの角度から見ても女の子だが、佳月は息子である。
唯一もまたゲーム画面から視線を外し、端正な眉を僅かに顰めて訊いた。

「まりなちゃんに、ほっぺちゅーされたよ。それと、るりちゃんが、しょっちゅうだきついてくる」
「何だ、その程度なら可愛いもんじゃ……って、誰それ。聞いたことねぇ名前、また増えてんだけど」
「まりなちゃんは、クラスのひと。るりちゃんは、にねんせいのひと」
「おー、年上にまで手ぇ出したか。年上はいいぞ。っつーか、いい加減、一人に絞れよ。リア充爆ぜろ」
「はぜないよ。ぼく、なにもしてないもん。すきとかいわれてもよくわかんない」
「あー、ガキのうちは男はそういうもんだよな。まぁ、お前がどう思っていようが、僕は何もしなくてもモテます自慢に聞こえちまうから、そういう話はダチの前ではすんなよ」
「うん。わかった」

最後の皿を水切りラックに入れ、理央は手を拭いてからリビングへ向かう。
いつの間にか唯一の姿勢が変わっていた。
今度は俯せに寝転んでゲームを続けているが、両膝を後ろへ曲げて垂直に立てている。
その足の裏に、佳月が座って漫画を読んでいた。

「お風呂沸きました。どうしますか?」
「あ、俺、最後でいい。今、狩りの最中」
「じゃあ、ぼく、はいるー」

ひょいとソファに飛び降りて、佳月は山積みの漫画の上に漫画を置いた。
本、ゲームソフトの箱、ミニカーにブロックにぬいぐるみにソフビ人形。
全体的に小綺麗に片付いているこの空間で、ソファの周りだけが絶望的に散乱している。

「後で二人とも、自分のモノは自分で片付けておいて下さいね」
「えー。あしたじゃだめ?」
「えー。明日じゃ駄目?」

父子の科白が重なった。

「共用スペースに、皆が好き勝手に固有結界を展開しちゃいけません。私物を持って来るのは自由ですけど、寝るまでにはきちんと元の場所に戻して下さい」
「「はーい」」
「それから、テレビ、観てますか?」
「みてない」
「観てねぇ」
「なら、消しますね」

いつの間にか全国区のニュースになっていた。
理央が消そうとした瞬間、トップで鞜賀見くつがみ市の事件の続報が流れ始める。

彼らが住まう鞜賀見市は今、緊迫の中にあった。
12月11日、夜。市南部の居酒屋で店員と客の八名、殺害される。
12日、朝。巡回中の警察官、同一と見られる凶器で襲われる。
同日、夕方。酒屋の店主とアルバイト、同一と見られる凶器で襲われる。
意識不明の重傷で病院に搬送されていた警察官と店主とアルバイトのうち、二人は数時間後に絶命し、最後の一人も先ほど死亡が確認された――とアナウンサーが読み上げたところで、理央は無言でリモコンの電源を切った。

すたたたと駈け寄った佳月が理央の両手を取り、最上級の笑顔で見上げる。

「ねーねー、おかあさん」
「はい?」
「おふろ、いっしょにはいろ」
「はい」
「何ぃ!?」

それを聞くなり、唯一がゲーム機をソファの上に放り出して勢い良く立ち上がった。

「駄目だ駄目だ! 佳月っ、理央は俺のだぞ!」

例えば、ある父親が、一人称として「お父さん」「パパ」、二人称や三人称として「お母さん」「ママ」、子供のうちきょうだいが居れば年上のほうを「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」、自分や妻の両親のことは「お爺ちゃん」「お婆ちゃん」、と表現する。
日本特有の用法として、多くの家庭では人称代わりに続柄を用いる、のだが。
唯一は、子供視点を家庭の中心に据えたそういう表現をしない。
無自覚のようだが、外と家とで使い分けることも無く、常に自分視点の続柄で佳月にも語る。

「ぼくのだよ。おかあさんは、こどものものだもん」

怖がるでもなく、といって反抗してやろうという様子でもなく、理央の足に纏わりつきながら唯一を見やった佳月が、ごく普通に答える。

「だから七年間も貸してやっただろ、いい加減返しやがれ!」
「やだよ。『かしてください』っていったら、かしてあげる」
「うっわー何それムカつくー! お前、一人で風呂入れるようになっただろ!?」
「まだ、おうちのひとといっしょにはいってるこ、おおいよ」
「よそはよそ! どうしても大人と入りてぇんなら、俺が一緒に入ってやる」
「せまくなるからやだ。おとうさん、かさばるもん」
「スレンダーなダディに向かって何言ってんだぁ!? 俺の体積は変わってねぇんだよお前がでかくなっちまったんだよ!」
「だから、かさばらないおかあさんとはいるの。ぼく、もともと、おかあさんのいちぶだったんでしょ? だったら、おかあさんとはいっても、おかしくないもん。おとうさんなんて、おかあさんにうんでもらってないくせにー」
「理央が分裂してお前が殖えたわけじゃねぇぞ!? 俺が半分入ってんだよそこんとこ理解しろよ!? 大体なぁ、」

佳月の前に膝をつき、もちもちした頬を両側から軽く引っ張りながら、唯一はふと真顔になって声のトーンを平常に落とした。

「血ぃ繋がってりゃ偉いってもんじゃねぇだろ? 時間や気持ちが大事なんだよ。血の繋がってねぇ家族なんていっぱい居る。お前、そういう人達に、同じこと言えるか?」
「……あ。そうらね」
「自分が間違ってると思った時は?」
「ひゃい。ごめんなひゃい」
「うん。宜しい」

佳月の頬から手を離して立ち上がった唯一が、纏まりかけた話を自らぶち壊す。

「つまり! 理央との付き合いが長い俺のほうが偉い!」
「えーなにそれー。いいおはなしはどこにいったのー」
「っせぇなお前より四年も長ぇんだぞざまぁみろー悔しかったら追い越してみろー」
「えーとえーと、ろくねんせいになったらおいこせるもん!」
「そしたら俺も五年分歳取るんだよ、ちゃんと算数勉強しろやばーかばーか」
「あー、わるいことばつかったらいけないんだよー」

互いの頬をめりめりと引っ張り合う父子の横で、理央は微かな溜め息をついた。

「ゆえに! 妥協策として! 今日は俺が理央と一緒に風呂入る! 二人とも異存は、」

ぱたん。

「あっ、ひでぇ」

佳月の腕を引き、理央はリビングのドアを閉めて脱衣所へ向かっていた。

「理央? ねぇちょっと理央さーん? ひどいんじゃありませんかー? うぉっ、ヤベぇ」

途中で放り出したゲームが大惨事になっていたことに気付いたらしき唯一の声が、空しく後を追った。

天原家はとにかく、会話が極めて多い。
父子は常に、小型犬と大型犬のように戯れ合っている。
かといって友達感覚でもなく兄弟感覚でもなく、甘過ぎず厳し過ぎず。
三人が絶妙な距離と感覚を保ち、実に理想的な家庭と言えた。

平和だ。
絵に描いたように平和だ。

にもかかわらず。
理央には一切――表情が、無かった。


相手を思い遣った言葉も掛ける、時に冗談も言う。
しかし、表情や口調は変化しない。
感情が無いわけではなかった。
起伏が少ないだけで、喜哀楽は持ち合わせている。

(そういえば)

喧嘩というには微笑まし過ぎる、表情豊かな父子のやり取りを思い返しながら、理央は二人分の服をランドリーバスケットに入れる。

(私が最後に怒ったのはいつだった?)

――お前、怒ることって無ぇの?

11年前、いつものベンチで、唯一は確かにそう言った。
11年間、怒った記憶は無い。
ということは、それよりも前。

(……忘れた)(いつどこに落としてきたのか、忘れた)

佳月のふわふわした鳶色の髪とほっそりした身体を丹念に洗ってやる。
それから自分の身体を洗おうとすると、自分でシャワーを頭から被っていた佳月が朗らかに振り向いた。

「きょうはねー。ぼくが、おせなか、ながしてあげるー」
「あ、はい。ありがとう」

そう答えて肩に掛かった髪をぱさりと後ろへ払った理央の、一児の母らしからぬ若々しい身体には。

左鎖骨の上から腋へかけての、大きな裂傷。
右脇腹から腰へかけての、大きな裂傷。
左肘や右腿の外側にも、大きな裂傷。
臍の左横には、半円状に不規則に並んだ、ミシン目のような傷もある。
犬の牙の跡に似ているが、通常、犬はこういう噛みにくい箇所には噛みつかない。

タオルにボディソープをせっせと泡立てた佳月が、理央の後ろに回り、得意気に擦り始めた。

「いたくない?」
「ええ。上手です」

痛くないか、という問いは、強く擦り過ぎて痛くはありませんか、という意味ではなかった。
背中一面には夥しい数の小さな裂傷があり、右肩に至っては肩甲骨全体を覆う大きな火傷がある。

「でもね、コレ、つよくこすったら、ちがでたりしない?」
「大丈夫」

生来「何かをしてもらう」ことが苦手な理央は、手持無沙汰に両サイドの髪をかき上げて、首の横で緩く束ね直した。
髪に隠れていた、一際大きな傷が現れる。
左の眉尻から耳のほうへ、裂傷が走っていた。

「ソレは全部、ずっと昔の……予防接種みたいなものでね。もう、痛くないんですよ」

自嘲でも皮肉でもなく、理央は本気でそう思っている。
大人になるために必要だった、免疫。

「でもね、コレ、」

佳月は、物心つく前から接してきたこの姿を忌み嫌ったりはしない。
無数の古傷を小さな手でぺたぺたと撫でてから、深い考えは無さげに、訊く。

「いたかったでしょ?」

その問いは予想していなかった。
数秒の空白を置いて、理央は首だけで振り返る。
佳月は、理央の背中にぴたりと張りついて肩越しに顔を覗き込んだ。

「だって、えだにうでひっかけただけで、すっごくいたいんだよ。ねー、どうしよう。もしぼくが、」

もしも僕がこんなに怪我してしまったらどうしよう、という子供らしい質問が想定された。
それへの返事を心の中で組み立て始めた時、

「ひとにこんなにおけがさせちゃったら、どうしよう。ぼく、いたいことしたくないよ」

二度目の、予想外の問いが飛んできた。
用意しかけた返事が消し飛んでしまった理央は、暫し佳月を見つめた後、小さな頭をそっと撫でた。

「コレを見て『痛かっただろうな』と思えるなら、あなたは大丈夫。想像力が健康な証拠です」

泡を流してから、佳月をバスタブに入れてやる。

「誰かを傷つけないようにする方法は、ちゃんとお母さんが教えます」
「うん。……じゃあ、ぼくがいたいことされたら? どうしたらいいの?」
「誰かに傷つけられないようにする方法は、きっとお父さんが教えてくれます」
「あ、そうだよねー。ねーねー、そういえばさー」

ざばざばとバタ足で水面を波立てながら、佳月はバスタブの縁に顎を乗せた。

「おとうさんとケーキかいにいったとき、おとうさんがいってたよ。ぼくとおとうさん、それぞれいっかいずつ、おかあさんにいたいことしてるの」
「そんなことしましたか?」
「ぼくはねー、うまれたときだって」
「……ああ、確かに。これはちょっと死ぬかなぁ、と思いました。でも、お父さんに痛いことされた覚えは、」
「おとうさんはねー、ぼくがうまれるじゅんびをさいしょにしたときだって」
「……」

無邪気な言葉に軽い眩暈を覚え、理央は蟀谷を押さえた。

「……えっと。何故、ケーキを買いながらそういう話題に……」
「だから、ね。ぼくたちは、おかあさんに、もういたいおもいさせちゃいけないの。ふたりでまもってあげなきゃいけないの。って、おとうさんがいってたよ」

理央の表情は変わらない。
眼だけが微かに見開かれた。
佳月はバタ足を止めてにこやかに見つめている。
やや長い沈黙の後、理央は再び、小さな頭をそっと撫でた。


二人でリビングへ戻ると、未だソファに寝そべっている唯一は、漫画の山を更に崩してそのうちの一冊を読んでいた。
たぱたぱと走り回る佳月にそれを渡して立ち上がる。

「お帰りー。んじゃ、入ってくるわ。……どうした?」

正面に立って無言無表情で見上げている理央に、唯一が不思議そうに訊く。
その頬を、理央は先ほどの父子同士のように、両手できゅうっと引っ張った。

「7歳児に何教えてるんですか?」
「へっ、な、何? 何のこと!?」

引っ張った位置を暫く保ったまま見上げていた理央は、手を離すと、佳月の飲み物を出すべくキッチンへ向かった。
途中で立ち止まり、ぽつりと言う。

「……ありがとう」

やはり表情の変化など無く、そもそも背を向けていたが、唯一はやはり不思議そうに声を掛けた。

「何が? っつーか……何で、風呂から出てくるなり照れてんだよ?」


寝つきの悪い佳月が自分の部屋のベッドで眠りに落ちるまで、理央はベッドの傍らに座って話をしていた。
本を読み聞かせるにせよ、その日の他愛の無い出来事を語り合うにせよ、理央の声にはあまり抑揚が無い。
が、理央が何を話しても、佳月はけらけらと本当に楽しそうに笑い転げる。
笑い疲れて眠った佳月の掛け布団を直しながら、理央は毎日、思う。

――ぼく、もともと、おかあさんのいちぶだったんでしょ?

(でも……あなたの良いところは全部、唯一さんがくれたもの)
(だから……あなたは、幸せにならなきゃいけない)
(私が知ってることは全部教えよう。私を頼るこの手を突き放さないようにしよう)
(いつか、あなたが、自分のためだけに生きていけるように)

眠る寸前まで理央の手を握っていた小さな手をそっと掛け布団に入れ、理央は寝室へ向かう。


真夜中。
ベッドの右側で、理央は眼を開く。
傍らでは、唯一が、充分な広さがあるにもかかわらず理央に抱きつくようにして静かな寝息を立てている。
短い眠りの後のうっすらと靄のかかった思考のまま上体を起こし、自分の着衣の乱れを直す前に、唯一に視線を落とす。
ほぼ脱げかけているパジャマを着せることは諦め、その肩に掛け布団を引き上げた。

前触れも無く、よく知っている鋭い頭痛が走る。
思わず耳の上の古傷の辺りを左手で押さえ、瞼を閉じて微かに呻いた。
誰も見ていない時でさえ、表情が変わることはない。

恐る恐る眼を開く。
予想はしていたが、やはり眼を見張らずにはいられない。

見渡す限りの屍の丘。
煌々と眩しい蒼白の満月。

現実の存在は、理央自身以外、全て失われていた。
唯一も。ベッドも。壁も、床も、天井も。

瞬きも忘れて、暫し見入る。
が、決して魅入られることはない。
起き上がった時のまま素足を投げ出して座っていた理央はやがて、最も近い場所に伏している屍の手に触れようと、座ったまま少し前屈みになってそっと右手を伸ばした。

触れた、と思った途端。
幻が掻き消え、暖かい世界が復旧する。
所在無さげに右手をぱたりと掛け布団の上に下ろし、未だ遠くを見たまま、理央は呟いた。

「……今日も……青いほう、か……」


(アレは、幻覚……ということさえ理解していれば、別に危険なモノじゃない)

着衣の乱れを直すのもそこそこに、理央は今、自室のデスクの前に居る。
主婦が自室を持ちにくい現代日本の住宅事情の中、家を買った時に唯一が最初に決めたのが、理央の部屋だった。
灯りも点けていない室内では、ノートパソコンが海外の論文のPDFを開いている。

(私の場合……触れようとすると確実に消える。より原始的な感覚の触覚が、視覚情報の認識のズレを修正するのかも)
(幻覚の出現に、規則性は無い。頭痛がしたからといって現れるとは限らないし、頭痛がしなくても現れたりする。頻度も間隔もばらばら……そういえば、赤いほうは、随分長い間視てない)

理央の幻覚は二種類ある。
「青いほう」と呼んでいる、蒼白の満月とその下の屍の丘陵。
「赤いほう」と呼んでいる、真紅の満月とその下の無の平野。
出現率が高いのは、圧倒的に“青いほう”だった。

――誰にも言えなくて、けど安心材料が欲しくて、今までそんなに調べてきたんだろ? なら、そろそろ安心してやれよ。

(結局……私に安心をくれたのは、どんな資料でもなく、唯一さんの言葉)
(あの幻は、私の心身に何の害も与えない。襲い掛かってくるわけでも、視る度に正気が失われていってるわけでもない)
(あの幻は……一生、共存出来る。大丈夫、アレを何回視ても、私は社会に何の害も与えない……)

自分に似た症例の資料をかなりの量、理央は蒐集していた。
プリントアウトされた様々な言語の行間には、日本語訳が、全て乱雑な手書きで記入されている。
それらは「幻覚を視る」という苦悩を軽減してくれる安心材料にはなっていたが、数多く照らし合わせてみるほど、別の煩悶が深くなるばかりだった。

(……不安材料があるとすれば)
(精神科的要因ではなく脳外科的要因の場合……左側頭部や視覚経路などの損傷で視る、所謂“正常な幻覚”には……幸福なイメージが多い、ということ)
(神々。天使。暖かい光。楽しげな人々。童話のような動物達。等……)

深い溜め息をつき、理央は立ち上がる。
カーテンを少し開けてみると、夜空には、幻よりも不鮮明な現実の三日月が浮いていた。

(……不安材料……がある、とすれば……、)
(恐ろしい筈のあんな景色を、私が「怖い」と感じない……ということ。もしかすると、あれを幸福のイメージとしているかもしれない……ということ……)


冬の遅い日の出前、いつも通り理央はキッチンに立っている。
今朝は珍しく、佳月と同じ色のセミロングの髪を、左側で一つに纏めて胸元に垂らしている。

大判の二段の弁当箱に副菜を詰めていると、階段を降りてくるスリッパの音が聞こえてきた。
それが次第に近づき、パジャマを着崩した唯一が、ダイニングへのドアを開けて入ってくる。

「おはようー」
「おはようございます。随分早いですね、もう少しゆっくり寝てても……」
「いやぁ何か早く目ぇ覚めちまってさ。朝飯、作ってていい?」

シンクで手を洗ってから丁寧に拭き、唯一は冷蔵庫を開ける。

「それくらい私が、」
「何故かやたら腹減ってんだよ。こっちは用意するから、その分、弁当凝ってくれたら嬉しい」

菜箸を探してよそ見をしながら、唯一は左手だけで卵を次々とボウルに割り入れていく。

「……もう、出来てます。今日のはかなり本気で凝ってみました」
「お、以心伝心だねぇ。今日の髪型可愛いな、どうした?」
「……こうしておかないと、外に出られません」

弁当箱の中を隠すように蓋をした理央が、俯きがちに答えた。
ボウルの中を見たのは調味料を選んで入れる時だけで、手際良く混ぜ始めると唯一は再び理央のほうを向く。
じっ、と理央の横顔を見てから、それまで眠そうだった口調が変わった。

「あー! まだ拗ねてんのかよー」
「……拗ねてません」
「機嫌直してくれよーちょっと焦らしただけだろー」
「……あなたの『ちょっと』って何時間なんですか」
「お前が何年間も可愛いせいだ。つまりお前が悪ぃ」
「……外出に困るほど首に跡つけまくられたのも私が悪いせいですか」
「はい違います調子に乗りましたごめんなさい。あ、それで腹減ってんのか俺」

唯一は実によく喋る。
喋ったからといって料理の手が止まるわけではなく、料理の手を動かすからといって喋るのが止まるわけではない。
呼吸するように喋り続け、しかも耳障りではなかった。

「週末、どっか行きてぇとこある?」
「佳月が、秋葉原に行きたいって言ってました。それから、あなたのインナーが傷んできてるので、それも買っておきたいですね」
「……お前の希望が抜け落ちてんだけど」
「主婦ってそういうものです」
「欲しいもんとか食いてぇもんとか、ほんとに何も無ぇの?」

弁当を包む手をふと止め、何か考える時の癖なのか、少し視線を上げて宙を見つめてから、理央はまた俯いて答えた。

「……そういえば、食玩の新作が出ました。外食は……あなたのオススメならハズレは無いので、何でも」
「んじゃ、アキバ経由でー、うーん佳月は何食いてぇかなぁ。っつーかあの歳でアキバ通いしてていいのか」
「あなたのマイナス英才教育のお蔭です」
「俺だけのせいか? ありゃマイナスサラブレッドだろ」

卵料理専用の小さな丸いフライパンに溶き卵を流し込んで弱火にかけ、膜を作っている間に冷蔵庫から六枚切の食パンの袋を出す。

「一斤全部使っていい?」
「ええ。どうぞ。ほんとに燃費悪い人ですね。今から行くのは役所であって、ロードレースじゃないでしょう」

食パンをトースターに入れてからガスコンロの前へ戻る。
火を使うことにこだわる唯一は、頑なにIHへのリフォームを拒んでいた。

「一斤ならハーフサイズしか作れねぇって。けど、自転車通勤もいいかな、健康的かつ経済的。自転車買っていい?」
「それ以上健康になって何を目指すんですか。あと、食費で破産します。漫画とアニメとゲームとラノベとグッズにかけてるお金を全部カットするならいいですよ」
「うわ、じゃあ健康要らねぇ」

理央のほうを向いて答えながら、フライパンの柄を握った左手の手首だけを軽く振ると、いつの間にかふわふわに焼かれて半分に折られていたプレーンオムレツがひらりと裏返しになった。
火を止めて余熱で焼きつつ、唯一は溜め息混じりに別の話へ飛ぶ。

「何で二人目が出来ねぇのかなぁ。俺の計画だと、佳月の後に、少なくとも六人は生まれてる筈だったんだけど」
「単に、出来にくいんでしょうね。佳月が生まれたのは奇跡だったのかも。っていうか年子で七人産んだら、私のライフはもうゼロです」
「その佳月がさぁ、きょうだい欲しいって言うんだよ」

――ねーねー、ぼく、おにいちゃんかおねえちゃんがほしい!
――そりゃ不可能じゃねぇが、今んとこ考えてねぇ。弟か妹で良ければ、日々弛まず努力してんだけどなぁ。
――ほんと? いつうまれるの?
――そりゃコウノトリさんとかキャベツさんとかに訊いてみなきゃ分かんねぇ。
――そうなの? あ、じゃあね、いとこがほしい! ぼく、いとこいないよ!
――そりゃ一番難易度高ぇよ叔父さんか叔母さん作るとこから始めなきゃなんねぇんだよ……。

「俺の計画だと、佳月の前に、少なくとも一人は生まれてる筈だったんだけど」
「……結婚前から産ませるつもりだったんですか?」
「うん。そうでもしなきゃ結婚してくんねぇかなぁ、って。気付いてなかった?」
「私がそんなの気付くわけないじゃありませんか」

クォーターサイズのキャベツからラップを外し、軽快に、というよりもあり得ない速度で千切りにしながら、唯一が真顔で続けた。

「大和撫子はそりゃ国宝だけどさぁ、一度でいいからお前のほうから誘ってくんねぇかなぁ」
「……疲れて帰ってくる人にそんなことしません」
「俺、疲れて帰ってくることなんて無ぇだろ」

理央とは対照的に、というよりも対極的に表情豊かではあるが、唯一は基本的に、揶揄い、躊躇い、恥じらい、といった表情や口調にはならない。
自慢や卑下もしない。
食パンの話と全く同じ調子の、平静、平常、力の抜けきった自然体の状態で喋る。
とりあえず、両手と刃物を使う時はさすがに手元を見ていた。

「どうして一日働いて疲れないんですか。真面目にお仕事してますか」
「公僕の鑑だよ? お前が一番よく知ってるだろ?」
「お昼時と終業時に私の部署にすっ飛んできてたあなたしか知りません」
「んじゃ、豊雲とよくも次長に確認してみろよ俺すっげぇ扱き使われてっから。疲れねぇっつーか、疲れてても帰ったら元気になるんだよ」
「じゃあ、次長に電話しておきましょうか。三倍くらい扱き使って頂いても大丈夫そうです、って」
「何それ保険金殺人? 次長自体の性能が通常の三倍なのにその下で三倍とか死ぬよ? 俺のほうこそ、お前が疲れてるだろうなぁ、ってだいぶ遠慮してんだけど」
「遠慮してたんですか。週休二日制の時代に逆行してるんですけど」

俯いたまま林檎を剥いている理央の横にすすっと寄り添い、唯一は盛り付けを始める。
その動きと速さでは乱雑にしか盛れないであろう、というような一連の動作で、瞬く間に見事なワンプレートをニ皿完成させた。
あと一枚の皿にだけ、八枚切りトースト一袋を全部使ったタワーのようなサンドイッチを乗せる。

「コレでも足りるかなぁ。単に夜中にカロリー消費したから腹減ってる、ってだけじゃなくて多分、夜中に食い足りなかっ」
「今、朝です」
「よーし今夜こそは手ぇ繋ぐぐらいにしとくぞーって思っててもさぁ、眼ぇ合っちまうと決意が理性ごとぶっ飛んでついうっかり乗っかっ」
「今、朝です。朝に相応しい話題お願いします」
「お前の反応って、反則だよな。俺いっつも鼻血出そうになる」
「今、私は吐血しそうです。……倦怠期って知らないんですか?」
「知らねぇ。俺の辞書には載ってねぇ。あれって、どういう努力すればなれんの?」
「さぁ……私も知りません。……もうすぐ佳月が起きてきますよ」
「うん。だから?」

ドアが開き、ぬいぐるみの白い猫を小脇に抱えた、パジャマ姿の佳月が眠そうな顔で現れた。
林檎を剥き続けている理央の肩を唯一が抱き寄せて横顔に軽くキスした瞬間だった。

「おはようございます」
「おはよーございまー……あー、またべたべたしてるー! かえしてよー」
「はいおはよう、お前のじゃねぇっつってんだろ」

たぱたぱとスリッパを鳴らしてキッチンカウンターを回り込んだ佳月は、理央の足へタックルするようにしがみつき、唯一とは逆の方向へ全力で引っ張る。

「やーだーはなれてー」
「お前が離れろよ、お前には猫さんが居るだろーが!」
「おかあさんも、ねこさんも、ぼくのなのー」
「そんな強欲な生き方してっと金の斧も大きいツヅラももらえねぇぞ!? 『貸して下さい』って言ったら貸してやる! ジャムは何にする?」
「いちじくー」
「……ウエストの辺りから千切れそうなんですが……」

平和だ。
こんな朝がきっと、永遠に続くのだ。